人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

飛鳥Ⅱ

2023-04-16 17:38:08 | 日記

4月13日(木)。パスポートの更新手続きの帰り、久しぶりに山下公園に行きました。運よく大桟橋にはクルーズ船の飛鳥Ⅱが停泊していました。まじかで見るのは初めて。全長241m、船幅30m、総トン数50,444トンの大きさです。竣工したのは1989年9月30日ですから、船齢は30年を超しました。当時の造船業界の威信をかけて建造した船ですから、その姿は美しいですね。まだ一度も乗ったことはないのですが、チャンスがあれば是非クルーズに出かけたいものです。

ここで1989年(平成元年)に一言。この年はバブル経済の絶頂期。あと2年もすればバブルは崩壊します。いま戦後78年経っていますが、この昭和が終わり平成の世になったこの時期、日本は世界のNo.1だと錯覚し、日本中すべてが浮かれていました。今思えば、当時はほんとうにそうだと思っていたから始末が悪い。この飛鳥は三菱重工業で建造されましたが、日の丸造船業は世界で不動の地位を保っていました。設計能力、建造技術力すべてにおいて圧倒的な競争力を誇っていました。そんな時期にこの飛鳥は造られたわけです。

私はバブル崩壊後の平成4年から7年にかけて佐世保にある造船会社に勤務する機会を得ました。その会社でもVLCC(very large crude carrier 20万トン以上の油送船のこと)を年間4隻も建造していました。いまは見る影もありませんが、非常に貴重な経験をさせてもらいました。ただ当時から韓国や中国が徐々に台頭してきたのと、あと数年も経てば技術者不足や腕のいい工員不足が深刻になると懸念されはじめていました。そして造船業は韓国、中国に取って代わられ、いまはその韓国でさえ中国の後塵を拝している状況です。この事実は産業発展・衰退論からすれば已むをえないのですが、そこで次の産業にどうシフトさせていくかが国家経営にとって必要になるわけです。米国は暗黒の時代を経験してから上手くIT産業を育て上げました。

日本が不幸なのは、バブル崩壊後の暗黒の20年を経たあとこれからという時に東日本大震災発生し、さらに国力が減衰してしまいました。それにリーマンショック、東電の原発事故など日本の主力産業にダメージを与えるマイナスの事象も重なり、なかなか立ち直れずに今日に至っています。さてこれからどうするか?飛鳥Ⅱを建造した三菱重工業もH3ロケットではミソをつけてしまいました。

飛鳥Ⅱをみて、何とも愚痴っぽくなりましたが、孫の代にも豊かな国であって欲しいと願うばかりです。

 

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鎌倉を知る --七里ヶ浜海岸フリーマーケットーー

2023-04-14 08:40:21 | 日記

4月9日の日曜日。七里ヶ浜海岸駐車場でフリーマーケットが開かれていました。コロナの間は中止になっていたもので3年ぶりでしょうか。店舗の数も人の数も以前の賑わいを取り戻したようです。さらにテークアウトできる飲食系のワゴンも数台出店していました。

このフリーマーケットは古着や骨董品が所狭しと並んでいるのですが、メルカリなどネット中心の買い物もいいのですが、なんとも言えないワクワク感があります。かの織田信長も楽市楽座を催し、人の流れを盛んにしたと言われていますが、実際に目で見て、触ってみて、ほかの店と比較して、さらに店の人と直に交渉できるリアルな場所が必要とされているかもしれません。私も一つ100円の帆布製のペン立てを2個買い求めました。また家人にガラクタを買ったとばかにされるかも知れませんが、これも年寄りの密かな楽しみでもあります。不思議なもので高額品を買った時より満足感がありました。たいした使い道はないのですが・・・。

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鎌倉を知る --広町緑地から望む富士山--

2023-04-14 07:58:23 | 日記

4月9日(日)神奈川県知事選挙の投票日。投票会場の七里ヶ浜浄化センターで投票を済まし、その後、浄化センター入口から広町緑地に入りました。本日のコースは外周コースを時計回りに、室ヶ谷入口から腰越に行くもの。途中に相模湾が展望できるところや大桐の名所、さらには片瀬山越しに富士山が見える場所、カエルの鳴き声が聞ける谷戸の風景など、緑豊かな鎌倉ならではの景色が楽しめます。

