スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

第一部定理一七備考&吟味

2024-02-02 19:01:29 | 哲学
 スピノザはDeusの全能ということを,普通に考えられているのとは違った様式の下に理解します。これは,一般的にいわれている神の全能は,スピノザからすればむしろ神の全能を疑わせるような内容になっているからです。このことをスピノザは第一部定理一七備考の中で指摘しています。
                                   
 「神を現実に最高の認識者と考えならも,彼らは,神が現実に認識することをすべて存在するようにさせることができるとは信じない。なぜならもしそうなれば,彼らは,神の能力を破壊すると思うからである」。
 ここで彼らといわれているのが,一般的な意味で神が全能であると主張する人びとのことです。こうした人びとによれば,神が知性intellectusのうちに存在することをすべて創造するcreareと,もうそれ以上は何も創造することができないことになります。そのことがそうした人びとにとっては,むしろ神の全能を欠くように思えるのです。だからこうした人びとは,神は最高の認識者であるということを認めながら,一方では神が認識するcognoscereことのすべてを創造することはできず,残余の部分がなければならないというのです。
 これがスピノザには矛盾にみえるのです。最高の認識者であるならば,認識した事柄をことごとくなすというべきなのであって,認識した事柄のすべてをなすわけではないのであれば,むしろそのことが神の全能を欠くことになるからです。なのでスピノザは神の全能を規定するときにも,神は本性の必然性によって働くagereといういい方をします。本性naturaの必然性necessitasによって働く神は,その本性の必然性に則したことはことごとくなすことになるので,神にはなし得るけれどもなさないことがあるという結論が出てくる余地はありません。
 第二部定理七系により,神の本性から形相的にformaliter知性の外に生じるすべての事柄の十全な観念idea adaequataが神の知性のうちにはあります。つまり神は認識するすべてのことを形相的に知性の外にもなすのです。こちらの方が神が全能であるという規定に相応しいというのがスピノザの考え方です。

 それではここからこのことを詳しく探求していきますが,前もって次のことをいっておきます。
 これに関するスピノザの探求は,『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の第一部の緒論に含まれています。すでに指摘されていたように,『デカルトの哲学原理』の第一部は,『哲学原理Principia philosophiae』の第一部に対応しているわけではなく,デカルトRené Descartesの哲学の形而上学的部分の説明です。そのために,『哲学原理』だけでなく,『省察Meditationes de prima philosophia』からも多くのものが援用されています。ただ,この点に関するデカルト自身の探求は,『哲学原理』や『省察』より,『方法序説Discours de la méthode』の中にあります。したがって,これに関連するデカルト自身の探求を詳しく知りたいという場合は,『方法序説』を参照してください。
 絶対的に正しいことは何かという問いは,問い自体としてはどう手をつけてよいか分からないような茫洋とした面を含んでいます。このためにデカルトはそれに答えるため,つまり解答を発見するために,問いそのものに直接的に答えるのではなくて,方法論的に解答を導くことを目指します。すなわち,それが絶対的に正しいといえるのかどうかということは別にして,現実的な世界にはこれは正しい,いい換えれば真理veritasであるとされている事柄が多々あります。そこでそのように真理であるといわれている事柄を抽出して吟味し,それが確かに疑うことができないような真理であると結論することができればその事柄は絶対的に正しいといえることができるのに対し,少しでも疑い得る部分があるのであれば,その事柄は絶対的に正しいということはできない,正確にいえば,デカルトによって絶対的な真理であると認められないというような方法を採用します。いい換えれば,デカルトが少しでも疑い得るのであればそれはデカルトにとってこの問いへの解答にはならないのに対し,もしそれはデカルトによってまったく疑うことができないと認められるのであれば,その事柄はこの問いの解答であるということです。
 これは真理とされているあらゆる事柄を疑うことによって吟味するという方法なので,方法論的懐疑doute méthodiqueといわれます。関連事項として後に説明しますが,スピノザはこれには否定的です。

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