スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

人間風車&第一部定義三の主張

2015-01-20 19:19:38 | NOAH
 『馬場伝説』のインタビューでは,馬場は多くのレスラーについて語っています。80年代に戦った相手として,インタビュアーが人間風車ことビル・ロビンソンについて尋ねたとき,馬場は「うん,ロビンソン,いたねえ」とだけ答え,インタビュアーも「それぐらいですか」と話を引き取っています。馬場にとってロビンソンは,いただけのレスラーだったようです。
                         
 馬場から最初にPWFのベルトを奪ったのは全日本のブッチャーパートナーだったキラー・トーア・カマタ。ベルトはカマタからロビンソン,黒い呪術師と移り,再び馬場の腰に戻りました。一時的とはいえ全日本でシングルのベルトを巻いているくらいですから、この低評価は僕には意外でした。
 ただ,これは僕のプロレスキャリアよりも前の時代のことなので,僕はロビンソンの全日本での試合ぶりはあまりよく知りません。ですからこの評価の理由は,推測するほかないのです。
 鶴見五郎とかアニマル・浜口がそうであるように,馬場は実力的にはトップとまではいかない選手でも,高く評価することがあります。これは外国人選手でも同様で,ジョー・ディートンはおよそトップに程遠い選手でしたが,馬場は高評価しています。それはプロレススタイルが馬場の目に適ったからでしょう。馬場の言及はありませんが,ジャイアント・キマラも同じでなかったかと僕は推測します。ロビンソンがそういうレスラーでなかった可能性はありますが,しかしこのクラスの選手と比較するのは変にも思います。エゴイズムに満ちていた超獣についても馬場はある程度の評価はしていると考えるべきで,それならロビンソンも同様であっておかしくないからです。もっとも馬場はブロディは強かったと言明していますから,ロビンソンの実力は,実績ほどには買っていなかったのかもしれません。
 プロモーターとしての馬場が,観客動員力からレスラーを評価することはあり得ます。ブッチャーとか不沈艦は,こうした面からの評価も受けているからです。これでみれば馬場は,この面でもロビンソンを評価していなかったということなのでしょう。

 僕の第一部定義三の正当性の論証の方法から,僕がこの定義をどのように把握しているのかも理解してもらえるのではないかと思います。
 一般的に,公理系における定義というのは,その公理系の内部での約束事を示すというように理解できます。スピノザの哲学の場合だと,それは観念対象ideatumの記号化という意味を含みます。これが原則です。しかし公理系を読解しようとする場合には,すでにある事物の定義のうちに,その公理系の作者の主張が含まれていると考えることもできるわけです。
 僕の考えでは,もしも第一部定義三に主張が含まれているとするなら,それは実体はそれ自身によって概念されなければならないということではないのです。むしろあるものがそれ自身のうちにあるとみなされるなら,そのものはそれ自身によって概念されなければならないということなのです。だからたとえばライプニッツが,モナドはそれ自身のうちにあると規定するのなら,モナドはそれ自身によって概念されなければならないということに,スピノザの公理系ではなるのです。
 こうしたことが,第一部公理一から必然的に流出すると僕は考えるのです。ですから,第一部定義三を否定しようとするなら,実体の形而上学的概念を変更するだけでは不十分であり,第一部公理一の真理性を転覆させる必要があると僕は結論付けます。ただ,ライプニッツは実際にはそうした手法を採用しなかったのですから,ここではこのことについての言及は行いません。というか,これをやろうとするなら,たぶん新たに第一部公理一をテーマとして設定する必要があると僕は考えます。というのもこの公理は,スピノザの哲学の大きな特徴のひとつである,内在の哲学,他面からいうならあらゆる超越論哲学の否定という点に関して,要となる公理であるといえるからです。今回の考察との関連性からひとつだけいい足しておくべきことがあるとしたら,ヤコービは論理的に第一部公理一を否定するには至らなかった,というかそれはできないと考えたといっていいと思いますが,少なくとも方法論的には,この方面からスピノザを否定しようとしたといえると思います。
コメント
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