日本の精神性の原点

2006年11月29日 | 歴史教育

 教えているどの大学・学部でも唯識の話が終わりました。

 レポートの提出が始まっていますが、今年も唯識をしっかりと理解した学生がたくさんいるようで、とても喜んでいます。

 私は、授業でよく言うのですが、「山の高さはどこで測るんだろう? 麓か中腹か頂上か? 決まってるよね」と。

 「山の高さは頂上で測るんだよね。で、その場合、山の頂上が広いかどうか、あるいは山の裾野が広いかどうかというふうなことは、山の高さを測る上で参考にされるんだろうか?」

 「もちろん、されない」と。

 「文化の高さもそれと同じなんじゃないかな? しかも広さはそれほど問題じゃない。要するに頂上が高いかどうか、が問題なんだ、と僕は思うんだけどね」

 「ところが、明治以来、日本人は西洋近代の文化の高いところと、日本の近代化されていない一般の部分を比べて、日本は程度が低い、劣っている、遅れていると感じてきたというところがあるんじゃないだろうか?」

 「歴史的にはやむをえない事情もあるんだけど、しかしそれは正当な比較の仕方じゃないよね」

 「比べるなら、高いところと高いところ、頂上と頂上を比べるのがフェアな比べ方だと思うんです」

 「そして、例えば唯識という高み・深みと、エックハルトでもフロイドでもユングでもアドラーでもいいけど、そういう西洋の心に関する洞察の高み・深みを比べたら、東洋-日本はまったく見劣りがしない、どころか、ある面でははるかに高い・深いと正当に主張することができる、と僕は思うんだよね」

 「君たちは、日本の戦後教育の基本方針のために、そういう日本の高み・深みを教えられないままに育ってきて、欧米に劣等感をもってきたわけだけど、これでもう劣等感をもつ必要はなくなったわけだよね。もっとも、比較して優劣を競うというのは、しばしばあまりにも不毛だから、優越感をもつ必要もないんだけどね」

 「そして、授業はこれで終わりじゃないんだよ。これから、日本の精神的伝統のもう1つの高み・高峰、聖徳太子の話をするからね」と前置きをして、昨日、火曜日から聖徳太子「十七条憲法」の話を始めています。

 ご存知だと思いますが、明治憲法でも現行憲法でもなく、聖徳太子「十七条憲法」こそ、日本最初の憲法です。

 そこには、日本という国が国のかたちを創り始めたその時に高々と掲げた国家理想、「和」の精神が謳い上げられています。

 「和」とは、人間と人間の平和、人間と自然との調和、2つの意味が含まれています。

 604年に公布されたものですから、なんと1400年以上前に、日本はいわば「緑の福祉国家」の理想を掲げていたわけです。

 私たちは、一方ではその始まりの古さを誇りにしていいと思いますし、もう一方ではその実現の遅さを恥じるべきではないかとも思います。

 いずれにせよ、私たちには帰るべき、帰るに値する原点があるということは、とても幸いなことだ、と私は思っています。

 教育基本法も憲法も、この原点に立ち帰ったところからこそ本当に改正する――正しく改める――ことができるのだと思います。

 大変失礼ながら、そして残念ながら、与党も野党も、原点を忘れたところで議論しているように見えてしかたありません。

 これまた我田引水ですが、拙著『聖徳太子『十七条憲法』を読む』(大法輪閣)を読んでくださっている国会議員は、私の知るかぎり1名。とても共鳴してくださっているらしいのは、うれしいような、悲しいような……。

 なんとか、教えている数百人の学生だけでなく、国の責任あるリーダーのみなさん、そして国民のみなさん全員に原点に立ち帰っていただきたいものだと願わずにはおれません。



↓というわけで、お手数ですが、是非、2つともクリックしてメッセージの伝達にご協力ください。

人気blogランキングへ

にほんブログ村 哲学ブログへ

コメント (6)    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« いのちの意味と環境と | トップ | 緑の福祉国家と聖徳太子の理想 »
最新の画像もっと見る

6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
精神性の原点 (zazen256)
2006-11-30 04:08:50
 現代社会の教育問題は、戦後からこれまで、徹底して、その「精神性の原点」を無視してきたことに原因があるのではないでしょうか。先生が推進されている環境問題にしても同じだと思います。
 知識人の方々は、たとえ今、その活動が時流の波に打ち消され、世の中に受け入れられなくとも、決してあきらめず、静かに着々とその原点を示し続けて下されば、必ず世の中は良くなると思います。
 おそらく先生のご活躍の記録は着々と世間に浸透し、やがては、日本の基盤思想になるのではないでしょうか。
 失礼とは承知の上で、生意気なことをコメントしてしまいました。お許しください。
 現代社会の乱れの原因が戦後社会の性の乱れと教育環境の乱れにある、ということを話題にさえしない現代の知識人や政治家の皆さんに疑問を持ち続けています。
素朴な疑問ですが (YOKO)
2006-11-30 17:37:01
zazen256さんの言われる
「知識人」とは具体的には誰のことでしょうか?
知識人 (zazen256)
2006-12-01 04:25:29
 私の期待する「知識人」とは新聞や雑誌への投稿文や著書などによって、時代の流れを制御してくださるような方々を意味します。その方の考え方が一般人の心の奥底まで感化してして下さるような「人」です。更には政治家や教育関係者に対して、それぞれに適合する「哲学」を教えられ、信頼されるような「人」です。
 勿論、そのような知識人と協力し合う人々、つまり、システム設計者ともいうべき総合的な観点から社会システム作りに専念してくださる人や組織も必要であると思います。この分野では、コンピュータを最大限に活用して情報処理能力を活用して欲しいと思います。
 私が、世の中に対して何よりも、最優先に希望しますことは、法律ではなく「子供の成長のための実践的教育」の充実です。
 生意気なことを書いてしまいました。
 お許しください。
分別 (YOKO)
2006-12-01 08:08:44
zazen256さん、お返事ありがとうございました。 

ただ思ったのは、「時代の流れを制御してくださる」という「知識人」に私たちは頼っているだけでいいのかな?という気がしました。時代の流れを作っているのはわたしたちひとりひとりでもあるのではないかと思うのです。

「知識人」という言葉は死語かと思っていました。
あまりいい言葉ではないように感じます。
この言葉は、使うと同時に「知識人ではない人々」が含まれてきて、つまり「分別」「差別」の世界になってしまいます。
新しい知識人=エリートが必要 (おかの)
2006-12-10 19:36:19

>zazen256さん、YOKOさん

 お返事が遅れて失礼しました。

 ここのところ、また連日仕事でした。

 お二人の議論について、私は、これまでのような知識人=エリートではなく、憲法第三条で語られているような、エリート・リーダーの本当の役目をよく理解している新しいタイプのエリート・知識人がたくさん生まれてくることを期待しています。

 もちろん私たちひとりひとりが時代を作っていくのですが、社会・集団が一貫性のある機能を果たすにはやはりリーダーが必須だと思うからです。

 どう思われますか?
受け取り直し (YOKO)
2006-12-10 21:05:39
はい。「十七条憲法」の第三条のことですね。
私がいいたかったのはリーダーは必要ないということではなく、私たちひとりひとりが「主体性」を持つということでした。確かなリーダーは確かに必要だと思います。
そしていったん立てたリーダーが本当に私たちの思うような方向に導いていってくれているのかをいつもよく見ている必要があると思います。

先生のおっしゃるように、私たちは言葉に新しい意味や概念をこめてもう一度「受け取り直す」必要を感じました。

コメントを投稿

歴史教育」カテゴリの最新記事