自己肯定の難しさ:唯識のことば17

2017年02月12日 | 仏教・宗教

 『摂大乗論』第七章では、唯識の心による学びが他に勝っているといえるのはなぜかと問題設定をし、実行困難な正しい行が含まれているからだと答えています。

 唯識の学びは、エリートにしか実行できないと言われてきました。

 『摂大乗論』の最初に「私は、このことを、勝れた人のために説く」「凡夫に対しては、私はそれを説かない」ということばもあるほどで、かつては霊性のエリートとしての菩薩だけのための学で、「凡夫の救い」を説くものではなかったのです。

 では、どういう意味で菩薩はエリートなのでしょうか。それは例えば十種類の難行をあえて実行するからだと言うのですが、とても面白いのは、以下に引用した第一項目です。


 心による学の違いをどのように知るべきであろうか。……

 十種の実行しがたい正しい行を包括しているからである。

 何が十かというと以下のようである。

 第一は自ら受容するという難行である。自ら悟りを得ようという善なる願を受容するからである。…… 

                 (『摂大乗論現代語訳』第七章より)


 これは、他の力で救われようというのではなく、自分で悟ろうという願い・決心をはっきり持つことであり、自分はそれができる人間だという根本的な自己肯定・自己受容をすることです。

 根源的な自信を持つことと言い換えてもいいでしょう。

 ところが、この自分の極限の可能性を信じるという徹底的な肯定思考が、ふつうの人間には難しいのです。

 これは考えてみるととても奇妙なことです。

 人間にとって自分ほど大切なものはないはずなのに、自分で自分を肯定できないということがしばしば、多くの人に見られます。

 本当に「自分はダメな人間だ」と思っている人や、「自分はダメだ」と思ったり言ったりすることが謙虚だと取り違えている人など。

 自分はダメな人間だと思っている方には、唯識に併せて拙著『生きる自信の心理学』(PHP新書)をお勧めします。

 本当の自信は人間成長に不可欠の土台・出発点であることが納得できるでしょう。

 それを謙虚さだと思っている方には、「自分は悟れないなどと言うのは、あなたに心を与えた宇宙に対して失礼なのではありませんか」と問いかけたい気がします。

 生まれた時から悟りの依りどころである(迷いの依りどころでもあるのですが)アーラヤ識があるのが人間です。

 人間である以上アーラヤ識があり、アーラヤ識がある以上、実は最初から悟りの可能性が与えられている。

 だとすると、本当はすべての人が霊性のエリートで、ただそれに気づくかどうかだけの違いです。

 気づかなければ凡夫、気づけばそのままで勝れた人=菩薩です。

 自分のいのち・心の驚くべき可能性に気づくことは、古代の民衆には確かに困難だったでしょう。

 しかし、今の私たちにはそれほどの難行でしょうか。

 現代程度に恵まれた時代なら、気づくチャンスは十分ある。

 だから、現代の平均的な日本人はすべて霊性のエリート候補生だ、と私は思っているのです。


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