人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る ーー文献にみる北条泰時の人物評価ーー

2021-09-26 08:39:38 | 日記

最近、北条泰時愛が嵩じて恥ずかしいと思いながらも某ガイド協会のホームページに泰時の話題を掲載してしまいました。その内容は江戸時代まで続く武家支配の基盤を築いたのは北条泰時その人ではないかという推測記事です。その後『神皇正統記』に北条泰時について書いてあるので参考にしたらというアドバイスをいただきました。本の名前は聞いたことはありますが、読んだこともない本です。調べてみますと『神皇正統記』は北畠親房の著作で『愚管抄』と並び中世を代表する史論のようです。作者の北畠親房は後醍醐天皇に重臣三房の一人として大変重用された人物でした。以下はその『神皇正統記』の抜粋です。

大方泰時心ただしく政(まつりごと)すなほにして、人をはぐくみ物におごらず、公家の御ことおもくし、本所のわづらひをとどめしかば、風の前にちりなくして、天の下すなわちしづまりき。かくて年代をかさねしこと、ひとへに泰時が力とぞ申伝ぬる。陪臣として久しく権をとることは和漢両朝に先例なし。・・。彼泰時あひつぎて徳政をさきとし、法式をかたくす。己が分をはかるのみならず、親族ならびにあらゆる武士までもいましめて、高官位をのぞむ者なかりき。・・。七代までたもてるところ彼が余薫なれば、恨ところなしと云つべし。・・。頼朝と云人もなく、泰時といふものなからましかば、日本国の人民いかがなりなまし。

また吉川英治の『私本太平記(1~8)』を見ますと随所に『神皇正統記』を参考にしたと思われるところがありますが、その人物評を一部抜粋してみます。

よく民になつかれて、民治と仁政に心した三代の名主北条泰時、武門のつつしみを知って、宗教や学問を振わせた五代最明寺時頼、また、元寇の国難の日をよく耐え凌いだ八代北条時宗 ー。

北畠親房や吉川英治の北条泰時の人物評価をみますと、さらに泰時愛が増してきます。

なお鎌倉市内で北条泰時ゆかりの場所は、和賀江島、宇都宮辻子幕府跡、若宮大路幕府跡、東勝寺跡、朝比奈切通、常楽寺、成福寺などです。南・東・北の端と一日で歩くのは無理な距離ですが、一度訪ねてみてはいかがでしょう。写真は大船にある常楽寺の参道です。

 

 

 

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渋皮付きマロングラッセにチャレンジ

2021-09-24 10:35:00 | グルメ

中秋の名月は雲に隠れて見れませんでしたが、栗が手に入りましたので渋皮付きのマロングラッセ作りにチャレンジしました。栗ご飯のために外皮を全部むき渋皮が残った栗を使うことにしました。個数は11個。栗の重量は250グラムです。ともかく全く初めてなのでまずネットでレシピを検索。そのレシピに忠実に作ることにしました。レシピは10人分、栗1kgになっていますので、材料はすべて4分の1の分量で砂糖250グラム、ラム酒8cc、あとは水だけです。

1.渋皮の筋を取り除く

渋皮の筋を取りやすくするために、栗を入れた鍋に栗がかぶる程度水をいれ、まず煮たせます。煮立った火を弱火にして20分位煮ます。これを3~4回繰り返し、渋皮が柔らかくなったなら、筋や余分な渋皮をきれいに取ります。さらに栗の底面を水平にカットします。この作業は根気さえあれば2~3時間で完了します。

2.砂糖を加え、栗をじっくり煮る

この工程がポイントです。栗の入った鍋を火にかけ、煮立ったら火を弱め20分位煮て、用意した砂糖250グラムの1/5(50g)を入れ、砂糖が溶けるまで煮込みます。溶けたら火を止め、一晩寝かせます。この作業を5回(5日)繰り返します。この作業は栗の入った砂糖水の砂糖の量が飽和点になれば溶けきれず結晶化するので、結晶するまで繰り返すことになります。レシピには水の量は書いてなっかったので鍋の大きさ、水の分量がよく分かりませんでした。当然に水が多ければ投入する砂糖の重量も多くなるはずです。私の場合は、最初は中鍋でスタートしましたが、途中で小鍋に変えました。ただ結晶化する時には煮汁が殆どなくなり、次の工程に進むのに苦労しました。

3.栗をコーティングする

2の工程が終われば、栗の表面に塗るシロップを作ります。好みでラム酒(8cc)を入れ香りづけする。私の場合はこの工程が上手くいきませんでした。2の工程で煮汁が固まり、湯煎して溶かすのに苦労しました。それでもなんとかシロップを作り砂糖漬けの栗にコーティングして作業を終えました。

写真は出来上がったマロングラッセです。一つ試しに試食しましたが、栗は柔らかく、砂糖もほどよくしみて、思った以上の出来でした。密封容器に入れて冷蔵保存すればさらに美味しくいただけると思います。想像以上に時間と手間のかかる作業でした。

 

 

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妄想のすすめ ーー鎌倉時代オーロラ最接近の記事を読むーー

2021-09-20 16:28:09 | 日記

週末の読売新聞夕刊に「鎌倉時代オーロラ最接近」、藤原定家が目撃「赤い光」という記事がありました。内容は国立極地研究所などチームがオーロラが日本で最も見えやすかったのは鎌倉時代の1200頃だったと発表しました。それを裏付ける内容が藤原定家の『明月記』に出て来るという話題です。『明月記』には、1204年2月の2日間、京都の夜空に「赤気(せっき)」(空の赤い光)が現れ、「山の向こうの火事のようだった」という趣旨の記述があると記事には書いてありました。当時はオーロラなんて科学現象を知るはずもなく、その異常さに大変びっくりしたのだと思います。

