人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る --『徒然草』から貨幣の流通を推測する?--

2024-03-08 15:23:11 | 日記

『徒然草』の作者である兼好法師は、推測ではありますが、弘安六年(1283)頃に生まれ、観応元年(1350)頃(もっと長生きしたという説もあり)まで生きました。生まれたとされる前年には弘安の役があり、騒乱にあけくれた時期です。鎌倉幕府の執権は、北条時宗、貞時と続き、鎌倉幕府の滅亡を目の当たりにしています。なかでも六波羅探題であった金沢貞顕(1278-1333)とは親しく交わり、その縁で兼好は鎌倉には二度下向し、金沢に住んでいました。そして『徒然草』は元弘元年(1331)頃には成立していたとする説が有力です。(『徒然草』の歴史学(五味文彦)による)

だいたい時代感覚がつかめたところで、今回『徒然草』を取りあげたのは、文中からその当時生きていた人々の暮らしぶり、特に銭(お金)にまつわる話題を取りあげたかったからです。そこで道案内として『『徒然草』の歴史学』(五味文彦著 角川ソフィア文庫)を参考にしました。全部で243段ある『徒然草』から目的の個所を見つけるのは容易でなく、五味先生のこの本があったおかげで大変助かりました。

まず北条時頼の質素な暮らしぶりついては、第215段(北条宣時との話題)、216段(足利義氏との話題)、第184段(時頼の母である松下禅尼の話)にありますが、この話は以前このブログで紹介していますので省略させていただきます。次は第120段に出てくる唐の物(中国からの渡来品)の話です。(『徒然草』は新潮日本古典集成(木藤才蔵校注)による)

「 唐の物は、薬の外は、なくとも事欠くまじ。書どもは、この国に多く広まりぬれば、書きも写してん。もろこし舟(中国船)の、たやすからぬ道に、無用の物どものみ取り積みて、所せく渡しもて来る、いと愚かなり。(一部略)。」とありますが、兼好は唐物の贅沢品には批判的でした。これをみても、市中には相当量の中国からの輸入品が溢れていたようです。次は財産についての第38段。

「財多ければ身を守るにまどし、害をかひ累を招くなかだちなり。身ののちには金(こがね)をして北斗をささふとも、人のためにぞわづらはるべき。・・・。金は山に捨て、玉は淵に投ぐべし。利にまどふは、すぐれて愚かなる人なり。」と、利殖にも否定的です。さて第93段には、「万金を得て一銭を失はん人、損ありといふべからず」という箇所があります。一銭とは一文銭のことであり、すでに貨幣の単位があったことがわかります。次の第108段も同様に一銭が出てきます。

「寸陰惜しむ人なし。これよく知れるか、愚かなるか。愚かにして怠る人のために言はば、一銭軽しといへども、これを重ぬれば、貧しき人を富める人なす。されば、商人の一銭を惜しむ心切なり。・・。」と、ここでも貨幣や商人の話が教訓めいた話として紹介されています。

兼好が生きた時代は、北条泰時や時頼が活躍した時代から50年から60年経っていますが、令和の時代に昭和を懐かしむようなもので、時の経過は然程ではありません。北条泰時の頃から流通量が増えた貨幣は兼好の頃には当たり前のように流通していたと考えても間違いではないかと思われます。

写真は葉っぱに溜った水玉。不思議に光があたれば宝石のように見えます。

 

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 鎌倉を知る --看話禅(か... | トップ | 「幸い」の人 藤原道長 に迫る »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事