人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る --鎌倉宮と淵野辺義博--

2023-06-30 08:46:15 | 日記

鎌倉宮は明治天皇により明治2年(1869)に創建された後醍醐天皇の皇子護良親王を祭神とする神社です。もともとこの場所には東光寺という寺があり、そこに幽閉されていた護良親王が足利直義の家臣である淵野辺義博に殺害されたという話はあまりにも有名です。この鎌倉宮の宝物殿には護良親王の絵物語が飾られていますので是非ご覧ください。

この物語は『太平記』に載っており、悲劇の主人公護良親王と悪役の足利直義の話は古くから伝わっていました。江戸時代の『新編鎌倉志』には、当時既に廃寺であった東光寺の敷地に幽閉されていた土牢が描かれています。私はこの顛末は明治以降に大いに脚色されたもの思われ、余り好きにはなれませんでした。足利直義に同情的な私としては、いくつかの反論材料を持ちだし、復権を願うばかりです。

まず「土牢に閉じ込められていたのは本当か?」です。これは多くの文献で既に否定されています。真実は東光寺の土壁のある座敷牢に1年近く幽閉されていたようです。

次は「護良親王の首は淵野辺義博によって藪に捨てられ、理智光寺の住職が探し懇ろに葬った」という話です。本来ならば主君の命で殺害した護良親王の首は足利直義に見せるはずですが、そうしなかった淵野辺の対応に納得できませんでした。この話『太平記』読むと、なぜ主君のもとに持っていかなかった理由が書かれていました。岩波文庫の『太平記』には「干将鏌鎁(ばくや)の事」という項があり、理由を書いています。どんなことか?ちょっと内容を紹介します。

中国の周代の話です。周の楚王がいて、ある時に妃が懐妊しました。その妃は鉄丸一つを生み落し、干将という鍛冶に宝剣を作らせました。干将は雌雄の剣二つ作り、一つは楚王に、もう一つ生れてくる我が子のために隠してしまいます。楚王はその剣をもらい大いに悦びますが、その後対になっている剣があることに気付き、嘘をついた干将の首を落します。干将の妻鏌鎁は子(名は眉間尺)を産み、雌の剣を探し出します。干将を知る客が眉間尺の前に現れ、親の敵楚王を討つなら、雌剣の先を三尺ばかり食いちぎり、口に含め死に、楚王の前に出た時に、その剣を吐き出せと話ました。その客は眉間尺の首をとり、楚王に渡します。楚王をこの首を獄門に掛けますがいつまでたっても生きているようで、さらに鼎に入れ溶けるまで煮てしまいます。頃合いをみて楚王は鼎の蓋を開け、中を覗き込むと、眉間尺の口から雌剣の先が吐き出され、楚王の首が鼎の中に落ち、さらに自ら落した客の首も鼎に落ち、鼎のなかで三つの首が煮られ、最後は眉間尺、客ともに目的を達したとして、失せてしまいました。

なんともおどろおどろしい物語であり、淵野辺はこの話を知っていて、直義に災いが及ぶのを懼れ、藪に棄てたということです。後世に伝わる話では、この物語にはふれず、ただ淵野辺は怖くなって棄てたと語られています。淵野辺義博の名誉も回復してあげたいものです。

 

 

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鎌倉を知る --杉本寺と覆面観音--

2023-06-28 16:25:41 | 日記

江戸時代に書かれた『西国坂東 観音霊場記』の坂東三十三観音の第一番 相模国鎌倉杉本を読んでいると、本尊観音覆面因縁という項があり、そのまま書き写しました。

鎌倉第六代の執権、相模守時頼公の時、建長寺の開山大覚禅師上意に依って当寺に来たり七箇日夜懴法修禅して、袈裟にて本尊の御首を覆ひ奉る(行基大士彫刻の像なり)。かくて後は門前落馬の祟りなし。この故にまた覆面の観音と称す。それより数百歳の星霜を経て覆面の御袈裟今に損せず。この故に世々の住僧たちも秘蔵の面貌を拝する者なし。

