人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る --真鶴・湯河原の旅を終えて 石橋山合戦の評価--

2022-02-25 17:24:17 | 日記

2月9日(水)と22日(火)の2回に亘り、石橋山合戦古戦場跡、逃げ隠れたしとどの窟、船出した岩浦海岸を歩く旅をし、都合19本のブログ記事を投稿しました。20本目の今回はその終章。石橋山合戦のゆかりの場所を歩いて感じたこの合戦の歴史上の評価について書きたいと思います。

豊臣秀吉が鎌倉の鶴岡八幡宮を参拝し、源頼朝像の肩を叩き、同じ天下人として語った話が残されています。同じような境遇から天下を取った二人ですが、私は百姓の出、あなたは源氏の貴種としてのブランドがあった。何もない私の方が偉いと勝ち誇って言ったそうです。

また天下人が戦った歴史に名を残す戦いが幾つかあります。織田信長の桶狭間の合戦、秀吉が明智光秀と戦った山崎の合戦、徳川家康が石田光成率いる西軍と戦った関ヶ原の合戦等、皆さんよくご存じのものです。しかし源頼朝の戦った石橋山の合戦は多勢に無勢の中、頼朝がどんな戦をしたのか、実際のところよく分かっていません。『吾妻鏡』などを見ても佐奈田与一義忠の討死とか、敗走する様子は描かれていますが、余り戦略というものは重要視されず、貴種としての頼朝のブランド、信仰心、持っていた運がその後の結果をもたらしたといった内容になっています。

私も今回の真鶴、湯河原に行く前は殆ど石橋山合戦には関心がなく、しとどの窟や真鶴の岩浦なども知りませんでした。しかし今回現地を自分の足で歩いて思ったのは、全く勝算もなく石橋山合戦を仕掛けたのか?しとどの窟は偶然に見つけた洞に身を隠したのか?岩浦から相模湾を安房まで横断するという船出は思い付きなのか?安房に渡ってからの千葉常胤や上総介広常らを糾合したスピードがあまりにも速く、事前の根回しなくては実現不能と思われること。誰かフィクサーが存在したのではないか?等々・・妄想は膨らむばかりです。

そこで私なりの石橋山合戦の評価を以下に述べます。

まず敵方と十分の一の戦力で戦うシナリオがあったこと。一つは自然が作り出した地形。石橋山から湯河原、真鶴にかけては箱根火山の外輪山で、急峻な山々と身を隠すことができる岩窟があります。二つ目は地の利をよく知った信頼できる土肥実平一族らの見方がいたこと。三つ目は箱根権現や伊豆山権現の修験者集団が味方についたこと。この一戦はまず戦うという実績を作ることが大事で、頼朝は負けても死んでしまっては意味がありません。たぶん退路をしっかり確保したうえに戦を仕掛けたと考えます。そこで重要なのが佐奈田与一義忠とその家臣文三、家康でしょうか。

次に逃げ道という点では、火山帯特有の急峻な山岳地帯であったこと。土肥城のある城山の標高は563m、幕山は626m、近くの南郷山は610mあり、こんな山中を騎馬隊は進めず、敵方の探索は徒歩で、まして地の利もなく、困難を極めたと思います。

さらに相模湾を渡り安房に逃れるという作戦は三浦氏の協力がなければできません。三浦一族は陸路で石橋山に駆けつける一団と海路で真鶴沖に向かう一団がいて、その海路での脱出劇を助けたのが和田義盛。謡曲「七騎落」は海上で出会った和田義盛との酒宴でハッピーエンドとなりますが、史実に基づいているかもしれません。

最後は、安房の千葉常胤が味方になったこと。これは想像ですが、実は『文覚上人一代記』(相原精治著)に、常胤の息子胤頼は、京都にあった頃、文覚の父親、遠藤持遠とも親しくしており、文覚を日頃信仰上の師ともしていたの記述があります。文覚上人好きの私としては、彼がシナリオを書いたフィクサーだったと思いたいですね。

写真は幕山麓から城山方面を遠望したもの。その北斜面にしとどの窟があります。縷々書きました頼朝の逃避行はあらかじめ予定されていたと改めて思いました。妄想です・・・。

 

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しとどの窟からの景色 --頼朝と行動を共にしたのは誰か?--

2022-02-25 15:33:39 | 日記

もう1枚、しとどの窟の写真を掲載します。窟内部の高い所から外の景色を撮ったものです、こうしてみるとポッカリあいた洞の口は大きく、天井も高く、かなり広い空間です。洞内には石仏や灯篭が所せましと置かれ、修業の場として今でも使われているかと思いました。中央にある円形の石組の上部から滝のように水が滴り落ち、もっと水量があれば水垢離も出来るような場所です。

ではこの窟に誰が隠れていたかですが、『石橋山合戦前後』(中野敬次郎著)には次のように書かれていました。

このとき、頼朝の傍らにいた人物は誰と誰であったかは明かでなく、『吾妻鏡』には土肥実平の名のみしか記してないが、主従各々一人というのでは、危険の場合に主人の身を守り難いから、腹臣数人は従えていたと考えてよく、『源平盛衰記』に実平のほかに、実平の長男弥太郎遠平、遠平の弟新開次郎忠氏、実平の弟土屋三郎宗遠、実平の娘の夫で佐奈田与一義忠の父たる岡崎四郎義実、頼朝の身のまわりの世話役安達藤九郎盛長の六人で、頼朝の伊豆の配所に早くから奉仕していた人々を記しており、安達盛長を除いては皆土肥実平の血縁一統である。

