ぱんくず日記

日々の記録と自己分析。

顔を洗う その2.

2007-10-03 07:41:34 | 血族
「顔洗って出直して来いっ」
大昔、
井上家のひいじいさんが
ひいばあさんを嫁にくれと挨拶に行った時に
相手の親族から浴びせられた言葉。


井上のひいじいさんと言う人は
今でいう格闘家崩れとか
相撲取り崩れとか
何をして食べていたのかよく知らない。


一方、
ひいばあさんという人は
歴史ものに登場するハチスカゴロクという武将の家の
侍大将だか家老だかの家の
いわゆるオジョウだったらしい。
明治維新以後の侍大将だか家老だかが
どれほど立派なものか
100年後の子孫の立場からは
どんだけぇー?のくっだらねぇプライドで
笑っちゃうんだけど
とにかくお嬢様だったらしい。


そのお嬢様なひいばあさんと
何やって食ってたかもわからないひいじさんが恋仲になって
ひいじいさんが
ひいばあさんの実家に挨拶に行った。
家人は玄関口でひいじいさんに言った。


「この河原乞食。
 顔洗って出直して来いっ」


そしたら
ひいじさんとひいばあさんは
二人で屯田開拓民に混じって
徳島から当時開拓途上だった北海道の天塩まで
逃走した。
つまり駆け落ち。


えっと、
うちのじじが今77歳でしょ、
じじの父親が確か22歳の時にじじが生まれてるけど
じじの父親が第三子として生まれるまでに数年間。
第一子は死んだと聞くし
第二子は徳島に送ったと聞いた。
その期間は短くて5年。
77+22+5=104


ひいじいさんとひいばあさんは
南国徳島から未開拓の北海道天塩で
氷点下30℃くらいの厳寒と飢えと熊と戦って
極貧の生活を生き延びた。
100年前の北海道天塩はまだ地球温暖化してないし
今の我々なら
きっと生き延びられない寒さだったであろう。
しかし終生仲良くオシドリ夫婦だったと聞く。
その後、
じいさんはうちのじじが2歳の時に離婚、
じじは熟年離婚、
私は独身で。
お粗末な子孫ですみませんねご先祖。

生きがいか・・・

2007-02-13 03:33:00 | 血族
生きがい「ない」人は病死率高い…「ある」の1・5倍(読売新聞) - goo ニュース


あー
こりゃ私の死亡率は高いって事か。
死因も癌か。
そりゃそうだ。
数ある死亡原因のトップなんだから
自分だけ癌から逃れられるとは思ってないし。


そうそう、
井上家の者は癌で大体50歳くらいまでに
大半がこの世とおさらば。
じじの祖父(私には曽祖父)は胃癌だったし、
じじの父親(私には祖父)も肺癌で享年50歳だった。
ヘビースモーカーの葉巻好きだったから当然か。
大叔父大叔母達もいとこやマタいとこ達も皆同じ、
先祖代々癌家系でござる。


皆、
生前は生きがいあったのかなかったのか。
どうだったのかな。
聞いてみたかったな。
50歳以前の時点で癌にならなくても
高齢で癌になってたな。
こっちはごく自然の成り行きか。


しかし中には癌になる前に
脳血管障害や急性心筋梗塞でコロっと逝ってしまうのも
1人か2人はいた。
じじも脳梗塞の時は
この少数派の仲間入りするところだった。
じじの叔母(私には大叔母)なんて、


「井上家の者は
 皆癌で死んでるの。
 だから私もいずれきっと癌になるわ。
 だから今から癌の勉強をして
 たとえ風邪でも私は国立病院に行くの。
 私は国立じゃなきゃダメ。」


とか言って
バスと地下鉄と徒歩で約1時間半かけて
国立病院に通って老人医療費吊り上げてた。
癌にもならないうちから
癌の勉強してどうすんのと聞いてみたら


「私、癌になったら
 闘病記を出版するわ。
 芥川賞貰えるような闘病記書くわよ。」


大叔母は当時すでに短歌の本を自費出版していた。


しかしね、
こういう80歳近くなってもきゃぴきゃぴして
芥川賞狙って癌を待ち構えているような人に限って
癌にならない。


「ともちゃん、
 あなた恋しなさいよ。
 恋をすると人間は内側から輝きだすのよ。」


そんな会話をして1年経たないうちに


「あれ、何か胸が変・・」


急性心筋梗塞であっけなく逝った。
80歳に手の届く歳になってから
井上家の数少ない例外に
自分も入るとは思ってなかっただろう。
インターネットが普及する前に世を去ったけど
もし今も生きていたら
今頃はミクシイとかブログとかやってたかも。


