人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

寒干し大根と富士山

2019-11-29 17:22:47 | 日記

あまり説明はいりませんね。

久しぶりの晴天。農家の奥様方が収穫した大根を洗い、天日干ししていました。ちょっと干したほうがおいしくなるそうです。白いおみ足が並ぶと壮観ですね。富士山も遠慮がちに覗いています。

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鎌倉を知る ーー縄文人も見た風景ーー

2019-11-29 15:45:57 | 日記

鎌倉市の北部、横浜市、藤沢市と接するところに関谷という地名の場所があります。JR大船駅からインター経由藤沢駅行きのバスに乗り、坂口か島の神バス停で下車。県道312号を渡り10分位坂を登った先に台地が広がっています。現在は露地野菜の畑が広がる場所ですが、歴史は古く1万年から5000年位前の縄文時代後期の遺跡が発見されています。車では川名から国道1号線に行く途中でよく通るのですが、こんなに身近に土偶なども出土した東正院遺跡や島の神遺跡があるなんて知りませんでした。

縄文時代は県道が通っているあたりは入江で、台地にはシイやトチ、クリなど木が生い茂り、縄文人は漁や狩りをしたり木の実を食べて生活したと思われます。西を見れば富士山や箱根山が望め、富士山は噴煙を上げていたかもしれません。箱根山は富士山より活動は古く、約40万年前から約18万年前までが活動期で、最盛期は2700m位の標高があり、約18万年前位に芦ノ湖のあるカルデラが形成されたと言われています。富士山は約10万年前から活動が始まり古富士火山、新富士火山と約5000年位前までに今の姿が形成されました。これらの噴火により火山灰が噴出されますが、細かい灰ほど風にのり遠くまで飛ばされますので、それが堆積し、ご存じの関東ローム層ができたわけです。坂を登る途中に露見した場所がありますのでご覧ください。赤土と言われるものですが、触ってみれば粒子の細かな土壌です。

この関谷農場のある台地の下には関東ローム層がありその上に黒土と言われる腐葉土が広がっています。関東ローム層は降った雨を保水する性質があり、これが畑での野菜作り適しているようです。この台地には川はなく、水道も引かれていません。農家の方の話では、野菜の芽がでるまでは水やりが必要となるが、根がはってしまえば多少雨が降らなくても野菜の生命力で育つと仰っていました。これといっぱいの陽光、これがみずみずしく青々した鎌倉野菜のおいしさの素であると納得しました。

写真は遠くに見える富士山と箱根の山々。農家の方に鎌倉野菜も富士山を見ながら育つとおいしくなりますかと訊ねましたが、あまりウケませんでした。とは言っても縄文人も眺めた富士山は本当に美しいです。

 

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「孤高勇士嬢景清」を観る

2019-11-19 17:09:00 | 日記

国立劇場11月歌舞伎公演の演目は平家の侍大将、景清を題材としています。これは見逃すわけにはいかず先週行ってきました。鎌倉には仮粧坂を下ったところに景清の土牢跡があり、時々景清の話をします。今回の演目である「孤高勇士嬢(むすめ)景清」は、どうもこの景清が「平家物語」の語り部として生き永らえたという伝説をもとにしているようです。これは本日の読売新聞夕刊『評』に出ていました。中村吉右衛門が座長であり、景清の役作りに工夫を凝らし、現代に古典を語り継ぐ歌舞伎役者としての使命感がみなぎっていると書いてありました。

二幕の「大仏供養の場」で源頼朝暗殺をくわだてるも捕らわれ、二君に仕えるのを潔しとせず盲目となるシーン。娘である糸滝が日向嶋に景清を訪ねるも、武士の娘としての義を貫かなったと景清に追い返されるシーン。いつもながら義太夫の太棹三味線の旋律が哀愁を帯びた響きで心の底に落ちてきます。やはり日本人ですね。ついつい鼻水をすするわが身がそこにいました。四幕目は日向灘会場の場では舞台一面が海になります。そこに景清を乗せた大船が舞台奥から現れるのにはちょっと驚きました。なんとも晴れがましく勇壮です。劇評を読みますと、今回は吉右衛門の演出で大船に娘である糸滝も一緒に乗ったとのこと。過去の写真には糸滝の姿はありません。少し唐突感があり意外でしたが、吉右衛門は別れたままで幕を閉じるよりハッピーエンドの結末を選択したようです。この心境の変化は如何に・・・。何かわかる様な気もします。

 

