スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ゴールドカップレース&優越

2016-11-09 19:10:26 | 競輪
 被災地支援として実施された京王閣記念の1日の決勝。並びは新山‐佐藤の北日本,渡辺‐山崎の福島,平原‐岡田の埼京に勝瀬,浅井‐近藤の中部。
 スタートを取った渡辺の前受け。3番手に浅井,5番手に平原,8番手に新山という周回に。残り2周のホームから新山が上昇開始。これに平原が続きました。バックに入るあたりで新山は渡辺を叩いて前に。渡辺は迷わず下げたので,6番手に浅井が入り,渡辺が8番手の一列棒状で打鐘。新山はホームに入ってから発進。意外とすんなりとした展開になった上にバックに入ると平原がすぐに発進したために後方の選手は出番なし。バックの出口では新山を捲った平原が先頭に立ち,そのままラインで出きりました。直線では番手の岡田が平原を差して優勝。平原が半車輪差で2着。勝瀬も4分の1車輪差の3着に続いてラインで上位独占。
 優勝した東京の岡田征陽選手は2013年10月の千葉記念以来の記念競輪3勝目。京王閣記念は初優勝ですが2003年のヤンググランプリは当地で優勝しています。2012年から2013年にかけて自力で活躍しましたがその後は低迷。準決勝も平原マークのレースで2着に続いたとはいえ離れそうになっていたので,優勝は厳しいのではないかとみていました。むしろ準決勝でそういうレースになったことが,気を引き締めるという意味ではよかったのかもしれません。北日本が連係せず,勝瀬が先行するであろう新山ラインではなくこちらの3番手を選択してくれたのもよかったのではないでしょうか。現状は自力での記念優勝は難しいように思いますが,今回のように有力選手の番手を回れれば,まだ優勝する力は残っていたということなのではないかと思います。

 僕がこれから探求していこうとしていることも,書簡五十六に含まれているスピノザの哲学的見解と関係します。その見解は書簡の中盤に示されているものです。そこでスピノザは,もしも三角形に話す能力があったと仮定したなら,三角形は神は優越的に三角であるというだろうと書いています。そしてさらに,円は神の本性は優越的に円であるというだろうと続いています。つまり一般的に諸物体は,その物体自身の本性を神に帰すことによって,神をその物体と同類のものと規定するだろうといっています。スピノザは直接的には記述していませんが,この一般論は人間にも妥当するでしょう。したがって人間は神を人間のようなものと規定するだろうということをここではいいたいのです。いい換えれば人間は神を人間のようなものとして表象する,想像するであろうということがいいたいのです。
                                   
 少なくない識者がこの部分については指摘しています。代表的なものとしては『スピノザ 実践の哲学Spinoza : philosophie pratique』の第四章の一部とか,『スピノザ哲学研究』の第一部四章三節をあげることができます。ドゥルーズも工藤も概ね同じ内容の議論を展開していて,僕もその内容に同意します。ただ,僕もこれからそれについて考えますが,もう少し別の観点からも考えていきたいのです。もう少しだけ具体的にいえば,単にこのことがスピノザの哲学の中においてどのような帰結を齎すのかということだけでなく,一般的な哲学的概念との関係についても考察の対象としたいのです。
 考察のためにまず注意しておきたいことがあります。書簡の中でスピノザがいっている優越的にというのは,ラテン語にすればeminenterです。これが畠中によって優越的にと訳されているのですが,これが妥当な訳かどうかが僕には不明です。というのは卓越的に,とか,優勝的に,と訳されている場合も散見されるからです。これは日本語でいえば副詞に類するかと思いますが,名詞になった場合も,優越性といわれたり卓越性といわれたり優勝性といわれていたりします。僕は妥当性を判断できないので畠中訳の優越を用いますが,これらがすべて同じ意味であることに注意してください。
コメント
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