スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

マイナビ女子オープン&ステノの役割

2024-04-16 19:08:14 | 将棋
 9日に鶴巻温泉で指された第17期マイナビ女子オープン五番勝負第一局。対戦成績は西山朋佳女王が1勝,大島綾華女流二段が0勝。
 マイナビの社長による振駒で西山女王が先手となって角道オープン三間飛車。後手の大島女流二段は金無双風の構えで浮飛車。これは大島女流二段が多用している作戦です。
                                       
 ここで先手は☗7五歩と突きました。ここは☗7二銀☖8二飛☗5三角成☖同金☗8三銀打と飛車を取りにいくのも有力で,そちらの方がよかったようです。
 後手は☖6六角と出ました。そこから☗7四歩☖8八角成☗7六飛☖8七馬☗6七金☖7六馬☗同金☖7六金☗7九飛と進展。先手は☗7七角打と受けました。
                                       
 この角打ちが絶好で,先手がリードしました。☖6六角と指すとほぼ一直線の進行なので,後手は角を出るのではなく,☖8五桂と桂馬の方を捌きにいくのが優ったようです。
 西山女王が先勝。第二局は明日の予定です。

 少なくともうすうすは気付いていたであろうというのは,おそらく確信めいたものをもっていたであろうという意味です。つまり,『エチカ』の手稿をステノNicola Stenoが異端審問所に提出したとき,ステノは提出した手稿の作者がスピノザであるということを,確実視していたであろうというのが僕の推定です。こういったことは,同時にステノが提出した弾劾書の方からさらに高確率の推測が可能かもしれませんが,弾劾書の内容については國分は触れていません。ただこれは元の文書が読めるようにはなっているようです。とはいえそれを僕が解読することは不可能です。
 『エチカ』を含むスピノザの遺稿集Opera Posthumaが実際に発刊されたのは1677年の末のことでした。ステノの告発は同年の9月でしたから,発刊された遺稿集は数週間後には多くの教会評議会や教会会議から不承認とされました。つまり遺稿集が世間に出回るのを阻止するために,ステノは大きな役割を果たしたということになります。
 ここまでが『スピノザー読む人の肖像』に記されている史実と,それに関連する僕の補足です。一方この事実は,これまでのこのブログとの関連で,考察し直しておかなければならない事柄を含みます。
 『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』では,スピノザが死んだときにライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizとステノは一緒に仕事をしていて,ステノは遺稿集の出版を阻止したいと思っていたのだけれども,編集者のひとりであるシュラーGeorg Hermann Schullerと連絡を取り合い,どこでだれが遺稿集を編集しているのかを知っていたライプニッツは,そのことをステノには秘匿したという主旨の記述があります。これは,ライプニッツはスピノザの遺稿集が発刊されることを願っていたということを示すひとつのエピソードとして挿入されているといっていいでしょう。ライプニッツがそれを願っていたことは間違いありません。もちろんそれが出版されることで,自身がスピノザと関係をもっていたということが世間に知られていしまうという不安を感じてはいたでしょうが,チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausから『エチカ』の手稿を読ませてもらえなかったライプニッツは,スピノザの哲学の全貌を知りたかったのは疑い得ないと思います。

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