人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

禅語を愉しむ-- 日々是好日 ーー

2018-12-24 16:50:48 | 日記

『禅語カルタ百句』の三回目は「日々是好日」(にちにちこれこうにち)です。

晴れてよし降ってまたよし曇りよし。

晴れの日も雨の日も、楽しい日も辛い日も、その一日一日が最上最高で、かけがえのない日である。という意味で、唐代の禅僧で雲門宗の祖とされる雲門文偃(うんもんぶんえん)の言葉です。解説では、過去を悔やまず、未来に望みを託さず、主体的に今、ここのみを生きる安心立命の境地と書いてありました。また山岡鉄舟の言葉「晴れてよし、雨降りてよし、ふじの山、もとの姿は変わらざりけり」を紹介しています。

とは言っても、新幹線に乗って三島駅を過ぎる辺りからそわそわする凡人の私としては、こういう境地にはなれません。特にカメラを持った外人の観光客の親子連れがいようものなら、間違いなく晴れていて欲しく、富士川鉄橋からみる雄大なふじの姿をみせてあげたいと思います。日本人のDNAには間違いなく富士の山の姿が刷り込まれています。

写真は鎌倉山から写した富士山。最近は晴れている日が少なくなかなか富士の姿を見ることができませんでしたが、朝から快晴だった今月14日に撮影したものです。

ついでながら、源頼朝も『新古今和歌集』で富士山の歌を詠んでいますので紹介します。

道すがら富士の煙もわかざりき晴るる間もなき空のけしきに

やはり天気を気にしている源頼朝の様子を知り、富士山を見たい気持ちは同じだと親しみを感じました。

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禅語を愉しむ-- 寶所在近 ーー

2018-12-23 15:48:16 | 日記

禅語ではないと思いますが、浄智寺の外門(総門)に「寶所在近」の扁額が掛けてあります。その意味については諸説ありますが、私なりに解釈したものを紹介します。前々回のこのブログで「直指人心 見性成仏」という禅語を載せましたが、私自身はそれと対になるものと理解しています。

それは法華経のなかにあるということなので、調べてみますと、岩波文庫『法華経 中』(坂本幸男・岩本裕訳注)の妙法蓮華経巻第三に化城喩品第七に「寶所在近」という字句がありました。

「寶處在近。此城非實。我化作耳。」(宝処は近きにあり。この城は実にあらず。われの化作せるのみ。)

拾い読みですが、「案内人が僧たちを導き煩悩の密林を通り抜けようとしますが、その道は果てしなく遠く、抜けるのは容易ではありません。僧たちは疲れ果て挫折しようとしますが、案内人は神通力で都城を造り、僧たちを休ませ、励まします。そして気力を取り戻した頃にその都城を消し去り、化城であったとたねを明かします・・・」といったことが書かれています。

どうも、「本来めざすべき悟りへと導く手段として方便もいかされる」という意味のようです。元々この「寶所在近」の扁額は無学祖元の筆によると『新編鎌倉志』に書かれていますので、北条時宗の公案を解くことへの執着を戒めるために無学祖元が北条時宗に送った言葉かもしれません。

浄智寺は、この外門をくぐれば鎌倉石の階段があり、その先には化城にも見える唐様の鐘楼門、そして仏殿の三世仏。さらには鎌倉七福神にもなっている布袋尊(弥勒菩薩の化身)。この布袋尊が指差すのは、公案による直接指導を説く「直指人心 見性成仏」の意味か・・・?

