当ブログが、映画「グラディエーター」のコモドゥスが大変好きなのは既に何度も読まされていると思う。
で、何故当ブログがそんなにもコモドゥスが好きであるかという点について考えると、既に私よりはるかに思慮深い方が(全く別の視点であるが)考察されていた。
コモドゥス論
上のリンクは、非常にコモドゥスについて、そして現実でその様な傾向の人について、考察されている。
世の中面白いもので、上記リンクの方がコモドゥスを凄まじく嫌悪しそれを考察する一方で、当ブログの様にあまり思慮深く考えずに魅力を感じる者もいる。
ぶっちゃけ、当ブログは上記リンクで考察されているコモドゥスの傾向を多分に持っている。
ほらあれだ、散々自身の窮状を障害のせいにして嘆き悲しみ、日本の社会に期待していないと書いているしな。
当ブログは、他人の痛みに鈍感だし自身の痛みを悲劇的に(見ている側からしたら滑稽に)強調してみせる。
当ブログを知る者ならば、嫌というほど判らされているのではなかろうか。
注意したいのは、だからと言ってコモドゥスに魅力を感じるのは、親近感、振り切れた憧れ、ましてや「世の中そんな人間もいる」という稚拙な共感と主張でもない。
ただただ純粋に、コモドゥスに魅力を感じるのだ。
なお、当ブログがいくら他人の痛みに鈍感だからといって、コモドゥスの様な家族相手レベルまでの徹頭徹尾さはなく、身内や友人が苦しんでいればそれは(少なくとも当ブログの認識では)純粋に重くのしかかる。
過去何度も、「コモドゥスに憧れる」等書いたが、もちろんこれは冗談で本気であのようなキャラクターを尊敬する事はない。
そこでEP8までのカイロ・レンの出番である。
EP7を友人と観て、「お前みたいな奴だな、カイロ・レンは」という友人の指摘は正しくて、当ブログは不安定に、かつ自分でも驚くほどある種の利己を伴って、認識の間を行ったり来たりする。
当ブログは、コモドゥスに魅力を感じる位の、上記リンクの言葉を借りれば"ヘイゼルタイプ"の人間である。
それでいて、カイロ・レンの様に不安定、或いは意図的に、価値観の間を行き来している。
当ブログは、それを認識している。少なくとも言語化してこのように表明する事は出来る。
そして最も重要な点だが、当ブログはこの特徴を認識した上で、正直そんなキャラクターである事が嫌いではない、というか当ブログ自身で認められる。
それが社会・人間成長的に良いかは別問題だが、多様性が認められる昨今、こんなブログに稚拙な事しか書けない程度の無害な存在がそんなキャラクターであって、何か困る事でもあるだろうか。
むしろこんな滑稽な存在が、賞賛を得たいが為に奴隷の様に動く様を見て楽しんでもらえればとすら思う。
以上のまとめだが、当ブログはコモドゥスの様に他人に無頓着かつ自己に極めて高い感受性を持ちつつ、情に流されやすい部分もあり、それを漂流するカイロ・レンの様に、かつ意図的に渡り歩いて自らを保っている。
そんな不安定で幼くて冷徹で身勝手な存在を、自身として受け入れている。
だからこそ!、EP9で"決心"したカイロ・レンが嫌いでもある。
自己陶酔の心地良さを壊してしまう、EP9のカイロ・レンが受け入れられない。
実を言うとEP8までなら、カイロ・レンは魅力的な悪役として当ブログでも上位であった。EP9で、世間一般でいうジャー・ジャー・ビンクスレベルの人気格下げが起きた。
いや、正確に言うと"興味の対象"から外れてしまった。
その点では、本日の日記のタイトルは嘘を書いているな。
正確にはカイロ・レンは嫌いなのではなく、"興味がない"のだ。
そんな変な独白をしてみる土曜日の夜。