起きた。
寝起きの悪いのは運動不足だからだ。
晴れ。
完全に秋空の色だ。
主日礼拝。
黙祷
招詞 詩編66;1~4
讃美歌(21) 55 560
聖句暗唱 コロサイ3;15
詩編交読 詩編122;1~9
祈り
讃美歌Ⅰ 130
聖書朗読 ヨハネ12;12~19
説教
讃美歌(21)391
献金
祈り
頌栄 27
祝祷
今日の聖書はじじが生前好んでいた箇所だ。
ローマの支配下にあった当時のイスラエルの群衆は
圧政から救ってくれる英雄を待ち望んでいた。
ダビデのような、軍馬に跨って颯爽と登場し、
ローマ帝国を軍事的に蹴散らし王となってくれる英雄を。
そんな群衆の前に、イエスは立派な馬ではなく子ロバに乗って
ぽこぽことゆっくりエルサレムに入った。
貧しい群衆がイエスの前からも後ろからも集まって来て、
手に棕櫚の葉や木の枝を持って国旗のように振りながら、叫ぶ。
2000年前のイスラエルの沿道に集まった貧しい群衆は
手に葉っぱの付いた木の枝を持ってホサナ、ホサナと
叫びながらイエスに付いて来た。
彼らが自分の着ている服を脱いで道に敷くのは
王に対する最大の尊敬を表わす行為だと聞いた。
(※"ホサナ"は、救い主に向かって"今救って下さい"という意味)
そんな彼らの前に、
イエスはカッコいい軍馬ではなくロバに乗って現れた。
救い主がロバに乗って来るというのは旧約の預言書に記されている。
娘シオンよ、大いに踊れ。
娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。
彼は神に従い、勝利を与えられた者。
高ぶることなく、ろばに乗って来る。
雌ろばの子であるろばに乗って。(ゼカリヤ9;9)
生前じじは福音書のこのエルサレム入場の箇所の説教に感心し聴いていた。
群衆の身勝手で都合のいい期待や思惑を覆すような、
人の意表を突くイエスの言動行動が福音書に出て来ると
じじは愉快そうに笑みを浮かべていた。
「俺はここの所が気に入ってるんだ」
と言っていた。
イエスの奇想天外な所がじじは好きだったらしい。
説教中にそれを思い出していたら、
牧師先生が話の中でじじがこの箇所を好きだった事にちらと触れた。
好きだった聖書の箇所や愛唱讃美歌は生きているうちに
出来るだけ周囲の仲間と共有しておくのがよいと思う。
じじの葬儀の時、私はこの聖書箇所を選んで読んで貰った。
じじだけでなくこれまでに世を去った信仰の仲間達も同様だ。
その箇所を読み、その歌を歌うごとに、彼らを思い出す。
彼らが天に帰っても共有するものが私達には残されている。
郊外の山で畑を作っている教会の婦人が野菜を持って来た。
まるで野菜直売所のようだ。(笑
介護で忙しくなかなか山に行けず収穫せずにいたら巨大化したと言う。
皆で分けて、持ち帰る。
私も1本の1/3ほど頂いたが、
1/3でも先日頂いたごろんとでかいズッキーニ1個の1.5倍ある。
直径10cm以上ある。
キュウリも巨大化して3人で分けていた。
随分大きくて長いズッキーニだなと思って見ていたらキュウリだった。
キュウリは買ったばかりだから、巨大ズッキーニ1/3を頂いた。
さて、どうやって調理するかな。
途中まで教会仲間に送って貰って帰宅。
帰り道、昼食と食材の買い物をした。
またトウモロコシを買ってしまった。
売り場でトウモロコシ見ると皮を毟りたくてたまらくなる。
尻尾がきゅっとすぼまって髭が完全に真っ黒のを選んで毟ると
最後まで実がぎっしり詰まっているのに高確率で当たる。
髭の黒いのが本当に尻尾まで実がぎっしりかどうか
確かめるのが楽しくて毟っているうちに、気づいたら5、6本毟っていた。
勿論毟ったのは全部買って来て茹でた。
食べるよりも皮を毟る方が楽しいかも。
口腔内と咽頭部が痒くなった。
昼飯に半額の寿司折りを買って来て美味しく食べた。
前々から気のせいと思っていたがどうも私はある種のエビがダメらしい。
