スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ロンジン賞ジャパンカップ&特権

2016-11-27 19:32:59 | 中央競馬
 フランスから1頭,ドイツから2頭が招待された第36回ジャパンカップ
 最内枠からキタサンブラックの逃げ。向正面に入るあたりからずっと2馬身ほどのリードを保ち続ける形になりました。単独の2番手にワンアンドオンリー。この後ろも2馬身ほど離れてゴールドアクターとリアルスティール。イラプトとラストインパクトが並んで続き,ルージュバック,サウンズオブアース,ビッシュ。その後ろにフェイムゲームとトーセンバシルとシュヴァルグランの3頭の集団。最初の1000mは61秒7のスローペース。
 直線に入るとキタサンブラックは徐々に外目に持ち出しながら先頭をキープ。追い上げてくる馬たちが押しているのに対して手応えには余裕。追い出されると後ろとの差を広げ,最後までどの馬にも並ばれることなく2馬身半の差をつけて快勝。2着はサウンズオブアース。クビ差の3着にシュヴァルグランで,この2頭は馬場の外を追い上げた馬たちでした。
 優勝したキタサンブラックは前走の京都大賞典から連勝。大レースは天皇賞(春)以来の3勝目。大きく崩れることなく走り続けている馬で,唯一の凡走が同じ舞台のダービーであったことがわずかな懸念材料でしたが,もっと長い距離で勝っている馬が苦にするとも考えにくく,やはり払拭しました。今日は展開に恵まれ過ぎたのも事実ですが,よほど絡まれるということがない限り,今後も大きく崩れてしまう可能性はいたって低い馬だろうと思います。父は2004年のスプリングステークスを勝ったブラックタイド。母の父はサクラバクシンオー
                                     
 騎乗した武豊騎手JBCクラシック以来の大レース制覇。第19回,26回,30回に続く6年ぶりのジャパンカップ4勝目。管理している清水久詞調教師は天皇賞(春)以来の大レース3勝目。ジャパンカップは初勝利。

 優越性を哲学的概念の範囲内で考えることはここまでにします。ここからはもう少し広い意味で考えることにします。それは能産的自然Natura Naturansと所産的自然Natura Naturataの間の関係として考えるのではなく,ある所産的自然とそれとは異なった本性essentiaを有する所産的自然の間の関係を考えていくということです。
 もしも所産的自然である何らかのものの本性ないしは実在性realitasが神Deusのうちに優越的にeminenter含まれていて,ほかのあるものの本性ないしは実在性は神のうちに優越的に含まれていないとしたら,前者は後者に対して何らかの意味で優越的な存在であると解し得ることになります。たとえばフーゴー・ボクセルHugo Boxelが,人間的本性が神的本性のうちに優越的に含まれていると書簡五十五で主張するとき,それは単にボクセルが人間的本性によって神を表象しているということだけを意味するのではたぶんありません。おそらくボクセルは人間的本性だけが神の本性のうちには特有に優越的に含まれていると解しているのであって,この意味において人間にはほかの自然物と異なった特権があるというように認識しているのです。これに対してスピノザが書簡五十六で,三角形が話せたら神は優越的に三角であると言うだろうと反論するときも,単にボクセルは人間であるから人間的本性によって神を表象していると批判しているだけではなく,人間的本性だけが特権的な本性であるわけではないとも批判しているのだと僕は思うのです。つまり三角形は三角形の本性によって神を表象するimaginariだろうということだけがいいたいわけではなくて,三角形は三角形にはある特権が与えられていると認識するcognoscereだろうといいたいのだと思うのです。
 神からの人格の剥奪は,人間的な意味において有意義なのであって,単に神から人格だけが剥奪されなければいけないというわけではありません。もし三角形が神は優越的に三角だと言ったとしたら,スピノザはそれに対しても誤りerrorであると指摘するであろうからです。つまりこの種の特権が人間には与えられていないというのは事実ですが,別に人間に限定せず,この種の特権を与えられるような所産的自然は存在しないのです。このことを別の観点と関連させて考えます。
コメント
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