自然成長型文明に向けて:改訂開始

2006年08月22日 | 持続可能な社会

 改訂版 まえがき

 これから、すでにサングラハ教育・心理研究所のHPに掲載してある「自然成長型文明に向けて――持続可能な世界を創るための条件とは何か」(1999年)を少しずつ改訂しながら、連載(といってもやや断続的に)していきたいと思います。

 それは、第1に、スウェーデンについて学ぶことによって、私の考えていた方向が理想論ではなく現実に可能であることを確認できたこと、第2に、同じくそのために考えの一部はかなり修正する必要ができたこと、第3に、環境の危機についてのデータが――基本線は変わらないにしても――かなり古くなっているので、なるべく新しいものにしたい、という3つの理由によります。

 加えて言えば、シンポジウム「日本も〈緑の福祉国家〉にしたい!――スウェーデンに学びつつ」に向けて、みなさんとさらに認識を共有していきたいという理由もあります。



 初版 はじめに

 私たちの世界が「エコロジカルな危機」にあることは、多くの専門家の方たちが早くから警告してきたとおりです。70年代の始めの頃、ローマ・クラブの『成長の限界』(邦訳ダイヤモンド社)やレイチェル・カーソンの『沈黙の春』(新潮文庫)など、専門家の報告を読んで以来、私も大きな危機感を感じ、この35年、自分の思想的な最重要テーマの一つとして、いろいろ学び、考えてきました。

 といっても、私は、環境問題そのものの専門家ではなく、いわば心理学や意識・霊性・宗教に関わる分野が専門なのですが、そういう視点から見える、言える、原理的なことがあると思って、いろいろな機会に発言し、ある種の運動を提案してきました。

 しかし、この35年、発言し、提案するたびに、いろんな人から「岡野さんは、どうしてそんなにあせるんですか。あせりすぎじゃないですか。あせりすぎると、危険ですよ」と言われてきました(最近はさすがにあまり言われなくなりましたが、それでもいまだに「そんなに深刻じゃないんじゃないですか」と言われることが少なくありません)。ずいぶんたくさんの方から、同じような言葉を聞きました。しかし私も若気の至りで、逆にどうしてみんながそんなにあせらないでいられるのかが、最近までよく了解できませんでした。まったく残念なかぎりです。

 1998年に20年あまり勤めた出版社を辞めて、サングラハ教育・心理研究所を通じて、執筆や講演といった広報と、特に人材育成のための活動に専心するのを決めたときにも、ほぼ同じことを、何人かに言われました。そういうことを言ってくださる方は、ほとんど親しい先輩や友人・知人で、私に対してぜんぜん悪意はありません。まったく悪意なく、それどころか善意で、「そんなにあせらなくてもいいんじゃない。物事は、そんなに急には動かないよ」と忠告したり、慰めたりしてくれたわけです。

 それに対して私は、慰められるよりは、危機感を共有できない――したがって当然行動も共有できない――ことに、いらだちやもどかしさを感じてきましたが、ようやく、1つ、あまりにも単純なことに気がついたのです。うかつだったのですが、危機に関してデータを共有できていなかったようだということです。

 それに気づいてから、何人にも確かめましたが、私のまわりの善意のある、問題意識もある方でも、ほとんどの方が、私と共通のデータを読んでおられなかったのです。失礼な言い方になって申し訳ないのですが、多くの方が地球環境について「なんとなく大変らしい」という捉え方をしていて、危機のデータと予測を正確につかんでおられないようです。これは、かなり多くの実際に環境運動をしている市民のリーダー的な方たちさえそうでしたから、ほんとうに驚いてしまいました。

 つまり、肝心の危機のデータと予測を共有していない方に、危機感だけ共有しようと迫ったら、「どうしてそんなにあせるんですか。危険ですよ」と言われてきたわけです。これは当然と言えば当然のことです(もっとも、データと予測を伝えても、「ふーん、そうなんだ。実感ないけどね」という感じで終わる方も少なくありませんが)。