そういう私の生きがい?
ないよそんなもん。

母の日

2006-07-11 11:00:26 | 血族
出生時に私を取り上げた産科医はキリスト者で
たまたまメノナイトの教会員だった。
同じ教派の教会で受洗すると聞いて、
私の洗礼式に祝福を下さった。
祝電の電文を読んで申し訳ないと思った。
自分が生まれた事を喜んでいないからだ。


中身が腐って崩壊した家庭、
物心両面整わない不安定な状況下で
母は私を産んだ。
母にとって私は
自分の身から出た物でありながら心身の重荷であり、
得体の知れない生き物だったに違いない。
「もっと子供らしくしなさい!」
これは母の私に対する長年の口癖だった。
自分は母親の八つ当たりの対象に過ぎない、
親子関係とはそういうものだと
私は小学校入学以前から親の理解を得る努力を放棄した。
母の目に私という子供は、
扱いにくい気味の悪い子供だったと思う。
記憶に残る母の人間像は
小学生当時の私よりも子供じみている。
例えば私の描いた絵を目の前で破り捨てる。
クレヨンをばらばらに折って足で踏み付ける。
絵を描く事に熱中していて、
色だらけになった手の汚れが
洗っても落ちない事が制裁の理由だった。
私は隠れて絵を描き、本を読み、書いた物を隠した。


ある日曜日、
朝食の準備をしていた母が突然電話口で泣き出した。
電話は親しい人の訃報だった。
入院中だった知人が、
その日の未明にベッドから転落して死んでいた。
新聞を読んでいた父がそれを嘲笑った。
吐き捨てるように母に投げた父の言葉を私は今も一字一句、
父の表情まではっきり憶えている。
「泣いたからって死んだ者が帰って来るか。馬鹿が。」
母は家計の足しにするために、
私が小学校1年の時から生命保険の外交員を5年間と、
菓子店のケーキ作りのパートを約10年間働いていた。
仕事で帰宅が遅れ、
帰るなり慌てて夕食を作る母に対して、
父は常にソファに座って新聞の横から
侮蔑的な表情を向けていた。
妻がパートで働く事を
家計の助けとして評価せず、感謝する事もなく、
道楽者の小遣い稼ぎだと公言していた。
父は常に私達子供の前で
露骨に母を見下す態度を表していた。
パート帰りで毎日疲れて家事をする母に、
父はもちろん、私も妹も、
家族の中の誰一人として一言でも
ねぎらいの言葉をかけた者はなかった。
私が中学の時、朝突然母が倒れた事がある。
父は母を振り返る事なく無言で出勤した。
「ちょっと立ちくらみがして気分が悪くなった」という母を
横目に見ながら私も登校した。


高校卒業後、
私は札幌の大学に進学、卒業後も札幌に就職した。
父が定年退職して再就職、
単身赴任した時も私は帰省しなかった。
父の定年と同時に妹も横浜に就職して家を出た。
父は自分の荷物だけを先に母に荷造りさせて
地方に引っ越して行った。
13年間住んだ団地からの引越しを、
母は物の整理も荷造りも後片付けも掃除も、
家族が誰一人手伝わない中全て一人で行なった。


その年の母の日、
私は思い付きでコンビニのちっぽけな造花を郵送した。
1週間経った頃母から手紙が来た。
「家の中が片付いて、誰もいない。
新聞受けに封筒が入っていて
中のカーネーションを見たら泣いてしまった。」
家族の中で誰一人母の孤独を思いやらなかった事を思った。
それから私は何度か母に電話して他愛ない会話をした。
しばらくして、母が電話に出なくなった。
何度電話しても留守の状態が続いた。
母の知人が私に告げた。
その人の経営する店で飲んだり
パチンコで気晴らしするうちに、
若い男に熱をあげて金ヅルになり、
家にまで出入りさせていると。
しかしそんな讒言を聞くまでもなく私は勘付いていた。
誰でもいいから、母は誰かから愛されたかったのだと思う。


