人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

実朝の首塚と金剛寺

2019-01-31 17:20:32 | 日記

実朝の首塚と金剛寺

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

源実朝を知りたい ー実朝の首ー

2019-01-31 15:34:58 | 日記

葉室 麟の『実朝の首』という小説を読みました。『吾妻鏡』によると実朝の首は公暁に殺されたあと忽然と消えたことになっています。慈円の『愚管抄』では雪のなかで見つかったことになっていますが、葬儀の際は「御鬢もって御頭に用いひ」とありますので、誤って京に伝えられたとあとがきにありました。また江戸時代に書かれた『新編相模国風土記稿』では、東田原村の項に「源実朝の墓 村の中程に在 塚上に五輪塔あり 承久元年武常晴 実朝の首級を当初に持来り」と書かれています。武常晴は三浦氏の家臣であり、三浦氏はのちに秦野の地に移ったといわれています。

ここまでは文献に出てくる記述ですが、これらを題材に後世の小説家や歴史家、評論家が想像力豊かに物語を作り上げてきた訳です。事件は大勢の人がいる右大臣の拝賀式で起きたのですから、実朝の首を取るということは余程のことで、その場にいない誰かに見せる必要があったからでしょう。それが誰か?そして鎌倉から数十キロ離れた秦野に地に実朝の墓伝説があるということ。謎です。

鎌倉国宝館には実朝の首塚にあったという木造の五輪塔が展示されています。首塚の近くにある金剛寺の所蔵で総高154.9cm、鎌倉時代のものと図録にありました。実朝の墓の話は、年代とか場所から推定すると信憑性があるのでしょう。多くの文献に載せられています。

写真は秦野市東田原にある実朝の首塚です。最寄駅から少し離れていますが「東田原中丸遺跡」に隣接しています。この遺跡は鎌倉時代の領主(波多野氏)の館跡とみられる遺構。さらに北側に金剛寺があります。この寺は波多野忠綱が勧請したという伝承がある臨済宗建長寺派の古刹です。

金剛寺はフォトアルバムをご覧ください。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

源実朝を知りたい ー読売新聞の記事からー

2019-01-30 20:11:24 | 日記

今朝(1月30日)の読売新聞朝刊の文化面に「源実朝暗殺800年 権力強化が悲劇を招く?」という記事をみつけました。最近の研究では、源実朝の人物像や暗殺に至った動機や背景について従来とは違った考え方があるようで、五味文彦東大名誉教授や創価大学の坂井孝一教授の説が紹介されていました。坂井先生の考え方は、以前にブログでも書いています。五味先生の考え方は、実朝は強大な権力を持っていたと思われ「将軍独裁に反発する御家人たちにとって、将軍とその権力の演出者が葬られたことは望ましい結果であった」とみています。ただ暗殺の黒幕については明言をさけていますが、公暁の単独犯だったと考える坂井先生とは違った考えのようです。

それともう一つ。こちらも興味あるテーマなのですが、「北条泰時は実朝の理想を引き継いだとみることができる」と書かれた鎌倉国宝館で開催中の実朝展の紹介記事の中にあった一文です。実朝は『吾妻鏡』によれば十七条憲法を取り寄せるなど、太子信仰を率先していたようで、「実朝の考え方を受け継ぐ北条泰時が定めた『御成敗式目』は十七条憲法の精神を体現したもの」とあります。

そうであれば、北条泰時が行った和賀江嶋の築島も実朝の意思を継いだ事業であったと考えてもおかしくないと思えるようになりました。また鈴木かほるさんの『相模三浦一族とその周辺史』では、和賀江嶋の築島と三浦義村の嫡男である泰村との関りを指摘しています。遠浅の海で浮かばなかった船を沖に出すには港が必要です。この築島を申請したのは往阿弥陀仏という人物といわれていますが、この人物は和賀江嶋の前に九州の宗像社領の新宮浜鐘ケ崎に人工港の築島にも関ったという記録(宗像市史)が残されています。また三浦氏一族はこの二つの築島の推進者となった可能性が高く、そして北条泰時と三浦一族のつながりがあってはじめてこの一大プロジェクトが成し遂げられたのではないでしょうか。そう考えると、実朝の浮かばない船の建造事業もバカにしたものではなく、もっと評価してもいいのではと・・・・。

