昨夜のNHKのETV特集は「ひとりと一匹たち」というタイトルで多摩川のホームレスと彼らの猫たちを取り上げていた。
ここで展開されていた話は私の散歩コースのすぐ上のところからの話、いつも通り過ぎるところではないけれども、もちろん私にとっても見慣れた風景だし、私のブログに使っている猫たちのほとんどはこの多摩川の野良猫たちなんですね。
もちろん、犬も多摩川で撮っているけど、犬は飼い犬で近隣のマンション住まいがほとんど。意外と野良犬は少ないんです。
ここにでてきたホームレスの人たちも、お話をしたことも何度もあるし、先日なんかはライターを忘れて借りに行ったらもう一つあるから上げるよってもらっちゃった。ホームレスの人たちから物を貰う私ってずいぶんとひどいじゃないって思ったけど、ライターを返そうとしても、タバコを上げようとしても受け取らないんだもん、仕方ないよね。
まあ、散歩のときの格好だけ見ていれば私もホームレスの人以下、だって地面に座るくらいならまだしも、腹ばいになったり、そのまま横にずって行ったり、綺麗な格好をしていたら写真なんか撮れないもん。
で、普段はちゃんとした格好をしているかって?
あんた、人に恥をかかせるんじゃないよ。
でも、昨日の番組でも言っていたけど、私も始めてこの人たちと話したときにはちょっと大丈夫かなって怖かったけど、話してみるときちんと対応してくれるし、親切。優しいんです。
番組で気持ちが優しすぎるから、今の社会からはじき出されるって言っていたけど、私もそう思う。
ぎすぎすした社会、人間関係に合わなくてホームレスにならざるを得ないようなことがあって、一度ドロップアウトしてしまうとなかなか上がれない、そんな人たちだなって思いました。
昔、上司の一人がカメラが趣味で、上野などのホームレスを撮っていて、それを写真展にしたことがあった。あのころはなんでホームレスなんだって、際物でも狙っているんかななんて思っていたけど、実際に話してみたりするととてもノーマルで優しい人たちなんです。多摩川の住人達と話してみて、やっとそのことに気がつきました。
ドキュメンタリーには彼らが飼っている犬や猫の話が出てきていた。
ある犬はお腹をすかせた野良猫を飼い主のところに連れてきてやったり、病気のところをな一生懸命舐めてなおそうとしていた。治療(?)を受けている猫も気持ちよさそうにされるがままになっていた。
ちょっと前に野良犬の「白」の話を書きましたよね。いじめられて人間不信になっていたけど、でも白は決して人間に牙を向くようなことはなかった。何日も何日も餌を運んでやっと白の信頼を得た人が今白の飼い主になっている。今でも白は犬同士の喧嘩が起こりそうになると知らん顔をしながらすっと間に入って喧嘩を抑えてしまう。
多摩川には室内犬で小さい子がよく来るんです。普通は大きな子達とも対等に遊んでいるけど、ときどき大きな犬を怖がるのがいるんですね。怖がって、歯向かおうとする。相手もそれが分かるから険悪な状況になってくる。たまにこんなことがあるんですけど、白の周りでは喧嘩が起きないのだそうです。
野良猫も飼われていないと人間を恐れているけど、ホームレスの人たちの世話を受けている子たちは多くが、人を恐れない。だから私の写真のモデルにもなってくれるんですね。トップの写真はそんな子の一匹。
自分の食事も満足に買えないような生活をしていながら、かわいそうな犬や猫のことを第一に考えてあげる。多摩川の住人達ってほんとうに気持ちの優しい人たちが多いのです。
去年、大雨で多摩川の水が上昇したときに、ガス橋のホームレスの一人が水から助けだされたんですね。ところが彼は、飼っていた猫が一匹いないっていうのでまた河原に引き返した。その後、彼は水死体で見つかりました。猫は逃げて助かっていたんですけど、飼い主を探して鳴いていました。