人格の歪んだ父という人間と
長年付き合ってきた母にしてみれば、
どんな男でも父よりはまともな
人間味のある血の通った人物に見えたに違いない。
私は真っ直ぐ父の赴任先に出向いた。
母に直接事実を確かめるよりも先に父に話をしたのは、
長年押し殺していた家族、家庭に対する破壊衝動が
抑え切れなくなったからだ。
予想通り、父はすでに近所の人から聞いて知っていた。
実際はその時点で既に母は男と関わりが切れていた事や
一方的に母が思い込みで
想いを寄せていただけだという事実など、
私には問題ではなかった。
私は父に離婚を勧め、よく考えて話し合ってみろと言った。
父は札幌に戻る私と同じ列車に途中まで同乗して駅で降りた。
市役所に行くと言って
駅を立ち去った父の後ろ姿を列車のガラス越しに見た。
父の生い立ちを考えると気の毒な人間には違いないと思った。


私は母にも離婚を勧めてよく考えてみろと言った。
母は私の詮索を非難し、自分の不幸をことさら強調した。
「私は25年間もあんた達の為に我慢して来た。
あんたなんか産まなきゃよかった。
我慢して育ててやったのに。」
私も容赦なく返した。
「だらしない女だ。
我慢したのは自分の意志で選んでした事だ。
人のせいにするんじゃない。」
電話でそんな罵りあいをした後、
明け方になって突然胸痛が起こった。
精神的なストレスだろうと思って不貞寝していると、
激痛に変わって目の前がチカチカ光り始めた。
私は自分で救急車を呼んで入院した。
何の事はない、
米粒大の小さな胆石が見つかって開腹手術した。


「切った。」
終わって半月経ってから父と母それぞれに一報した。
半年ほど経って母から札幌に来ていると電話があった。
「今日これから会えない?」と言う母に
私の投げ返した言葉は「忙しいから。じゃ。」
それきり15年以上会わなかった。
母はあの造花のカーネーションを残して出て行った。
私はゴミの日にそれを捨てた。


今から3年前、母が脳腫瘍の手術を受けたと聞いた。
人間関係の摩擦が多く孤独に暮らす母を
心配した従姉から妹に知らせてきた。
私も妹も母の入院先を訪ねる事はしなかった。
いつもボーっと考え事をしに行く近所の聖堂で、
神父様に声をかけられた。フランシスコ会の修道士だ。
「あなたのご両親はお元気ですか?」
何でその時に限ってその人はそこにいて、
何でそれを聞いたのだろう。
脳梗塞で在宅介護を受けている父親は相変わらずだ、
最近母親の方が脳腫瘍を摘出したらしいが絶縁なので
詳しい事は知らないと答えた。
神父様は溜息をついた。
「親子ってそんなものなんですかねぇ。」
「私達にとっては親子であるという事はそんなものです。
生まれた事も今生かされている事も
何かの懲罰を受けている気がします。
キリストを信仰する者としては
間違っているかも知れないけど。」
「あれれ、どうしてそんな風に考えるの。信仰は恵みだよ。」
「ありがとうございます。神父様。」


その年の暮れ、父の古くなったコートを買い換えるのに、
思いつきで母のものも買って送った。
従姉に連絡した。
母には娘が2人もありながら何もせず、
従姉に甘えて母の面倒を見させてきた理不尽を
申し訳ないと謝罪したかった。
母は単純に喜んだ。
私は母親との関わりを回復した。


私の母親という女は、
何か贈ったり食べさせたり、都合のいい時はありがたがるが、
体力低下した父の住環境整備のために私が仕事を辞めると
「いい年して無職、路頭に迷ったごくつぶし」、
手術の直後に身の回りをうろうろされたくないので
退院するまで近寄らないように言うと、
思い通りにならない事でヒステリーを起こす。
「具合が悪い。私の体調不良はあんたのせいだ。」
気に入らない事や思い通りにならない事があると
不定愁訴が起こる。
「精神的なストレスで心臓の具合が悪い」
「胸が苦しくなった」
「動悸がする」
「目眩がする」