写真は富士山の展望所から撮ったもの。この季節になりますと気温の高くなる日中に富士山の全貌をみることは難しくなり、残雪のある頂上のみが空中に浮かぶ姿となりました。これはこれで風情があります。裾の台地は片瀬山の住宅地、山の上を湘南モノレールが走る様子も鎌倉らしい風景です。

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明知鉄道沿線の旅 --③岩村 武並神社--

2023-04-12 15:29:38 | 旅行

明智鉄道の岩村駅の近くに武並神社があります。武並神社縁起を写してきましたので紹介しましょう。鎌倉と関係の深い神社のようです。

武並神社は大己貴神(おほなむちのかみ)を始め諸神を祭神とし遠山景朝を配神として祀ってある。建立は岩村藩主神社調べに延久元年(1069年)鎮座とするが、父景廉(かげかど)を祀る岩村城内の八幡神社建立の少し後、鎌倉末或いは室町初期の建立と考えられる。・・・。以下省略

さてここに遠山景朝とその父景廉の二人の人物が登場します。まず父景廉について調べてみました。『吾妻鏡』の治承四年(1180)八月六日(山木襲撃の日時を卜定す)の条に「卜筮あり。また来十七日寅卯の尅をもって、兼隆を誅せらるべき日時を點じをはんぬ。その後、工藤介茂光・土肥二郎実平・岡崎四郎義実・宇佐美三郎助成・佐々木三郎盛綱・加藤次郎景廉以下、当時経廻の士の内、殊にもって御旨を重んじ、身命を軽んずるの勇士等おのおの一人づづ、次第に閑所に召し抜きんで、合戦の間の事を議しせしめたまふ。・・以下省略」。ここに名前のある加藤景廉がその人です。まさに頼朝旗上げ時のオリジナルメンバーでした。この景廉は鎌倉幕府成立後に御家人となり、各地に荘園を与えられました。その荘園の中で美濃国恵那郡の遠山荘(現在の恵那市・中津川市・瑞浪市の陶地区)を長男の景朝が相続して地頭になり、加藤氏あらため遠山氏を称し岩村城を本拠地として統治しました。この遠山景朝は承久の乱後に北条泰時の命により、朝廷側の公家一条信能を遠山荘に連行し斬首したという話は、以前、このブログでも「岩村神社」のところで書きました。

この遠山氏のその後ですが、戦国時代の末には、特に岩村遠山氏・明知遠山氏・苗木遠山氏が三人衆として活躍したようですが、中山道の要衝であるこの地方は、織田信長や武田信玄らの勢力争いに巻き込まれ、最後には岩村遠山氏は織田信長に滅ぼされてしまいます。だだ苗木遠山氏と旗本になった明知遠山氏は江戸時代まで生き残ったようで、あの「遠山の金さん」こと遠山左衛門尉景元は、明知遠山氏の末になります。また鎌倉の英勝寺ゆかりの英勝院は父親が太田康資・母親は明智遠山氏の娘と言われていますので、源頼朝旗上げげ時に頼朝を支えた加藤景廉のDNAは代々繋がっていることになります。

両親の墓参りの帰り、明知鉄道岩村駅に行く途中、たまたま立ち寄った武並神社にこれほどの物語が隠されていたとは・・・。調べた甲斐がありました。

 

 

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明知鉄道沿線の旅 --②「日本一」の農村風景--

2023-04-11 19:41:27 | 旅行

読売新聞の2月6日の「鉄フォト」に明知鉄道の「日本一」の農村風景の記事がありました。飯羽間(いいばま)駅から歩いて40分くらいの所にある展望台か写したとありました。その展望台まで行ってみたかったのですが、今日は大事な墓参り。飯羽間駅にある案内板だけ写真におさめ、先を急ぎました。

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