写真は干潮時の和賀江島です。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

源実朝を知りたい ー歌にこめられた心ー

2019-01-28 13:17:56 | 日記

鶴岡八幡宮の宝物殿と鎌倉国宝館の実朝展で書き写した歌を二つ紹介します。何れも鶴岡八幡宮への崇敬や民を思う気持ちをあらわしたもかと思います。はじめは宝物殿の展示物「実朝公詠草」とありました。詠草とは、和歌の書式の一つで、添削を乞うときの形式だそうです。(折り詠草)

世の中は押して放ちの相違なく 思ふ矢筋よ神もたがふな 鶴が岡の神の教へし鎧こそ 家の弓矢のまもりなりけり 東路の関守る神の手向けとて 杉に矢たつる 足柄の山

もう一つは、鎌倉国宝館の展示物「鎌倉勝概図」(寛政10年)に掲載されていた和歌。金槐和歌集にあり、続古今集に入った和歌で「慶賀の歌」のようです。

宮柱ふとしきたてて万代に今もさかえむ鎌倉の里

和歌世界は詳しくないので、込められた思いを詳しく伝えることはできませんが、なんとなく実朝の人柄が感じられる歌です。写真は源頼朝と実朝を祀った白幡神社。その境内に菅礼之助(俳号:裸馬)の俳句があります。

歌あはれ その人あはれ 実朝忌

菅礼之助は明治から昭和に生きた実業家で俳人でもあり実朝研究家であった人物です。足元にもおよびませんが、こういう人に憧れます。少しでも近づけたらいいのですが・・・。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

源実朝を知りたい ー実朝の命日は1月27日ー

2019-01-24 19:35:04 | 日記

諸説あるようですが、鶴岡八幡宮では源実朝の命日を1月27日にしています。800年前のその日は実朝が右大臣になる拝賀の日。鎌倉では珍しく大雪が降ったようです。源頼家の子である公暁が実朝を暗殺した様子は『吾妻鏡』や『愚管抄』に書かれていますが、ここでは吉本隆明の著作『源実朝』から引用してみましょう。

 夜に入って奉幣をおわって、宝前の石段をおりて、こ従の公卿が並び立つまえを会釈しながら裾尻をひいて笏をもってすすむところを、法師の衣裳で頭巾をしたものが馳せ寄せて、かさね衣のすその尻を足で踏みつけて、頭部を一の太刀で斬りつけ、倒れたところを、頸をうち落としてとった。(一部略)源仲章が前駆をうけたわって火明りを振りながらいるところを、北条義時だと勘違ちがいして、おなじように斬りふせて殺して逃げた。義時は太刀をもって傍らにいる近習をおさえ、中門にとどまれと申しつけて留めおいた。

愚管抄の記述は『吾妻鏡』と違い北条義時がその場にいます。ただ源仲章は義時と勘違いされて殺されていますので、当日になって義時の役割がなんらかの理由で変わったのかもしれません。ただ義時が拝賀の式典を欠席したとは書いていませんので、戌神将のお告げの話はどうも後世の作り話かもしれません。

また公暁は大銀杏の背後に隠れていたという話も、江戸時代になってあの徳川光圀が『鎌倉日記』に書いたもので、こちらも作り話のようです。実際、鶴岡八幡宮の大銀杏は2010年3月10日に倒伏し、9年近く経った今では、写真のように新しい命がすくすくと育っています。倒伏した大銀杏の樹齢は800年以上と言われていますが、そうだとすれば当時の銀杏の木は身を隠せるほど大きくなかったと思われます。

中公新書の『承久の乱』を書いた坂井孝一氏は、この事件は公暁の単独犯ではなかったかと推測しています。とはいっても、公暁を唆せた北条義時、三浦義村などの黒幕がいなければ、実朝を題材にした多くの小説は書かれていないでしょう。本当はどうだったのでしょう・・・・?

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする