スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

香港チャンピオンズデー&紹介状の書き手

2024-04-29 18:58:10 | 海外競馬
 香港のシャティン競馬場で開催された昨日の香港チャンピオンズデー。今年は8頭の日本馬が遠征しました。
 チェアマンズスプリントプライズGⅠ芝1200m。マッドクールは発馬が悪く,その後に外から追い上げる形。一旦は先頭に出たかにみえましたが,内の2頭に抵抗され外の3番手に。サンライズロナウドは後方2番手の内から。マッドクールは最終コーナーで手応えが悪くなり直線では後退。サンライズロナウドも伸びませんでした。サンライズロナウドが10着でマッドクールが最下位の11着。
 チャンピオンズマイルGⅠ芝1600m。エルトンバローズが7番手,オオバンブルマイが9番手,シャンパンカラーは最後尾から。エルトンバローズが直線は外へ行き,オオバンブルマイはさらに外。シャンパンカラーはあまり差を詰められませんでした。エルトンバローズは伸びたものの優勝争いには至らず8着。オオバンブルマイが10着でシャンパンカラーは最下位の11着。
 クイーンエリザベスⅡ世カップGⅠ芝2000m。ノースブリッジが逃げ,ヒシイグアスは4・5番手の内。プログノーシスは発馬で2馬身ほどの不利があり最後尾。向正面で漸進していきました。4コーナーでも逃げたノースブリッジには手応えに余裕があり,ヒシイグアスは内を回って2番手に。外からプログノーシスの追い込み。最後はプログノーシスとロマンチックウォリアーが並んで追い込み,競り負けたプログノーシスが2着。差されたノースブリッジが3着。ヒシイグアスは5着。

 実際には互いに人となりを理解していたのだとしても,ライプニッツGottfried Wilhelm LeibnizはフッデJohann Huddeと面会する際にも紹介状を必要としていて,それを持参していたかもしれません。しかし今はそのことを深く追究する必要はありません。ライプニッツはシュラーGeorg Hermann Schullerと会う際には紹介状を持参していくことが必須であったということが重要です。というのはこの紹介状はライプニッツともシュラーとも親しい人でなければ書くことができない紹介状で,それを書くことができたのはチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhaus以外にはいなかったことになるからです。ということは,実際にその紹介状をチルンハウスは書いて,ライプニッツに渡したのです。そしてライプニッツはチルンハウスに書いてもらった紹介状を携えてロンドンを経由してアムステルダムAmsterdamに向かったのですから,少なくともライプニッツがパリを離れる頃は,チルンハウスはパリにいたということができるでしょう。ライプニッツがパリを発ったのは1676年10月です。どんなに早くてもその直前までチルンハウスがパリにいなければ紹介状は書けなかったでしょうし,状況から考えれば,紹介状をライプニッツに渡したチルンハウスは,パリを出発するライプニッツを見送ったとするのが自然ではないでしょうか。
                                       
 なので,1676年10月の時点でもチルンハウスはパリにいたと僕は推定します。そしてスピノザが死んだのは1677年2月なので,その期間は4ヶ月です、この4ヶ月の間も僕はチルンハウスはパリにいたと想定しているのですが,この想定には何か根拠があるわけではありません。もしかしたらチルンハウスはこの間にパリを離れ,最終的にローマに到着していた可能性は否定できません。ステノNicola Stenoがパリを訪れるという必然性はありませんから,ステノとチルンハウスはローマで知り合い,その後に何らかの手段でチルンハウスがもっていた『エチカ』の手稿をステノが入手し,内容を精査した上で弾劾書を付して異端審問所に持ち込んだのです。だからそれ以前にチルンハウスがローマに行っていたということは,史実として確定しなければならないと僕は考えます。そしてそれは,異端審問所に持ち込まれる直前だったとは思われません。
コメント
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