たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

縄文人と稲作

2019-11-12 09:41:03 | 縄文への旅

<国立歴史民俗博物館>

 

縄文と弥生の境目がわからなくなったことで、

まず見直さなければいけないのが

「稲作」という文化かもしれません。

 

これまでは「大陸から大挙して押し寄せた

渡来人たちが、西から東に向かって

短期間のうちに稲作文化を広めて行った」

という説が一般的でしたが、

縄文晩期の遺跡から水田遺構と共に、

木製の鍬や石包丁や炭化したコメが

見つかったりするなど、少なくとも縄文後期には、

陸稲(りくとう ・おかぼ)による稲の栽培が

行われていた形跡が見られると聞きます。

 

さらには、日本全土を席巻する勢いで

伝播したとされる水田稲作が、

中部地方のあたりで一旦ペースを落とし、

その後東日本全体に行き渡るまで、

およそ500年前後の時間を要した

(つまり水田稲作を拒んだ地域が存在した)

……など、既存の説を覆す事実が次々に

明らかになってきたのだとか……。

 

このあたりの事情については、

機会があれば詳しく考察してみたいと思いますが、

とにもかくにも、私たちが弥生時代と認識していた

一部の期間は、縄文的な生活を営む人と

弥生的な生活にシフトした人とが、

混在して暮らしていたことがわかってきたのです。