さて今は杉本寺の内陣で三体の十一面観音像を拝むことができます。ただ内陣は薄暗くそのご尊顔を拝することは出来ません。この三体のうち一番左側にあるのが行基菩薩作の十一面観音像です。現在はこの像の覆面ははずされ、昭和41年に発行された『鎌倉の彫刻』(東京中日新聞出版局)ではそのお姿を拝することができます。美術本のため美術史学者が客観的にその像を評価しています。十一面観音像は数多く残されており、中でも法華寺、室生寺、聖林寺などの仏像は国宝となっている秀作です。この杉本寺の伝行基作の十一面観音像は、その解説では「素人作で、あるいは修行僧が造立したかもしれないが、制作年代は平安時代も後期であろう。中略。この杉本寺像ではきわめて省略化され、のみ痕もあらわに残して一種象徴的な味わいを見せる」と書いてあります。

さてここからが、何故覆面観音になったかの推理ですが、鎌倉時代の説話集『沙石集』にこんな行がありました。この説話集は無住法師が書いたもので、鎌倉時代には大いに流行った本と言われています。その巻第二「地蔵菩薩種々利益の事」を紹介しましょう。

前文略。古き仏像は、ただそのままにてあがむる一の様也。但し形見にくく、かたはしきをば、律の中には、戸張をかけよといヘリ。みめわろき姫君なんどは、かくれて見えねば心にくき様に、仏も只心にくく覚えて、行者の信心をもよほさるべし。

実に現実直視の文章ですね。私は先の美術史学者の文章とこの『沙石集』の文章、さらに経済に明るい北条時頼の存在を重ねあわせ、この覆面観音さまの話は意図的に創作されたものと考えてています。恐るべし北条時頼、さらに我が妄想。とは言っても、この伝行基作の十一面観音像は素朴で味わい深く、覆面が無くても十分に信仰の対象になりえたのではないでしょうか。

さて後日談。杉本寺の本堂は江戸時代に再建されました。その資金の集めるために出開帳を行ったようです。この三体の十一面観音像が持ち出され、資金集めに貢献したと思われます。もちろん行基作の像は覆面をした秘仏として登場したのでしょう。なかなか信心深い話でした。

 

 

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鎌倉を知る --杉本寺と光明皇后--

2023-06-28 13:35:54 | 日記

杉本寺は坂東三十三観音霊場の一番札所です。最近参拝する機会があり、ちょっと深堀りしてみました。お寺の由緒によりますと、杉本寺は光明皇后が開基で開山は行基菩薩とされています。奈良時代までさかのぼりますので相当古いのですが、周りの人は誰も信じようとしません。本当に根拠のない話でしょうか?ここは妄想を膨らませないといけません。まず杉本寺の隣に浄妙寺があり、浄妙寺の東側に鎌足稲荷があります。この鎌足稲荷は藤原鎌足ゆかりの社で、藤原鎌足がこの地(鎌倉?)に来た時に鎌を埋めたとされる場所です。本当に来たのか?

茨城県鹿嶋市には鹿島神宮があり、その近くには鎌足神社があります。神社の由緒をみますと、鎌足の父親は鹿島神宮の神官で藤原鎌足はかの地で生まれ、後に飛鳥に上ったと書かれていました。鹿島神宮の歴史は古く、神武天皇のご創建です。まさに神話の世界ですが、奈良の春日大社は鹿島神宮のご祭神を勧請していますので、全く根拠のない話ではありません。当時鹿島神宮まで行くには、古東海道で鎌倉に入り、三浦半島を横切って走水から船で房総半島に渡り、陸路または海路で鹿島神宮まで行ったようです。遠く蝦夷地を攻める最前線に鹿島神宮があり、途中の鎌倉が兵站地になっていたという伝承もあります。鎌(武器)の倉=鎌倉、大きい蔵=大蔵という地名が残っているのも偶然ではないと考えています。杉本観音は古くは大蔵観音堂という名前でした。杉本寺の背後の山(大蔵山)一帯は杉本城址であり、中世では三浦一族が治めていましたが、私はもっと古くからここに館や砦があったと考えています。山頂付近にあった観音堂が後に現在の場所に移されたと『かたちの美』に記されています。