この境内整備されたのは昭和になってからと言われてますが、もし私の妄想するストーリーで設計されていたとすればこんなに愉しいことはありません。

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禅語を愉しむ-- 行住坐臥 ーー

2018-12-22 16:43:06 | 日記

『禅語カルタ百句』の2枚目は行住坐臥(ぎょうじゅうざが)。

人生、なにも難しいことはない。歩いて停まって坐って寝る。たったそれだけ。

解説では、仏教の説く戒律や規則を守っていく中で、行く・住する(止まる)・座る・臥す(寝る)を注意深く行うこと。転じて、日常のすべての立ち振る舞いを意味し、仏教用語で「四威儀」といわれ、『華厳経』等にみえると書いてあります。仏教の修行では、どんな時でも常に一呼吸一呼吸・一挙手一投足すべての起居動作の中に修行があるとされます。

写真は陽だまりに坐する猫くん。浄智寺の境内で写しました。この猫くんも無心に行住坐臥を行じ、冥想しています。つきつめて考えれば、人生もこの猫くんと同じで、歩いているか、止まっているか、坐っているか、寝ているか、ただそれだけ。考えすぎると、かえって道を誤るかもしれないとありますが・・・。

そう言われても、人生の折り返しを過ぎてもまだパソコンに向かってあくせくしている姿をみると、真似をしたくてもとても猫くんの境地にはなれません。そう思う心があることが、まだ修行がたらないようです。

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禅語を愉しむ-- 直指人心 見性成仏 ーー

2018-12-21 18:46:30 | 日記

京都妙心寺の花園会館で『禅語カルタ百句』(じだんだ発行)という書籍を求買いめました。読んで、覚えて、遊ぼう!という禅語カルタの解説本ですが、初級編から上級編まで100の禅語が紹介されています。このブログでも気が向いたときに紹介していきますので楽しみにしてください。

最初は「直指人心 見性成仏」という禅語。白隠禅師も達磨大師の肖像画とともにのせています。達磨大師の弟子である神光(のちの慧可)が訪ねてきて、「どうか私の心を落ち着かせてください」と問います。達磨は「その不安な心を持ってきなさい。落ち着かせてあげよう」と答えます。その後神光は「不安な心を探しても、とらえることができません」と答えました。そこで達磨は「それだ!とらえることのできない心こそ君の心なのだ。私はすでに、君の心を落ち着かせてあげたよ」。この短い問答がこの禅語の意味であると・・・。まだチンプンカンプンで理解できません。どうも「教理や経典に頼らず、師と弟子とが直接向かい合って具体的なやりとりの中で仏法の真髄を伝授して悟らせること」ようです。

ずばっと心を指し示し、人を安心の境地にみちびく。それ、それだ!

この姿、どこかで見たことありませんか?浄智寺の布袋尊はなにやらニコニコしながら指を指し示しています。この布袋尊は大慶寺に安置されている大休正念像に似ていますが、大休正念は北条宗政の篤い帰依を受けていたことから浄智寺の開山になりました。宗政の兄である時宗も大休正念のもとに通いその教えを受けており、大休正念は時宗の禅を学ぶ心に対し「即心即仏 非心非仏 (この心こそ仏にほかならないの意)」の宗旨を示しています。この師の教えは「ずばっと心を指し示し、安心の境地にみちびく」ものだったようです。まさに達磨の教えですね。

人物叢書『北条時宗』の著者である川添昭二氏は、時宗の大休正念に対する問答を「公案ずれの知的遊戯の傾きがあり、無学祖元がこれを是正しようとした」と書いています。時宗は父である時頼が蘭渓道隆のもとで大悟したことにコンプレックスを持っていたとも言われています。浄智寺の総門の扁額の言葉は「宝所在近」。この言葉は無学祖元が書いたものらしく、公案を解くことがすべてでないと伝えたかったのかもしれません。

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鎌倉を知る ーー カワセミをさがせ!! ーー

2018-12-13 17:09:36 | 日記

ひと月前の11月17日に広町緑地でカワセミを見つけました。最近はカワセミが増えたようで、横浜市栄区のいたち川の遊歩道でも見たばかり。運が良いというより、個体数が増えたのかもしれませんね。それだけカワセミの餌となる小魚のいる小川が整備されたと考えられます。

ところで写真の中にカワセミがいますが、さてどこでしょう?小型のデジカメではこれが限度。よくみて見つけてください。

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