これらの人々の名前は城願寺の七騎堂に祀られている武将たちです。また実平の妻が変装して食事を運んだとも言われており、隠れ場所については徹底したかん口令がしかれていたと思います。

なお『吾妻鏡』を見てもこの二日三日の記述は曖昧で、北条氏も甲斐国に向ったとか、箱根権現別当行実のことが書いてあったりしてよく分かりません。私は中野氏が書いているようにごく少数の者だけの秘密裡の行動だったと思いたいですね。

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鎌倉を知る --湯河原編 ⑧しとどの窟--

2022-02-25 14:28:42 | 日記

やっと本日の目的地であるしとどの窟に着きました。桜郷史跡からは15分位下った深い谷底近くにありました。下る途中には各所に石仏が置かれ、明らかにここは密教の行場であったことが分かります。箱根権現や伊豆山権現の行者が厳しい修業に明け暮れていたと思います。北斜面でかなり寒く、行った当日は昼過ぎにも関わらず、ツララが岩肌から下がっていました。また頭上からはシトシトと滝のように水が垂れ、ここに長く滞在しても水には困らないし、雨はしのげる洞です。案内板に簡単な説明がありましたので紹介します。

しとどの窟は「土肥椙山巌窟」として神奈川県で史跡文化財に指定されています。1180年に石橋山合戦で平家に敗れた源頼朝がこの地にあった窟に身を隠し、箱根権現別当のもとに逃れた後、真鶴のしとどの窟から安房国へ脱出したと伝えられています。また、「しとどの窟」の由来は、追手が「シトト」と言われる鳥が急に飛び出してきたので、人影がないものとして立ち去ったためだと言われています。 しとどの窟周辺には箱根外輪山の溶岩と火山砕屑物(かざんさいせつぶつ:噴火で放出された石や砂など)からできており、窟は固結した火山砕屑物の部分が削れてできた洞です。

まさに箱根火山の自然造形物を古くから行者が使い、それを石橋山合戦後には源頼朝主従が隠れ場所として使用したということですが、たまたま見つけた場所とは考えられず、予めこの場所に逃げ込むことが計画されていたとしか思えませんでした。土肥実平の着想なのか?はたまた箱根で修業していた文覚上人の企てなのか?

山木の館の襲撃から石橋山合戦での大敗と逃亡、真鶴の岩浦から船出、安房への上陸、三浦氏・千葉氏・上総介等との合流、鎌倉入りという僅か2カ月間の出来事は行き当たりばったりの行動ではなく、綿密に練られた作戦のもと済々と進められたと妄想しています。殊にその作戦参謀が文覚上人だったらもっと面白いのですが・・・。

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鎌倉を知る --湯河原編 ⑦桜郷史跡--

2022-02-24 19:41:04 | 日記

しとどの窟バス停からトンネルを潜ると平場に行き当たります。そこには桜郷史跡由来と書かれた案内がありました。

箱根伊豆地方は、関東山伏発祥の地として日本山嶽宗教史上有数の場である。随ってこの地点一帯は、山伏たちの行場であった。殊に、この城山は土肥郷の豪族土肥氏城塞であり、治承四年八月二十四日源頼朝の堀口合戦の古戦場で、この谷底の「しとどの岩窟」は、その時の頼朝が隠れた遺跡である。・・・以下省略。

『吾妻鏡』には、石橋山の合戦のあと、武衛椙山の中に逃れしめたふ。・・・。二十四日、武衛、椙山の内、堀口の辺に陣したまふ。・・・。武衛、後ろの峯に逃れしたまふ。・・・。景親、武衛の跡を追いひて、嶺渓を捜し求む。・・・。時に梶原平三景時といふ者あり。・・・。晩に及びて北条殿参着したまふ。ここに箱根山の別当行実、弟の僧永実を遣わし、御駄餉を持たしめて、武衛を尋ねたてまつる。・・・。

そこで頼朝は箱根権現に行ったことになっていますが、本当は行ってないという説を唱える郷土史家もいます。私も多分箱根権現までは行っておらず、二十四日から数日間、このしとどの窟に隠れていたと思います。しとどの窟は土肥実平の城山の内にあり、箱根権現の行場であったとすれば、土肥実平は、最初からこの場所を身を隠す場所として決めていたのでしょう。実際現地に行ってみますと深い山中で敵からも容易に見つけられる場所ではなかった推測されます。

写真はしとどの窟の上部でここから15分位下りますとその岩窟があります。

 

 

 

 

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城山頂上(土肥城趾)から見た景色

2022-02-24 19:21:17 | 日記

城山山頂からの景色が素晴らしく、暫し休憩・ランチタイムにしました。写真でも分かりますが、城山・初島・伊豆大島はほぼ一直線で、湯河原火山を含め火山帯を形成しているのだと納得しました。実地検分はやはり歩いてみないといけません。頂上に着き、周りを眺め、ここまで来たコースタイムを計りますと、女性の足でも登って来ることができ、実平の妻が食料を運んだのは事実であったと思うようになりました。ここからしとどの窟のバス停までは30分位、さらに窟まで20分。大した距離ではありません。そしてしとどの窟。そこは不思議な空間でした。

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