さらに記事には、オーロラは、太陽から噴き出した粒子が、地磁気に沿って地球に降り注ぐ際に大気が発光する現象。また地磁気は時代によって変動し、オーロラ帯の位置もずれ動くとしています。鎌倉時代にオーロラが日本の京都でも見られるほどの地磁気の乱れ(磁気嵐)あったとすれば、今なら停電など被害が生じる恐れもありますが、電気もない鎌倉時代にどんな影響があったかは妄想するしかありません。総務省より「電波の人体に対する影響」という研究結果が発表されていますが、携帯電話などの微弱な電波の影響を調査したものであり、地磁気が乱れるほど太陽から出る電磁波の人間に与える影響までにはふれられていません。多分皆無ではないと思われます。

また『吾妻鏡』の1204年2月前後の記事に異常気象の記録はありません。そこで当時の事件を拾ってみることにしました。建仁3年(1203)9月に比企氏の乱が起き、将軍頼家は出家し、実朝が将軍になります。建仁四年(1204)3月には改元され元久となり、7月には頼家が修善寺で殺害されました。この大事件とまれにみる地磁気の乱れを関係づけることは無意味なことですが、地磁気が人の心を乱したのではないかと妄想してみるのも面白いかもしれません。

写真は西の空の夕焼け。オーロラは北の空に見えたはずで、色は朝焼けや夕焼けと同じ長い波長の赤色になります。

 

 

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妄想のすすめ ーートンビの夫婦の会話ーー

2021-09-19 19:24:58 | 日記

今日「週刊さんまとマツコ」を見ていたら、空想と妄想の話題で盛り上がっていました。そこで思いついたのが新シリーズ「妄想のすすめ」です。とても健康にいいようで推奨されていました。妄想をすることでクリエイティブな発想が身につくようです。英語ではdelusionと言います。

さて栄えある第一回目はトンビの夫婦の会話です。たまたまトンビのツーショットが撮れましたので、これを題材にしてブログが書けないか思案していたところでタイムリーでした。

このトンビはいつも海岸の駐車場でアベックのハンバーガーをいただき、お腹を満たしているトンビの夫婦です。最近はコロナ禍で観光客も減り、立ち食いも制限されていますので、なかなか食事にありつけません。珍しく住宅地まできて餌を探したのですが、見つからず、已む無く電柱で一休みしているところでした。旦那が奥さんに語りかけています。

どうも人間さまの世界は大変なことになっているみたいだよ。聞いた話では昨年から新型コロナが流行り、最初は直ぐに終息すると思っていたけど、1年半以上たっても収まらず、さらに変異種も出てその話題で持ち切りだとか。最もいけないのが、お酒を飲んで騒いだり、密になって大声で話したりすることらしい。みんなマスクをして歩いているので、大口を開けてハンバーガーを食べる瞬間を狙えなく困るよ。さてどうしたものか?

そんな旦那の話を聞いて奥さんは、旦那に近づき過ぎたのにきづいたのか、すぐに離れて飛び去っていきました。あとに残された旦那は何とも切なそうに暫く電柱に止っていました。

妄想もここまでくると病気ですね。はやくコロナ前の日常に戻らないと・・・。

 

 

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鎌倉を知る ーー太田道灌と鎌倉府ーー

2021-09-18 17:05:54 | 日記

最近、太田道灌の研究家の方と鎌倉市内の道案内でご一緒する機会がありました。その方は大学教授といった専門家ではなく、ボランティアで太田道灌一筋に調査や講演活動、執筆をされておられます。私と同じ辰年で一回り先輩になります。フィールドワークを主体とし、道灌ゆかりの地を200か所以上探訪し、『道灌紀行』という本も出されていますが、その精力的な活動には頭が下がります。

さて太田道灌は1432年に鎌倉で生まれたとされています。父親は扇谷上杉氏の家宰である資清です。太田家は代々「資」の字を名前に使っていますので、個人的には親しみを感じています。1438年には鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実が争った永享の乱が起きていますが、その2年後に鶴千代丸(道灌の幼名)は鎌倉五山(建長寺など)で和漢の勉学をはじめ、その後足利学校で学びました。太田道灌の屋敷は扇谷の管領屋敷の近く今の英勝寺の所にありましたので、源氏山や亀ヶ谷坂は庭のような場所だったと思います。

元服して資長となり、足利成氏が幕府軍に追われ古河に遁れた後も扇谷上杉家の持朝の命に従い、江戸、河越、岩槻に城を築いています。その後1467年の応仁の乱勃発後、1482年に古河公方と幕府軍の和睦が成立するまでの長い間、扇谷上杉氏を支え、戦に明け暮れた歳月を送りました。その活躍はご存じの通りですが、1486年に主君である扇谷上杉氏の上杉定正に謀殺されてしまいます。現代風に表現すれば「上司のために懸命に働きながら思慮の浅い上司により非業の最後を遂げる悲劇」(太田道灌子孫の太田資暁氏の言葉)ということでしょうか。そんな生き方が共感を呼び人気のある人物です。

写真は鎌倉の英勝寺の門を写したもの。三つ葉葵と桔梗を重ね合わせた模様が特徴的で寺にゆかりの水戸徳川家と太田家の関係を想起させます。その詳しい経緯は英勝寺を参拝し、寺の縁起を読んでください。またいつ訪れても季節ごとに美しい花が目を楽しませてくれます。

 

 

 

 

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