今は彼らと話をするのは怖くない。一つだけ怖いとすればむしろ話の途中で不注意に彼らを傷つけること。彼らはいろんな不幸なことがあってこのような際活に陥っているのだからどんな言葉が彼らを傷つけるのか分からないから。
取材に応じた人たちを見る限り、ごくごくノーマルな人たちだと思いました。礼儀正しいし、受け答えもちゃんとしている。色んな事情があっていまのような境遇に陥ってしまったのでしょうが、少なくとも番組では誰かを恨むとか社会のせいにするような言葉は聞かれませんでした。むしろこの状況を招いたのは自分自身であるとあくまで自己責任を口にしていたのが印象的でした。
格差のない社会、排除されるもののない社会はこの世に存在しません。しかし生い立ちや生きていく過程での蹉跌、失敗でもう二度と這い上がることが出来ない社会、階層が固定化されてしまう社会であってはいけないと思います。
自分には絶対起こりえないと思っているかもしれないけれど、将来誰にでも起こりうる問題じゃないかと認識を新たにしました。
捨てられた子猫の声が耳について離れませんでした、その声に反応して我家の小千代が画面に釘付けになっていました。小千代も目が開かぬうちに多摩川の川原に捨てられ危うく烏の餌食になるところを拾われて我家にやってきました。
昨日、小雨がぱらついていましたが川の水が随分引いていたので護岸の端を歩きました。行きには川にいる鳥たちに気を取られて気が付かなかったのですが、帰りに出会いました。
グレーのトラジマの子でした。
尻尾が長かったです。烏などからはまだ荒らされていませんでした。流されて来たのか、ここで命を落としたのか解りませんが、背を丸め顔を隠しすようにそこにいました。
行く時にはユリカモメのものと思われる羽根が散乱していました。
顔見知りと思われる亀の無惨な姿を見たときからいずれこんな時がくるのではないか、そんな危惧とそして覚悟はしていました。
その時が昨日来ました。
せめて無駄かもしれないけれど枯れ草・枯れ枝でその哀れな骸を覆い、少しは幸せに時を過ごせたかい?今度は幸せのお☆様を握っておいで、手を合わせて猫の神様にこの子の魂が安らげるようにと祈ることしか出来ませんでした。
あの番組の最後、飼い主が施設に入るために出て行くのをじっと見つめていたチャトラさんの姿が切なくて切なくて仕方ありませんでした。
どんな生き方をしてきたのだろう。
そして、その日出あったあのこがどうか顔見知りの土手住まいの猫さんではありませんようにと祈らずにいられませんでした。
土手を歩く時出来るだけカリカリのサンプルを持ち歩くようにしています。食べ終わったら片付けて帰ります、まわりにご迷惑かけぬように。
これからもたくさんの死を見ると思います。
けれど、多摩川にはそれ以上の命があります。
その命にであえることを感謝しながら、そして逝ってしまった命を惜しみながらこれからも歩いていきたいと思っています。
もし、こんな取材とか、他のボランティアの目が届かなければ、彼らは医者にも行けないんです、あの家でなくなってしまっている可能性だってあるんですよね。
でも、ホームレスでなくても、同じような状態の人々が今の日本にはいる。それが政治の力で救えないばかりか政治がそれに介入することを止めているって感じがしてならないのです。
不思議なのですけど、家にいたたくさんの猫たちの死に様を見たことがありません。死期を悟ると自分でどこかに行ってしまったのですね。
可愛がっていた猫が死んでいくのは見たくはありませんけど、一匹だけで死んでいったのかな、苦しまなかったのかなって考えるのはもっと嫌ですね。
そんなときには普段からうるさい位に甘えているんだから、死んでいくときくらいもっともっと甘えて、私の手の中で死んでいってくれてもいいと思ってしまいます。
チャトラさんは写真家夫婦に引き取られたようですね。それだけは救われた思いでした。