(前回からの続き)
本当にそうでしょうか。
まずは「活字文化」ですが、何十年も前ならいざ知らず、いまはテレビやラジオ、そして何といってもインターネットを通じて、様々な情報が新聞よりもはるかに迅速に伝えられています。そしてPC、ケータイ、スマホ等を通じて多くの人々がインターネットの活字情報に接するとともに、自らもツィッターやブログやメールなどで思いや考え方を文字にして発信しています。その意味で、活字文化の主要な担い手はもはや大衆に移っているといえるでしょう。一方で新聞の活字文化維持・発展に関する役割はどんどん小さくなっていくものと思われます。
そして「言論の多様性」について。
新聞協会は決議で「いかなる時も新聞は多様な意見を提供してきた」と自画自賛していますが、これこそ疑わしいといわざるを得ません。上述の「消費増税」を典型例として、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)参加問題など、とくに国民の生活に大きな影響を及ぼすために世論が二分化されているような問題や課題になればなるほど、まるで事前に談合でもしたかのように、どの新聞の社説も同じ論調となる傾向がみられます。もしわが国のジャーナリズムに健全な百家争鳴の風土があるのなら、A新聞は「賛成」、B新聞は「反対」、C新聞は・・・といったように、新聞によって主義主張が異なってくるはずだと思っているのですが・・・。
また本ブログでたびたび取り上げている為替レートについても、たいていの新聞が「現状は超円高である」「円高は悪である」との見方を示すばかり。「本当に円高といえるのか」とか、「円高には大きなメリットがある」といった考察や論説はごく少数です。まさか新聞購読者が「円高」と聞くと自動的に「悪いこと」と連想するように洗脳しようとしているわけではないとは思いますが・・・(イランの現状を見れば分るように、本当に悲惨なのは自国通貨安の方でしょう)。
このようにわが国の新聞は、「意見の多様性」という言葉とは裏腹に、「消費増税」のような重要な政策的テーマ等に関してはみんな揃って一斉に同じ論説や見解を掲げることで、世論の一本化に大きく貢献しているといってもいいでしょう(このあたりインターネットにおける言論の多様性とは正反対ですね)。そんな意味で新聞は昔もいまも、ある種の全体主義をリードしているように思えることすらあります。
こんなことで「新聞はいかなる時も多様な意見を提供することで民主主義社会の健全な発展に寄与してきた」と本当に胸を張れるものなのかどうか・・・。
(続く)