スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

竜王戦&様態の完全性

2016-11-30 19:08:22 | 将棋
 21日と22日に指宿温泉で指された第29期竜王戦七番勝負第四局。
 渡辺明竜王の先手で丸山忠久九段の一手損角換り4。ただし△2二銀。相腰掛銀になり,6筋に飛車を回った後手から攻める展開。先手としては守勢になるのは不本意かもしれませんが,総じて正しく受ければ余せるという展開が続いていたように思います。もっとも,後手の攻め方が最善であったかどうかは分かりません。
                                    
 飛車と金桂の二枚換えが行われた局面。ここで先手は▲6一飛と攻め合いに転じました。これは判断としては正しかったのですが,危険な面もあったようです。
 後手は△6七歩成と成り捨てました。これには▲同飛成もあるところでしょうが,渡辺竜王はあまりそういう指し方を目指して敵陣に飛車を打つことはしません。はたして▲5一角△5二玉▲9一飛成△8二銀▲7四角△6三桂▲同角成△同金▲8二龍△5一玉▲5二銀△4二玉▲6三銀不成△3一玉と一直線の攻め合いにいきました。
 ここまで進めて▲6七銀とと金を払うのは変調にも思えますが,むしろ進めてから払った方がいいという読みであったのでしょう。
                                    
 第2図から後手は△6九角▲7八香△6六金と攻めていきましたが,放置して▲2四桂と打った先手が勝っています。第2図ですぐに△6六金と打てば▲同銀しかなく,それから△6九角▲7八香で後手は目指すべき局面に誘導できたようです。それでも先手が残しているようですが,手順前後で先手玉の危険度を減らしてしまったのは確かだといえそうです。
 渡辺竜王が勝って2勝2敗。第五局は明日と明後日です。

 実在性realitasの尺度,すなわち完全性perfectioの尺度が属性attributumにあることは第一部定理九から分かりました。そして第一部定義六では,神Deumは無限に多くの属性から成っている実体substantiam constantem infinitis attributisであるとされています。したがって神が最高に完全であるということは,この定義Definitioを概念するconcipereことさえできればたちどころに理解できることになります。なお,このことは神が絶対に無限であるということから流出してくるのであり,絶対に無限ということが神の本性natura,essentiaを意味するとすれば,最高に完全ということは神の特質proprietasに該当すると,スピノザの哲学の下では考えた方がいいでしょう。しかしそれが本性であろうと特質であろうと,最高に完全なのが神であるということに間違いはありません。
 第一部定理一四は,神以外にはいかなる実体も存在しないことを示しています。そして第一部公理一の意味は,自然のうちに存在するのは実体と属性,そして実体の変状である様態だけであるということです。このうち属性は完全性の尺度であり,同時に第一部定義四によって実体substantiaの本性essentiamなのですから,あらゆる属性は神にのみ帰すことができることがここからも分かります。つまり神が最高に完全であるということはここからも理解できます。では様態の場合にはどうなのでしょうか。ある様態と別の様態は,一方が完全であり他方が不完全であるという関係を有することができるのでしょうか。
 僕たちは通常の場合にはそうしたことが可能であると思っています。フーゴー・ボクセルにせよフェルトホイゼンLambert van Velthuysenにせよ,人間的属性によって神の本性を認識している人は,どういう意味であるかに相違はあるにせよ,神は人間のようなものであると思っているのです。そしてそれは,人間が様態としては最も完全なものであると思っているのと同じです。他面からいえば,広い意味において人間に対して優越性を有するのは神だけであると思っているのと同じです。たとえばもしある人が,人間よりも完全な様態があると思うのであれば,その人はその様態の性質に準じて神のことを想像するでしょう。しかしそういうケースが存在しない,もし存在していたとしても非常に稀であろうということは明白だといえるからです。
コメント
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