電話で何か用件を話そうとしても、
こちらが口を開く間すらないほど喋り続ける。
自分が欲しい物の事、
自分が好きな韓国俳優、
自分がしたい事、
自分がして欲しい事。
ぶっ壊れたラジカセのように延々喋り続ける。
「聞く」という機能が欠落した生き物。
この人は私が子供だった時からずっと、私よりも子供だった。
私よりもずっと子供らしい子供だった。今でも。
こんな女は子供など産むべきではなかったのだ。


結婚という儀式さえ済ませれば
後は何もしなくても女が家庭を作ってくれて
子供が生まれれば
手放しで幸せももれなくついてくると
身勝手な期待をした父親という男も愚かだが、


相手の身勝手な期待を見抜く事もせず、
甘ったるい言葉だけを都合よく鵜呑みにして、
結婚すればあれこれ買ってくれて、
いろんな所に連れて行ってくれて、
あれもしてくれてこれもしてくれて、
手放しで相手が自分を幸せにしてくれると
信じ込んでた母親という女はこちらが絶望するほど愚かだ。


間抜けだね。
愛されて当たり前と思ってるから愛されないって事に
気がつかないのか。
自分が幸せかどうかなんて考えてるから
不幸なんだ。
幸せになりたかったら
自分が幸せかどうかよりも
自分と一緒にいる相手が幸せかどうか考えなよ。
お互いの顔も忘れた今となってはもう遅いけどね。

逆選択の構図

2006-07-09 23:22:01 | 血族
聖書では神と人との関係を親と子の関係に例え、
愛情とか信頼といった感情が教えの基本になっている。
私はクリスマスが今でも苦手だ。
御降誕の意味はわかっても、あの聖家族の絵が気持ち悪い。
父親と母親がいて子供の顔を覗いているあの聖家族。


何かの腹いせに子供を殴った者は、
殴った事など忘れるか、
あれは躾であったと正当化して、
時間が経つと忘れるが、
殴られた者はそうではない。
抵抗できずに我慢していたものを
自分を殴った相手ではなく、
別の者にぶつける。
父は母と私にぶつけ、
母は私にぶつけ、
私は妹にぶつけ。



5歳以前から私は両親の八つ当たりの的だった。
やられっぱなしで両親への憎悪を溜め込んだ子供の自分は
成人になって信仰告白し洗礼を受けて一度死んだのに
まだ死にきれずにいる。
何でこんな事になってしまったのだろう。


大叔母から父の生い立ちを聞いて、
私に手をあげた父にもその親への怨みがある事を知った。
幼少時の自我がまだ父の中に生きており、
継母から受けた仕打ちに対する仕返しの相手として
母や私を位置づけてきた事に気づいた。


自分にだけ食事を与えてくれなかった継母に対する怨みを
後年、食事を出してくれる母や私にぶつけていた。
キリストの助けによって私は、
父に殴られていまだに怨んでいる子供の私自身を潰し、
打ち勝って親子3世代に続いている憎悪の連鎖を
断ち切らなければならない。
親を怨み呪って育った私の父が、
晩年になった今残されている時間のうちに、
父自身が生まれてきて生かされてありがたいと
心底思えるように働きかける事。
それが和解であり勝利であると、
私は気づいた。
でも実際どうすればそこまで到達できるのだろう。
親子関係の修復とは、
本来は親の方から考えて働きかけるものではないのか。
私達は構図の逆転した親子かも知れない。



私の父は自分の生い立ちや親族の事を多く語らない。
子供の頃私は不思議に思っていた。
母には母の両親があり兄と姉妹がいるのに、
父にはどうして誰もいないのだろう。
父は誰から生まれ、誰に育てられたのだろう。
育った家はどこにあるのか、兄弟か姉妹はいないのだろうか。
父に聞くと返してきた答えは
「そんなものはない。余計な事を聞くな。」
大叔母Hから聞いた父の生い立ち。
Hは家系図に深い関心を寄せて
徳島にまで足を運び、調べていた。
Hの血筋に対する執着が何によるものか
今ではもう確かめようもないが、
私の考える祖父の系図は鬼畜の系図である。
親になるべきでない者が親になり、
生まれた者に後始末を負わせた呪いは未だに消えていない。
老い衰えて足腰立たず、
今では人生の様々な記憶も失いつつある父と、
子である私との間で今なお引き摺り続けている。
祖父と父とその親族の残した古い手紙や記録は、
巡り巡って私の手元にある。
そこから知り得るのは、
祖父と何人もの後妻達の所業に翻弄されて
歪んだ父とその異母弟妹の生い立ちである。