ご存じのように光明皇后は藤原不比等(淡海公)の娘で聖武天皇の妃。藤原鎌足はお祖父さんになります。藤原鎌足がいたこともある鎌倉の地が、聖武天皇の時代には乱れ、それを心配した孫の光明皇后が平安を願い寄進して観音堂を創らせた。この光明皇后にしても同時代に活躍した行基にしても、実際に鎌倉の地を訪れたことはないでしょうが、遠地にいても十分に大旦那の役割を果せた筈です。歴史に記録がないということは、後世に残された伝承を肯定することも否定することもできない訳ですから、最初からあり得ない話だと決めつけない方が良いかと、最近考えるようになりました。

 

 

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鎌倉を知る --阿弥陀様は凄い!!--

2023-06-11 10:31:35 | 日記

先日、北条泰時の生涯というテーマで話す機会がありました。ご存じの通り、北条泰時は鎌倉幕府の執権で御成敗式目を制定したことで知られています。ただ残念なことに『北条泰時』と名のついた本は検索してもほとんど見つかりません。吉川弘文館の人物叢書『北条泰時』(上横手雅敬著)とあと一冊くらいでしょうか。泰時が執権になってからは殺戮の歴史がなく、面白みに欠けるからかもしれません。やはり読者は手に汗握る戦闘シーンを好みます。私はあんまり好きではないのですが・・・。そんな泰時の生涯の中で、何と言ってもクライマックスは承久の乱での宇治川の合戦かと思います。承久3年(1221)6月の出来事です。まさに日本の歴史を変えることがこの数日間の戦いで起こりました。鎌倉幕府軍が治天の君である後鳥羽上皇軍と戦い、戦勝し、6月15日に入京しました。泰時が亡くなったのが仁治3年(1242)6月15日なので、偶然とは言え、この日から泰時の21年間の試練に満ちた最終章が始まったと言ってもいいでしょう。

この宇治川ですが歴史上5回ほど合戦が行われています。場所は宇治橋のかかる宇治平等院の近く。最初は治承4年(1180)に以仁王と平氏打倒に立ち上がった源頼政がここ宇治川の戦いで敗れ、平等院で自刃しています。2回目は治承・寿永の乱で源義経軍と木曽義仲が戦い、義仲軍は敗走しました。3回目がこの承久の乱。4回目は足利尊氏と楠正成の戦い。5回目は織田信長と足利義昭との槇島城の合戦です。何と言ってもこの宇治橋を渡らなければ京都に入れず、そして当然に攻める側は平等院に立てこもることになります。ご存じの通り、平等院は平安時代(1052年)に藤原頼通によって建立されたもので、鳳凰堂と本尊の阿弥陀如来坐像と共に国宝になっています。この付近が5回も戦場になっているのにも関わらず、2つの国宝が無事に守られてきたのか?ある資料には奇跡の出来事と書いてありました。

さてここからが本題。いろいろな考え方があるかと思いますが、私は鳳凰堂に安置されている仏さまが阿弥陀さまだからと考えています。平安末期には末法思想のなか極楽浄土の考え方が広まりました。平等院はその象徴的存在です。まさに戦っている武士たちにとって阿弥陀さまを破壊してしまえば、もし死んだとき、極楽に導いてくれる仏様がいなくなってしまいます。無信仰の現代ならともかく、命令されても絶対に阿弥陀様に弓引くことはできません。楠正成も防衛線を作るのに鳳凰堂周辺の建物は壊しましたが、鳳凰堂と阿弥陀様には手をつけませんでした。もしかしたら鎌倉の大仏様も露座のまま、今日まで無事だったのは阿弥陀様だったからかもしれません。

ということで、今回のタイトルは「阿弥陀様は凄い!!」でした。

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