人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

ポルトガルワインを試す ーー初回 ポルトガルはどんな国?--

2021-01-31 16:06:55 | グルメ

緊急事態宣言が延長され、巣ごもりの日が続きそうな雲行きとなってきました。やはり高齢者は感染が心配でなので自宅で大人しくしているしかしょうがないですね。とは言っても、漫然と過ごすのでは面白くなく、新しくチャレンジできるテーマを探すことにしました。それは「ポルトガルワインを試す」というもの。何をいまさら思われるかもしれませんが、実は鎌倉の大町にあるポルトガル商品専門店で産地別のワインカタログをいただきました。輸入しているポルトガルワインの産地(地方)は7か所で、カタログに載っている銘柄も全部で60本くらい。そして価格も2000円以下のものが多く、中心価格帯は1500円程度。値段が安くても素性の分からないワインは躊躇しますが、生産者も紹介されており、これなら年金生活者も楽しめると考えた訳です。今回は初回。まずはポルトガル国から勉強することにしました。イベリア半島のあるポルトガルはまだ行ったことがない未知の国です。

さてポルトガル国。外務省の資料によれば、国土は日本の約4分の1の91,985㎢。北海道(83,450㎢)より少し大きいくらいです。人口は約1,029万人。しかしポルトガル語を公用語とする世界人口は2億5000万人います。そのうち1億9400万人はブラジルですけど。ポルトガル王国が出来たのは1143年。日本では平安時代末。源頼朝が生まれたのが1147年ですからほぼ同年代です。日本との関係ではポルトガル人がはじめて種子島に到着したのが1543年。そのあとフランシスコ・ザビエルが布教のため日本にきています。ユーラシア大陸の西の端で列強に押されて大西洋に落ちて消えても不思議でない小国ですがなんとも逞しい国です。言語にしても、隣のスペイン語と同じ仲間なのにポルトガル語として独立して存在している。よく飲み込まれなかったものだと不思議に思い、この国をもっと知りたいと思いました。ただ動機は不純でワインを飲むための口実だけです。

このシリーズは次回から産地(地方)別のワインの飲み比べとなります。手頃な価格のワインを飲んでその国のカタチを妄想する。このコロナ禍にあって大変慎ましい楽しみを見つけたものだと・・・いまからワクワクしています。写真はポルトガルではなくフランスのランス郊外の葡萄畑です。

 

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鎌倉を知る --北条泰時と実朝。今日は1月27日ーー

2021-01-26 19:17:19 | 日記

『吾妻鏡』によれば、建保七年(1219)1月27日に源実朝は公暁に殺害されました。理解が正しければ今日が命日。実朝愛が高じ、殺害の黒幕を知りたく、太宰治、小林秀雄、吉本隆明、五味文彦、坂井孝一など本を読んでみました。単独犯とか、北条義時や三浦義村の黒幕説など諸説あります。当然ながらどれも断定していませんが、最近私の妄想の世界では義時の子である北条泰時が重要参考人として浮上しております。

泰時は実朝より10歳年上。建保元年(1231)に実朝の学問所番に選ばれ、以後実朝のそばで働いています。そして実朝が暗殺される前年には侍所司5人の別当に選ばれました。三浦義村もその中の一人。また同月に父義時が建立した大倉薬師堂について諫言した話が『吾妻鏡』にあります。事件当時、泰時は37歳で駿河守。『吾妻鏡』には右大臣拝賀式の行列に式部大夫泰時の名前があるだけで、殺害の場面には一切登場しません。これだけでは証拠にはなりませんが、その後の『吾妻鏡』に無視したように実朝のことは殆ど触れられおらず、頼朝、政子、義時は随処に登場します。また暦仁元年(1238)に将軍頼経に随行して上京したとき、実朝室の兄坊門忠信の面会を断ったという記事があります。この忠信は承久の乱のときに朝廷側にいたのですが、政子、義時に命乞いをして助命されました。泰時が実朝を慕っていれば会ってもよさそうなものですが、この面会謝絶の記事は意図的です。

義時の後を引き継いだ泰時の政治は、実朝を反面教師として公家将軍頼経との関係を構築したと思われます。頼経は藤原道家の子で承久元年(1219)に2歳で鎌倉に下向してきました。元仁元年(1224)に政子が死ぬまでは政子が将軍の代わりに親裁権を持ち続けました。泰時は政治の安定を図るため、頼経が元服する時期に評定衆による合議制で親裁権を執権の手に入れ、公卿となる時期に御成敗式目を制定し確固たるものにしています。これが実朝暗殺への泰時の関与とどう結びつくのか?。私はすべての事情を知っていながら、敢て『吾妻鏡』に載せず、沈黙している人物こそ最も怪しいと睨んでいます。そして三浦義村は延暦元年(1239)12月に亡くなるまでそばで泰時を支えてきました。泰時が亡くなったのは仁治三年(1242)6月です。

さて写真はマスクをした鶴岡八幡宮の狛犬。「沈黙は金」ちょっと場所とタイミングが良すぎました。

 

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御成敗式目と民法162条

2021-01-25 09:01:25 | 日記

前回に続き北条泰時が制定した御成敗式目について紹介します。今回はその内容で私が特に注目した条文です。御成敗式目の中で裁判上の2大原則とされる条文は第7条(不易の法)と第8条(知行年紀制)です。

第7条の不易の法とは、頼朝公をはじめ源家3代の将軍のとき、および二位殿(政子)のときに御家人に与えられた領地は、本所などの訴えがあっても権利を奪われることがない。