父が2歳の時、祖父母は離婚した。父には1歳の妹がいた。
田舎の大家族による嫁いびりのためか、日頃の疲労のためか、
祖母は1歳の子に乳を含ませたまま寝入ってしまった。
気がついた時、乳児の顔は半分潰れていた。
父の妹は母親の乳房の下で圧死した。
祖母は裸同然で家から追い出された。


祖父という人物は再婚と離婚を
判っているだけでも5回以上は繰り返し、
何をして荒稼ぎしたのか今では知るすべもないが
巨額の財産を築いたという。
誰もが貧しく物資不足の終戦後に、
下着やYシャツは全てオーダーメイド、
着る物は下着の一枚一枚までアルファベットの飾り文字で
名前の頭文字が刺繍されてあった。
ロンジンの腕時計を身に着けて葉巻を吹かし、
他人の嫌がるような事も平気でするほど
その人間性は荒んでいたと聞く。
非合法な手段で何処かの土地を手に入れようとして、
自分の息子と妹達の戸籍を偽造した。


父と一緒に暮らし、育てたのは祖父の姉Aである。
Aは全盲だった。
5歳で失明し家から出た事もないAと孤児同然の父は、
数年間の間身を寄せ合って暮らした。
小学1、2年足らずだった父が米をとぎ、
買い物や掃除洗濯をし、
Aの出来ない身の回りの事をして生活した。
父は自分の生母を母親として顧みる事は一切せず
その存在すら黙殺したが、
Aだけは母親代わりとして信頼していた。


ある時
気紛れを起こした祖父が突然父を引き取ると言い出した。
父はAから引き離された。
何番目の後妻だったか、新たに同居する事になった継母は
継子の分だけ食事を作らず、
目の前に菓子を置きながら手をつけさせなかった。
男児を産んだ継母は狭い家の中で陰湿に私の父を排斥した。
この後妻の産んだ最初の男の子は1歳で死んだ。


14歳になると父は家を出て札幌の鉄道学校に入り
旧国鉄の機関区で働いていた。
19歳の時に仕事中に右脚を機関車に轢かれた。
創部は骨髄炎にまでなり、数年の長い間入院療養していた。
退院後は機関士として働けず無学歴では転職もできないので、
父は商業高校の定時制に夜間通って経理を身につけ、
鉄道管理局の経理部に配置換えされた。


その頃父は母と出逢って結婚したが、
新婚旅行の途中で突然呼び戻された。
新居に祖父が後妻の子供2人を連れて転がり込んだのだ。
父を排斥した継母と祖父とはすでに離婚しており、
別の新しい後妻を迎えたが、その女に全財産を持ち逃げされ、
毒殺され損なったという。
(H大叔母さんこれ本当の話ですか?)
一命は取り留めたが著しく健康を害して、
先妻の産んだ女の子と男の子2人を連れたまま
無一文になった祖父には行く宛がなかった。
女の子と男の子を産んだ後妻と祖父との間では
どちらがどの子を引き取るかで争っていた。
祖父も後妻も、女の子の方を引き取りたがり、
男の子の方を互いに押し付けあった。
畜生にも劣る雄と雌の争いの根拠はこうである。
中学生の女の子を引き取った方が得であり、
小学生の男の子を引き取った方は損である。
中学生の女の子は家事や身の回りの世話をさせるか
或いはどこかで働かせれば役に立つ。
小学生の男の子の方はまだ幼くて、
世話をしなければならない年齢で足手纏いだ。
結局その時点で後妻はどちらの子も引き取らず、
父の腹違いの妹と弟は祖父と共に
私の両親の貧しい新居に来た。




