簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
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西の防御(東海道歩き旅・近江の国)

2024-03-15 | Weblog
 宿場の両入口「見附」に土手を築くのは、宿内が見通せないようにす
る為である。街道を鍵曲がりにするのも、見通しを悪くするのが目的で、
岡崎宿のような二十七曲がりは極端だが、宿場内を何度も曲げるのは決
して珍しくは無かった。



 宿内の街道を横切る間道は、決して十字に交差せず、筋違いに通す。
見附の土手や曲がりくねった道は、見通しを悪くすると同時に、大勢が
一気になだれ込まないようにする工夫である。
これらは何れも宿場を守る防御的機能で、何所の宿場でも大なり小なり
考えられていた。



 石部には、享禄年間(1500年代)に建てられた石部城が有った。
織田信長との戦いで敗れ落城し、その後廃城となったらしい。
その名残なのか、西福寺、蓮乗寺、淨現寺、明清寺、真明寺等、街道筋
には矢鱈と寺が多い。

 宿内の寺は、一朝有事には武者溜まりや戦術上の拠点となる。
また本陣が手一杯の時はその代替となる。



 更に宿内で大名同士が行き違う場合、格下の大名は駕籠から下り、格
上大名に挨拶する義務があった。
こうなると行列を差配する侍は大失態で、それを避けるため、一時的に
休憩などと言って寺等に退避していた。



 東海道はここから100m程で突き当りを左に直角に曲がり、下横町を
西進する。曲がった先に「石部一里塚跡」があり、北側に榎、南側に椋
が植えられていたが、明治のり宿駅制度廃止を期に撤去されたという。



 更にその先には、北側が長さ二丈二尺(約7m)、南側が長さ三丈八尺
(約2.5m)、高さ五尺八寸(約1.5m)の土居があった。
その上に松が植えられた「西の見附」である。
西側には目見改場(番所)が有り、境界を示す傍示杭も立てられていた。



 鍵の手を抜けると宿内は終わりだ。
街道はここから二里半十七丁(11.7㎞)の長丁場、次の草津を目指す。
草津は中山道の追分けでもある。(続)




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