回る寿司屋の「甘えび」という小さくて尻尾が鮮やかな赤いのは大丈夫。
しかし「赤えび」というやや大きめのエビは
食べると口腔内から咽頭部に痒みが起こって腫れる。
これはアレルギーだ。
残念だなぁ。
もしかしたらいずれは甲殻類がぜんぜん食べられなくなるかも。
大好きなんだけどなエビとかカニとか。
甲殻類アレルギーは危ない。
激烈なアナフィラキシー起こしたりするので自粛しないと。
・・・・・
トウモロコシ食べ過ぎて眩暈がして来た。
5本くらい食べれると思ったが2本で敗退した。。。。。無念。
たった2本で口から出そうになった。
当分トウモロコシはいいわ。
食い改めます。
幾ら何でも食べ過ぎ。
教会の婦人の方から頂いた巨大ズッキーニを成敗するのも今日は自粛、
もう今夜は何も食べない事にする。
小中学生の頃は5本くらい普通に食べて、
朝昼晩の食事もちゃんと食べてたんだけどな。
年取ったんだな。
ウマいものは夏の終わりに出回るからこれからが本番だ。
トウモロコシとか、トウモロコシとか、トウモロコシとか、、、、
PC開けてTwitterを見ると「社畜」についての記事が目に入った。
社畜という言葉は昭和の時代には無かったと思う。
ごく最近目にする用語だ。
社畜と言えば年中無休24時間サービス残業のサラリーマンを想像するが、
医療従事者だと社畜とは呼ばないな多分。
でも皆、社畜だったと思うよ。
例えばここの土地に引っ越してきて最初に働いた職場で
ある時上司がガラスの点滴薬剤のビンを落っことした。
上司は破片を片づけようとして濡れた床で転び、
片脚の膝から下をざっくり切って大出血した。
本人は「だいじょぶだいじょぶ」と拒否するのを皆で捕獲し
外科外来に連行し、処置して貰った。
今頃は洗浄して縫合して抗生物質の注射してるだろうと思っていたら、
病棟に外科医から怒りの電話が来て、
「婦長が脱走した。そっちに逃げた筈だ。縫合したが後は知らん!」
と言って切れた。
見たら本人が私の後ろで何事も無かったように仕事していた。
「捕獲」「連行」そして「脱走」、手負いの野生動物の如しであったが
いざ自分が患者となると病院大嫌いなのは私も同様である。
しかしあの何針も縫う大怪我をしても持ち場に戻って
何事もなかったように冷静に勤務を続けた上司を見て
当時入社1年目だった私は驚愕した。
その後転職した別の勤務先では夜勤の時よく看護師を見かけた。
と言ってもその晩の夜勤者ではない。
深夜の巡回でベッド柵からぶら下げられた尿バッグの排尿量を
懐中電灯で照らしてしゃがんで微量計の液面を見ていると、
ベッドの下から看護師が覗いて「おしっこ出てる?」と言ったり
深夜のおむつ交換中に耳の後ろで看護師が「便出た?」と言ったり
仮眠室から出て来て心電図モニターの陰に急ぐ姿を見たと思ったら
数分後に急変が起こったり、
病室の奥に看護師の姿が見えて、あれ誰か病室で喀痰吸引してる?
と思ったらその日勤務の夜勤者は全員その場に揃っていたり
現代の医療現場では殆ど見られない白ストッキングと白いサンダルで
パタパタカサカサと忙しく働きまわっていた。
悲しいのう。
大怪我しても死んでもまだ仕事してる、まさに社畜の極みだった。
・・・・・
生暖かく涼しい風が入って心地よいからと言って
窓を開け放していたら室内がざりざりだ。
清掃しないと。
帰宅してからセクエンティアVOX IBERICAの第3巻
『El Sabio』(賢帝アルフォンソ10世の頌歌集)を聴いて
風に当たっていたら眠くなった。
このCDを手に入れた時はまだ札幌にいて真夏だった。
夏の暑い時に窓から吹き込んで来る風に当たりながら
うとうと半覚醒で日に焼けて黄ばんだ石の壁を思い浮かべた。
・・・・・
今何時だ。
真っ暗闇。
本格的に睡沈していたらしい。
そういえば
今日あたり、発注したケニー・ドーハムのCDが
来る筈なんだけどまだ来ない。。。。。。。。( ´ω`)