しかし父の薄給で全員を養うのは不可能だった。
新婚間もない頃、母は密かに自分の兄に借金して凌いだ。
間もなく祖父は女の子と男の子を置いたまま、
何処へともなく家を出た。
祖父が家を出たのは、
嫁との間の折り合いが悪かったからだと父方の親族は言う。
しかしそれは父方の一族に都合よく事実を歪め、
舅と嫁の問題にすり替えて語られたに過ぎない。
親からして貰うべき事を何一つして貰えずに育った私の父が、
無一物で病身になったからと新居に上がり込んだ祖父を、
父親としてどう評価していたか。
祖父は何と考えていたのだろう。
生父からも生母からも利用価値でしか顧みられず、
連れ回され放棄された上に、
腹違いの兄夫婦の新居の居候となって身の置き所すらない、
その後も親戚中を当て所なく
ぐるぐる盥回しにされ続けた娘と息子の、
親としての自分を評価する目がどんなものであったか、
祖父は何と考えていたのだろう。
私の手元にある古い写真の中で、父の異母妹はまだ幼い。
当時にしては仕立ての立派なセーラー服を着せられて、
小学1年生の白布の名札を下げている。
しかし小学校に入学して可愛い服を着て、
何故こんな心細い寂しい表情をしているのだろう。


父と祖父は互いに口をきかず、
狭い部屋の中で何か話すにも父はいちいち母を間に立たせた。
父が仕事に行って留守の間、
母は女癖の悪い舅と2人でいるのが苦痛だったと言う。
半世紀近く経った今、この事を書き留めている私自身は、
母の言い分と父の親族の言い分の両方を知っている。
しかし自分が立ちたくない矢面に配偶者を立たせた事に
自責の念すら持たない父の卑劣さ矮小さに、
これまでも今も私は注目する。


この時点で
母は忍耐などせず私を身籠る前に家を出るべきだった。
そうすれば父には自分の父親とその後妻に対して
直接自ら対峙する機会が与えられたはずだ。
父は自分の父親に正面から立ち向かって糾弾すべきだった。
親の身勝手な生き方のツケを子に払わせる無責任を、
親になる資格のない愚劣な者達が己の遺伝子を
ドブネズミやゴキブリか何かのように撒き散らした責任を、
親を選んで生まれてくる事のできない者を
利用価値ずくで不幸に貶めた責任を。


正面から向き合ってぶつかり合って初めて、
その先にあったかも知れない和解の機会も
与えられるはずだった。
しかし父には自ら相手と衝突する勇気などなかったらしい。
元々私の父は
自分から働きかけて痛い思いをするのを極度に嫌う人間だ。
手すら汚したがらない。
自分の力で何かをする気もなく、
必ず誰か使える人間を探そうとする。
そして自分に対する評価だけは飾りたがる。


親族から長男なのに何もしないと非難され、
後ろ指を差されたくなかった事だけが
義務的に祖父と連れ子達を引き取った本当の動機である。
自分はそうするより仕方ないのだと、父は母に言ったという。
しかしそのために迷惑をかけてすまないとか
労わるなどの言葉や姿勢は、
父が母に対して示す事私の目にもなかった。
腐敗したガスを腹に溜め込んだ険悪な空気の中で
無言のうちに囲む貧しい食卓は
そのまま私の生まれ育つ家庭の土台となった。
年月が経って食材が豊かになり、
食べ飽きるほどの食物が食卓に溢れても、
この土台の呪いは以後も長く尾を引き、
今現在も続いている。
(私は家族と食卓を囲んで食べるのが吐くほど大嫌いだ。)


祖父や父の異母弟妹と暮らした記憶は私にはないが、
誰かがマーブルチョコレートをくれた記憶がかすかにある。
食べると母の顔色が変わった。
びくびくしながら食べたマーブルチョコレートが
どんな味だったか思い出せない。
大叔母Hが言うには、祖父が1歳半の私に無断で菓子を与え、
母がそれをいちいち見咎めて逆上した事が、
祖父にとっては家を出る直接の原因だったという。
残された古い手紙を見ると、
その時私はまだ2歳にもなっていない。
記憶が残っているのも不思議だが、
よく喉に詰めて誤嚥・窒息死しなかったものだ。
母が祖父を警戒したのは無理ない。
(私としては窒息死でも不満はなかった。何せ2歳前だし。)


間もなく祖父は
札幌の南外れの精神病院で身元不明者として死んだ。
(後になって判明した。)
家を出た後の祖父の所在について、
私の両親や父の親族そして祖父直筆の古い手紙が残っている。
これらは祖父の死後遺品として届けられたものだ。
祖父は家を出て札幌に行き、
何か事業をしようとしたが失敗して心身の不調が増悪した。
斗南病院、国立札幌病院、市立札幌病院と
手紙の消印が転々としている。