第8条の知行年紀制とは、頼朝公が取り決めたように御家人が20年間支配した土地は、元の領主(貴族や寺社など)に返す必要はない。しかし、実際には支配していないのに、支配していたと偽った者は証明書を持っていても、その取り決めは適用されない。

私が興味を持ったのは第8条の知行年紀制についてです。この条項は民法をかじった人ならピンとくると思いますが、民法162条(取得時効)とほぼ同じです。その条文を示してみます。

①20年間所有の意思を以て平穏かつ公然に他人の物を占有したる者はその所有権を取得す。

②10年間所有の意思を以て平穏かつ公然に他人の不動産を占有したる者がその占有の始善意にしてかつ過失なかりしときはその不動産の所有権を取得す。

現代法では不動産を10年としていますが、御成敗式目の方が運用が厳しくなっている違いはあっても考え方はほぼ同じで、これをみても御成敗式目がよく考えられて制定されたことが理解できると思います。また20年間という年数ですが、伊勢神宮の式年遷宮の期間と同じですが、何か共通の意味があるのかと・・・。これはちょっと妄想が過ぎました。

さて写真は広町緑地の田んぼで写したもの。中央にある竹の棒にカワセミが一羽とまっています。この土地は我がものと平穏かつ公然と占有している様子が窺えました。

 

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鎌倉を知る --北条泰時の政治:御成敗式目ーー

2021-01-24 17:06:02 | 日記

北条泰時シリーズの続きです。今回は御成敗式目(貞永式目)を取りあげます。日本史の授業で習った以来の言葉であまり馴染みがありません。北条泰時が執権の時、貞永元年(1232)に制定されました。全部で51か条。最初は神社・お寺のことからはじまり、刑法、民法、訴訟法などで構成されています。なお『吾妻鏡』には次のように書かれています。

八月十日。武州(泰時)の造らしめたまふ御成敗式目その篇を終へらる。五十箇条なり。今日以後の訴論の是非は、固くこの法を守りて裁許せらるべきの由さだめらるると云々。これすなわち淡海公(藤原不比等)の律令に比すべきか。かれは海内の亀鏡、これは関東の鴻宝なり。

亀鏡(きけい)とは、よりどころとなる模範のこと。鴻宝とは、大きな宝のことです。ここで注目していただきたいのは、『吾妻鏡』ではかの藤原不比等の大宝律令と対比して関東の大きな宝と言っています。以前にも書きましたが、梅原猛は藤原不比等は律令国家の基礎を作り上げ、『日本書紀』や『古事記』を書かせた人物として紹介しています。その不比等と比べ『吾妻鏡』は泰時をずいぶん持ち上げています。私もここから江戸時代まで700年近く続く武家政権の基礎を作り上げたのは、源頼朝や政子の意思を継ぐ北条泰時ではなかったかと密かに思っています。そして承久の乱が天皇や貴族が支配する政治から武家政治のターニングポイントではないかと・・・。

さてこの御成敗式目は鎌倉幕府の四代将軍藤原頼経が公卿になるタイミングに合わせて制定されました。官位が従三位となれば政所を開設でき、頼経は実朝がそうしたように自ら政治を行うことができます。御家人たちにとっては、この公家将軍が理非の成敗権を持ち、自分たちを裁く決定権を持つことが許せなかったのでしょう。

写真は成就院からみた由比ガ浜から材木座の海岸です。こんな狭い土地に150年ものあいだ政治の中心があったとは・・・。不思議な気がしますね。

 

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コロナ禍での寺社のあり方 --東慶寺 文書ーー

2021-01-16 13:02:33 | 日記

毎日朝起きてから夜寝るまで、テレビをつけニュースなどを見ると、その話題はコロナの感染状況の話題ばかり。必要な情報もあれば、聞き流したい話も多く、必然にテレビを見る時間が少なくなりました。そんな中、鎌倉市にある東慶寺のホームページを見ていましたら、ご住職のメッセージが巻頭にありました。タイトルは「緊急事態宣言下において -住職からのことばー」とあります。東慶寺は昨年6月中旬に最初の非常事態宣言が解除されて以降、拝観料徴収の廃止や、本堂内部の開放などの策を出されましたが、それを聞いて驚いたことを記憶しています。その理由を知りたくていたのですが、新年1月9日に出されたこの文章を拝見し、納得しました。是非一度、東慶寺のホームページを開いてご自身で読んでみてください。ちょっとその中の数行を紹介します。

  ・・・・。宣言下のある日、市内を車で移動中、教会の扉がいつもどおり開いており、お祈りをする人が中に入っていくのをみかけました。

拝観謝絶の対応をとっている自分が、僧侶として、宗教者として、本当に正しいのか、寺院のあるべき姿とは何なのか、それを考え、胸が痛みました。・・・。

それはたぶん自分のお寺のために何をするかでなく、困っている人や悩んでいる人ら誰のために何をしたらいいかということではないでしょうか。そしてさらに文章は続きます。

  ・・・。神社、教会、寺院といった宗教施設に足を運び、お参りする、祈る。おおげさなことをせずとも、そこの空気に触れるだけで、心が安らぎ、落ち着くものです。・・・。

宗教施設と言うと何か胡散臭く敬遠する人がいたり、観光目的で見学に来たりする人がいたりしますが、そこは本来信仰の場であることに立ち返る必要があります。コロナ禍のような先の見えない状況下にあってはなおさらでしょう。

写真は昨年1月に東慶寺で写したもの。梅の花はこれからですが、こころの安らぎを求め、今年も一度訪ねてみたいものです。

 

 

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