スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

竜王戦&方法的戦略

2016-11-19 19:17:02 | 将棋
 7日と8日に天童温泉で指された第29期竜王戦七番勝負第三局。
 丸山忠久九段の先手。駆け引きがあって渡辺明竜王のノーマル四間飛車。相穴熊の持久戦。後手が千日手も辞さずという指し方を採用したこともあり,中盤戦がとても長い将棋。先手は一手だけ早く指すという分の得が将棋にはあり,その分だけの得がずっと続いていたのではないかと思います。しかし本格的な戦いに入ってから,先手が自陣の桂馬も使って攻めたのはやり過ぎで,後手にもチャンスがありました。
                                     
 先手が使った自陣の桂馬が成り込んだ局面。ここで後手は△5七角と飛車取りに打ち▲6九飛に△4八飛成と龍を作りました。
 先手は成桂と飛車を生かして攻めていくほかありません。それが▲6四歩。後手は△同歩と取って▲6三歩の垂らしに手筋の△5二歩を打ち▲6二成桂に△7三金直と逃げました。
 先手はここで▲6七金と上がって駒を入手しにいくのも考えたという感想がありますが,穴熊の金を相手の攻め駒と自ら交換しにいくのはやりにくいのではないかと思います。▲6一角と打って着実に攻め続けることを選択しました。
                                     
 ここで後手は△1八龍と香車を取って▲7一成桂に△6五香と打っていきましたが,これはチャンスを逸した手だそうです。第2図では一旦は△2四角成とし,同じように▲7一成桂だと△5一馬と引いて先手の攻めが繋がらないそうなので,先手の最善は▲5二角成。そこで△1八龍と香車を取れば先手の攻め駒が離れる分だけ後手が得で,後手に分があったようです。ただ,第1図で角を打つときに,将来的に2四に成り返ることは視野に入れてないでしょうから,この手は思い浮かびにくいのではないかと思います。感想戦で指摘されたときに両対局者も驚いていたそうで,埋もれてしまっても不思議がない変化だったのではないでしょうか。
 丸山九段が勝って2勝1敗。第四局は21日と22日です。

 人間的属性を神Deusに帰属させると,人間は人間的属性に応じて神を認識することになります。この点を踏まえるなら,そうすることを禁ずべき別の理由,もっと重大な理由が生じています。
 第一部公理四は,結果の認識が原因の認識に依存しなければならないことを示します。したがってある結果を十全に認識するために,その原因を十全に認識していなければならないことになります。
 神と人間の関係は,各々をどう解するとしても,第一部定理一六により,神が原因であって人間が結果であるといわなければなりません。したがって人間的属性を神に帰すことによって神を認識するということは,結果を認識することによって原因を認識しているということになります。いい換えれば,原因の認識が結果の認識に依存してしまっていることになります。このような認識が不当であるということは,第一部公理四から明らかです。つまりこの不当な方法からは,神を十全に認識することは不可能であって,単に神を表象するimaginariだけ,混乱して認識するだけにすぎません。
 よって人間的属性を神に帰属させてしまうこと,他面からいえば人間的属性について神の優越性を是認することは,神を十全に認識するということにとって悪い方法であるといわなければなりません。このゆえに人間的属性を神に帰するということをスピノザは禁じるのです。同様に人間的属性が神のうちに優越的にeminenter含まれているということを否定するのです。
 スピノザは神は本性の必然性necessitasによって働くagereとみなし,意志voluntasとか知性intellectusというのは思惟の様態cogitandi modiであると規定します。実際のところをいえば,神は意志によって働くといってもよかったし,知性によって働くといってもよかったのです。ただしその場合は,意志も知性も,人間の意志や知性とは異なったものと解さなければなりません。だからスピノザは意志も知性も思惟の様態と規定し,神がなければあることも考えることもできないものとしたと解することは可能です。つまり,神が本性の必然性によって働くという主張のうちには,方法論的な戦略があったと解することも可能です。こうした方が神を十全に認識するためには有用だからです。
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