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鎌倉を知る -蛭子神社ー

2019-11-10 08:50:00 | 日記

本覚寺の近く小町通り沿いに蛭子(ひるこ)神社があります。『鎌倉の神社 小辞典』によれば、小町の鎮守。その昔、現在の夷堂橋付近にあった夷三郎社が永享年間の本覚寺創建の際に境内に移され夷堂となり、明治の神仏分離で現在地に移った。もともとその地に祀られていた七面大明神、宝戒寺境内の山王大権現とともに合祀され蛭子神社になったとあります。

この蛭子(ひるこ)の名前が気になり、いろいろ調べてみましたが、関西では蛭子(えびす)と読む神社のほうが多いようです。『古事記』にヒルコの名が出てきますが、そのヒルコとは直接には繋がりませんし、神社の名の由来がよくわかりません。

『古事記』では、このヒルコの名はイザナキとイザナミの国造り・神つくりの最初に登場します。文春文庫の『口語訳 古事記(三浦佑之訳)』から引用して、その行を紹介しましょう。イザナキとイザナミは兄妹の間柄、最初の一人の神から生まれたのであれば当然でしょうか?

「それならば、われとお前と、この天の御柱を行きめぐり、逢ったところで、ミトノマグワイをなそうぞ」と。イザナミは右から、イザナキは左から行きますが、左が上位の時代だったようです。さらにイザナミが先に「ああ、なんてすてきな殿がたよ」と言いました。あとでこのイザナミが先にしゃべったことが問題になります。イザナキは「おなごが先に求めるのはよくないことよ」と申します。ただそのままマグワッテしまい、その結果生まれた子が骨なしのヒルコ。この子は葦船に入れて流されてしまいます。

私が注目したのが以上の行です。『古事記』の冒頭でわざわざ「男性上位」の立場を確認する必要があったと思われます。妄想を膨らませれば、過去の歴史の中に「女性上位」の時代があったのか?そのことを葬り去る必要があった。強大な権力をもった女帝の存在?それは邪馬台国の卑弥呼しか考えられません。纏向遺跡、箸墓古墳のあった場所。三輪山の望める奈良盆地の東南部・・・でしょうか?

 

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梅原猛の『神々の流竄(るざん)』を買い戻す

2019-11-09 20:17:38 | 日記

この『神々の流竄』は梅原猛が1970年に発表した論文で、私は1981年に刊行された集英社の梅原猛著作集8にある同タイトルのものを当時買いました。内容はともかくタイトルに惹かれたのだと思います。広辞苑を引きますと、流竄の意味は「刑罰として遠方の地に移すこと。島流し」とあります。いつ頃に、何処へ、誰がながされたのか?ミステリアスな展開に一気に読み進んだのを記憶しています。その後は長い間、捨てずに本棚に飾ってありました。ただ数年前にもう不要と思い手放したのですが、また『古事記』を勉強することになり、この『神々の流竄』を思い出し買い戻した訳です。アマゾンで税・送料込みで486円。江ノ電で鎌倉往復するより安く、ほぼ新品が手に入りました。

500ページ以上ある大作でまだ100ページも読み進んでいないのですが、早速収穫がありました。梅原先生はヤマタノオロチは奈良の三輪山そのものだと書いています。今ある三輪神社は、オオクニヌシの別名オオナムチの和魂とされるオオモノヌシを祭ると同時に、その荒魂として蛇を祭っています。また日本書紀には、オオモノヌシはヤマトトトビモモソヒメのもとに通い、このヒメは相手が蛇だと分かると箸(くそベラ)で陰部をついて死んだという伝説があります。このヒメの墓は箸墓と呼ばれ、あの卑弥呼のことではないかとも書いています。むむむ・・・。卑弥呼が出てきたか。この墓は箸墓古墳と呼ばれ、近くには纏向遺跡があります。纏向遺跡は戦前からその存在は明らかでしたが、本格的に発掘調査されたのは平成になってからで、大規模な古代都市があったのではないかと考えられています。あの邪馬台国はこの地にあったのでないかと言う研究者もいます。

どうして卑弥呼に注目するのか?卑弥呼は3世紀頃の古墳時代の人です。『古事記』が出来たのは712年で天武天皇が作らせました。私は『古事記』のイザナキとイザナミの国造りの神話と邪馬台国の卑弥呼の存在を結び付けたくてしょうがありません。特に蛭子(ひるこ)の神の話は、直感で卑弥呼と関係があるのではと思いました。妄想でしょうが、面白い話です。

写真は箸墓古墳。数年間の奈良旅行で写しました。

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