ロード・マーシャル時事報告場

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独ソ戦概要

2018-12-05 19:14:59 | Weblog
極めて簡単に第二次世界大戦の独ソ戦の概要を示す。

1941年6月22日、ドイツとその同盟国軍は「バルバロッサ作戦」の名のもと、ソ連に突如侵攻した。
ソ連側の不備もあり、完全な奇襲となったこの侵攻によりドイツ軍はすさまじい勢いで進撃し、ソ連軍は膨大な損害を出した。
しかし、ソ連軍の戦力と抵抗力の過小評価、広大なロシアと劣悪なインフラに対する補給の弱さ、早く到来した通年以上の厳寒等(その他、あえて挙げるならヒトラーの命令介入である
がこれは大した変化ではないだろう)により、ドイツ軍はモスクワ手前で完全に停止。年の終わりにはソ連軍は反撃に転じる。

1942年、ソ連軍の冬季攻勢はヒトラーの死守命令が奏功し頓挫。一方ドイツ軍も1941年のバルバロッサ作戦で100万人もの損害を出し、全戦線で攻勢に出ることは不可能となった。そこで攻勢の主軸を南方とし、「ブラウ作戦」を発動。ヒトラーの命令介入云々があるものの、本質的に長大な戦線に対して脆弱な軍備という問題、そしてソ連軍のスターリングラードでの抵抗、徹底的な焦土戦術による石油拠点の破壊により、ブラウ作戦は頓挫。スターリングラードで地獄の市街戦が始まる。

1943年、ソ連軍はスターリングラードで戦うドイツ軍を包囲すべくウラヌス作戦を開始、ドイツ軍は膨大な損害を出し、南方戦線は崩壊の危機に陥る。しかし、未だドイツの戦力は侮りがたいものがあったが、ソ連は状況を楽観。ドイツ軍は崩壊したとして各部隊に進撃を続けるよう強要し続ける。この間ドイツ側ではマンシュタイン将軍が着々と組織的撤退と再編成を実施し、ソ連軍の補給限界点にて反撃。第三次ハリコフ戦等が発生し、再びドイツ軍が推し戻す形となった。一方モスクワ方面でもソ連軍は大規模攻勢を行ったが、防衛戦の天才と称されるモーデル将軍により攻勢はとん挫する。ただドイツ軍も無傷では済まず、当該エリアを担当するドイツ中央軍集団は南方で戦線押し戻しつつあるドイツ南方軍集団への協力を拒否し休養を宣言。これによって南方軍集団も攻勢を続けることが出来なくなり、春の泥濘とともにクルスク一帯が突出部となって残る。
既にドイツの戦力は限界に達しており、更に日増しに現実味を帯びる連合国による西部戦線構築に対処すべく、一旦ソ連軍に大打撃を与えて戦線を整理、可能な限りの部隊を西側へ抽出する必要が出てきた。そこでクルスク突出部を包囲するツィタデレ作戦を発動。ここに史上最大の会戦が勃発する。しかし、同時期に連合国がシチリアに上陸、枢軸からのイタリア離脱という危機に対処するため作戦は中断され、以降二度とドイツ軍は東部戦線で主導権を得ることは無くなった(ちなみに延期に延期を重ねたことが原因ともいわれているが、本質はそこではない)。

1944年、ドイツのツィタデレ作戦中止を追撃するようにソ連軍は攻勢を継続、特にウクライナ方面で大きな戦果を上げた。さらに北方でもレニングラードを包囲から解放している。夏の訪れとともにソ連軍の次の攻勢地点はどこか、ドイツは悩み、ウクライナ方面でのソ連軍の進撃から再びソ連は夏にウクライナで攻勢を実施すると予測。多くの部隊を南方へ移動させた。しかし6月22日に実施されたソ連のバグラチオン作戦は中央部であり、ドイツ中央軍集団を文字通り消滅させ、北方軍集団を孤立させる。加えて南部でも攻勢は実施され、もはや独ソ戦は消化試合となる。が、ソ連軍は旧ポーランドワルシャワ直前で「補給の問題」で停止。これには諸説(反ソ的なポーランドパルチザンを決起させてドイツに掃討させた後に占領する予定だった等)あるが、真偽は不明である。
バグラチオン作戦の終了を見たヒトラーは同時期に形成された西部戦線を切り崩すべく西部戦線でラインの守り作戦を実施するも制空権の無い状態、かつ圧倒的な戦力不足で攻勢はすぐに頓挫し、貴重な戦力と石油を失う。

1945年、ハンガリーの油田に固執したヒトラーは最後の攻勢、春の目覚め作戦を強行、結果は自滅でドイツ軍の有力な戦力は(もともとなかったが)極端に不足した。それでもベルリン100km手前でソ連が進撃を一時停止したため、ドイツはベルリン防衛にある程度の猶予が与えられた。しかし彼我の戦力差はいかんともしがたく、「ヒトラー ~最期の12日間~」の様な状況でベルリンは陥落する。


さて、いろいろ端折って独ソ戦の流れ概要である。歴史if愛好家はとりわけ「ヒトラーの作戦介入がなければ」を語るがおそらく終戦が遅れた程度であろう。

この状態に我々はマーフィーの法則を見ることが出来る。
ヒトラーはスラヴ人を劣等人種とし、「我が闘争」にて「西ではなく東に目を向けるべきだ」と説いていたが、実際問題として東と闘うために西に対処したらフランスに勝ってたという事実は実に皮肉である。
コメント
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