 ひとことで「エコロジカルに持続可能な社会・世界を創り出していかなければならない」という言い方をすると、そういう建て前は、今まともに物を考えている人であれば誰もが認めざるをえない大前提だろうと思います。この建て前を公の場でまともに話をしたら、否定する人はまずいないという状況にあると思います。

 ところが公式の場ではなく、例えばお酒の席などで本音を話し始めると、しょっちゅう聞くのは、「それはそうなんだけれども、無理なんじゃないかなあ」「できないんじゃないかなあ」という声です。それどころか、本音として言うと「エコロジカルに持続可能な世界全体の秩序を創り出していくということは、しなくてはいけないことなんだけれど、できないんじゃないか」という思いを持っている方のほうが、かなり圧倒的と言ってもいいくらい多いような気がします。

 そして、もう一歩掘り下げて言うと、「できなくても、何とかなるんじゃないか」「成り行き任せで何とかなるさ」と、心のどこか本音のところでは思っているところがあるのではないかと思えます。もしかすると、それは、データと予測の厳しさを十分見ておられないために、楽観的でいられるのではないでしょうか。

 今言いましたように、公式の場では建て前は例えば「地球にやさしい」とか「持続可能な」といった言葉が語られます。ところが、本音はなかなかそうでもない。そういうふうな建て前とか、ましてや甘い願望とか、実現しない夢に終わらないために、まずどれくらい困難かということについて認識を共有するという作業をポイントだけでもやっておきたいのです。それからさらに必要な条件についての合意というかたちに入っていきたいと思います。

 ごく日常的な言い方をすると、以下のようなデータを学んだせいで、人類の未来が心配で心配で、それで、ついあせったように聞こえる提案をしてしまうわけです。そういう気持ちを共有していただけると幸いです。




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4 コメント

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環境問題ナカナカ☆政治家が支配者 (ジョニーデップ)
2006-08-23 00:30:15
ゴミ問題 地球温暖化 景気は回復下 人種差別 原油高 日本は借金地獄 殺人事件 暴\力団 警察不祥事 年金問題
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環境問題に無関心の原因 (kana-h)
2006-08-23 10:04:15
 環境問題に無関心なのは、「自分さえよければ」といったエゴ、「自分ひとりががんばっても、何も変わらない」といった虚無感が蔓延していることも、原因のひとつなのだと思います。

 岡野先生が言われる「宇宙と一体」感をすべての人々が共有することで、地球は救われるのだと思います。
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なかなか大変環境問題 (おかの)
2006-08-23 11:46:46


>ジョニーデップさん



 本当になかなかだと思います。



 でも、日本は民主主義国家ですから、政治家を代えることはできるはずです。



 本当に環境を含め重大な問題を解決するヴィジョンと能力を持った人に政治をやってもらうようにしましょう。



>kana-hさん



 ほんとうにそうですね。



 「宇宙と一体」という事実をみんなで共有・共感できるよう、ご一緒にメッセージを発信し続けましょう。

返信する
危機感のなさはなぜ? (しゅとう)
2006-08-24 22:53:12


昨日ニュース23で見た中国山西省の木のない山々が延々と続くの姿。

環境破壊は先進国より一番搾取しやすい途上国で深刻なんだなー。

だから、日本では感じにくいんだろうと思いました。(自分を含め)



でも少しずつ、日本にも危機感を感じられることが出てきました。

今感じているのは、「野菜の値段の高さ」

キャベツ一個400円です。

あとナスは去年たくさん買えたのに、いまは品物があまりない。

こういう事が毎年に起こるといよいよ身に迫る実感として

感じられるようになるんだろうなと思います。



神野直彦「人間回復の経済学」を読んでいます。

あー勉強するってこういうことなんだな~~!

と知的好奇心を揺さぶられ、

学んでいるということを実感しています!

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