精神的な不安と孤独に陥ったのだろうか、
一時的に退院して突然気紛れを起こし、
男の子の方を引き取ると言って連れ出した。
行き先を突きとめた父は祖父と異母弟の様子を伺うために
自分で出向かず、私を背負った母を札幌まで行かせた。
2歳の私を抱えた母が10数時間列車に乗って
やっと札幌の祖父の宿泊先に辿り着くと、
祖父は母を追い返した。
「何しに来た。帰れ。」
祖父は男の子を小学校にも行かせないまま連れ歩きながら
麻雀に興じていた。


その後再び祖父は病状悪化して療養生活に戻り、
男の子は姉とともに知人に預けられた。
この頃に父の異母弟が書いた手紙の幼い文面は、
胸に突き刺さるほど寂しい。
「おとうさん、ぼくはきょうおしるこをたべました。
あまくてとてもおいしかったです。
おとうさんは、こんばんなにたべましたか。
おとうさんいまなにしていますか。
ぼくはおとうさんにあいたいです。
はやくびょうきがよくなってかえってきてください。」


2人の子供を預かって貰っていたにも関わらず、
祖父は何故かその知人を手紙の中で貶めている。
「子供らを手なずけて何をたくらんでいるのか」
父の異母妹は自分達が世話になっている知人を
祖父が貶めた事に抗議している。
「我が子同様にして下さっているのに
お父様はなぜあんなひどいことを言うのですか。
私は残念で悲しいです。」
しかしこの当時の祖父が書いた手紙を読むと、
被害妄想的に膨らんだヒステリックな文面から、
すでに精神に変調をきたしていたと思われる。
僧帽弁狭窄、大動脈弁閉鎖不全という心疾患と診断され、
「ひとりぼっち」という言葉が何度も
手紙の文面に書き出されている。
祖父は肺癌であり、最後は急性心筋梗塞で死んだ。
天涯孤独と偽って施設に入り、譫妄か肺癌末期の意識障害か、
暴れて周囲の人々に迷惑をかけた末、
精神科の一室で生涯を終えた。
札幌で祖父と関わったという人物が
区役所やあらゆる公的機関に問い合わせて
父と私達親族を探し出し、知らせてくれた。


祖父の遺骨を墓に納め、
事後処理の相談のために大叔母Hが訪ねて来た時の事を
私は憶えている。
Hはキツネの襟巻きを身に付けていた。
そのキツネの襟巻きには小さなキツネの顔が付いており、
私はそれをよくできた犬の縫ぐるみと思って、
頑として放さず結局貰ってしまったらしい。



長い時間が経過して、
私が札幌の大学に進学した時、
父は全盲の大伯母Aと18年ぶりに再会した。
私が生まれるよりずっと昔、
まだ子供だった父と乏しい糧を分け合って生き延びたAが
父の持参したシュークリームを食べた。
「ああ、おいしい。」
人前で泣いた事のない父が涙を流したのをHは見たという。
Aはいつか私が進学で札幌に移る事と父との再会を確信して、
僅かな援助金の中から千円札を3枚、
手で触って選り分けていた。
その心を思うと泣きたくなる。
視覚のない、親族の間で盥回しになった末の施設暮らし、
孤独な80余年の人生を、Aは不幸と嘆かなかった。
暗闇の中でも光の感じる方角を探して
生きようとした人だった。


私が30歳の誕生日を迎えた時、
何を思ったか電話で父が言った。
「誕生日とは
今日まで無事に生きてこられた事を感謝する日だぞ」
何故、誰に感謝するのかは漠然としているが、
Aの姿勢が少なからず父に影響を与えたのかも知れない。
生かされる。感謝する。与える。
キリスト者でありたい私は、
キリストを知らなかったAの足下にも及ばない。
洗礼を受け信仰告白してもなお、
私は何一つ解決出来ていない。
全ての問題が棚上げになったままだ。
諦めないこと。投げ出さないこと。
父がこの世に生きているうちに、
私達家族の間の憎悪の連鎖を断ち切りたい。