環境問題と心の成長 8

2009年07月10日 | 持続可能な社会
   環境問題と心の成長 8



 ばらばらコスモロジーとミーイズム

 すでに述べてきた通り、近代のばらばらコスモロジー的な見方によって、絶対なるものが見失われると、倫理の絶対の根拠が見失なわれます。

 絶対の根拠が見失なわれると、個人の尊厳=個人が大切・自分が大切という考え方は、自分だけが大切という考えに陥る危険があります。「エゴイズム」です。

 しかし、多くの平均的な市民を見ると、「エゴイズム」という言葉が当てはまるほどひどい倫理の崩壊状態には至っていないようです。

 けれどももう一方、あえて自分が、苦労したり大きな犠牲を払ってまで、人のために尽くす、社会のために尽くす、環境のために努力をするという熱意を持った市民が非常に多い、どんどん増えているというふうにも見えません。

 (もちろん一定程度存在することは十分承知していますが、社会の方向そのものを変えるような質・量になってないことも確かです)。

 法律的また倫理的にあまり悪いことはしないけれども、かといってそれほど積極的に良いことをしようという熱意はなく、とりあえず自分や自分の周りの人たちさえよければいいという考え方・姿勢のことを「ミーイズム」と呼んでおけば、日本のかなり多数の市民たちがミーイズムの状態にあるのではないか、と私は見ています。

 西欧の民主主義における「市民(citizen)」とは厳密に言うと、自らの理性を十分に発揮して、自分自身の生活と、それだけでなく自分の属している社会とをよりよいものへと進歩させていくことに、一人の人間として応分の責任を取るような人間を指すのではないかと思います。

 つまり、一定程度の水準に達したヒューマニストが「市民」なのです。

 そういう意味でいえば、現代日本の平均的な市民の多くは正確には、「市民」というよりは「小市民」あるいは「大衆」と呼んだほうがいいのではないか、という気さえしてきます。

 そして、そうした大衆のミーイズムは、程度の軽い、しかしやはりエゴイズムの一種である、と私は捉えています。

 ミーイズムであれエゴイズムであれ、「自分さえよければいい」というのが基本的な姿勢ですから、自分が損をしてまで、他の人や自分ではない次の世代や他のすべての生命のために何かをするということがないのは、当たり前といえば当たり前です。

 日本人の多くが、小市民ないし大衆という状況にあり、その心がミーイズムやエゴイズムという状態にあるかぎり、環境問題への積極的な取り組みは起こりえず、もちろん問題の解決もありえないでしょう。


 ささやかな幸せ――小市民と庶民の違い

 確かにミーイズム状態の小市民は、「エゴイズム」という言葉の印象ほどひどい状態になりませんし、「快楽主義」という言葉の印象ほどひどいことはやりません。

 自分(たち)のささやかな幸福を追及しているだけなのですから、「どこがいけないんだ」と思われるかもしれません。

 「民衆・庶民というものはいつの時代でもそんなものだ」と言う方もあるかもしれません。

 しかし私は、そうではないと思うのです。

 戦前の日本社会、さらには江戸時代の日本社会の民衆・庶民は、自分の所属する地域社会や村に対して非常に強い責任を感じ、また実際に責任を果たしていたのではないかと思われます。

 ささやかな幸福を追求するという点では、確かにかつての民衆・庶民も現代の小市民・大衆も同じといえば同じです。

 しかし、小市民の幸福主義は範囲が自分だけかせいぜいごくわずかの身の回りの人たちに限られているという点で、かつての民衆・庶民のささやかな幸せを願う心とはかなり質が変わってきていると私には見えます。

 「マイホーム・エゴイズム」という言葉もあるとおりです。

 かつての日本の庶民のささやかな幸せの願いは、家族のために朝から晩まで働くことや村の共同作業に汗を流すこと、ご先祖さまの冥福つまり冥土での幸福を心から願い、子孫の繁栄・幸福のために自分を犠牲にすることとつながっていたのではないでしょうか。

 そうしたかつての庶民のささやかな幸せへの願いは、幸せの基盤は豊かな実りであり、豊かな実りの源泉は豊かな自然であることの認識を含んでおり、その豊かな自然を守ろうという強い意志や行動とひとつのものだったと思われます。

 近年、歴史学の世界で江戸時代の見直しが行なわれてきているようですが、江戸時代には、自分が生きている間に切って使うことのない木を山に植え、「百年、二百年後の子孫が切って使えばいい」と考えて、汗水たらし苦労して世話をしてくれた、ご先祖さまらしいご先祖さまがごく普通のようにたくさんいたのです。

 それに関していつも思い出す一つのエピソードがあります。

 兄から聞いた話ですが、夏八月に郷里に帰省した時、暑い日盛りに義理のお父さんが近くの小川の底ざらいをしていたというのです。

 兄が「この暑いのに何をしているのか」と聞くと、「川にガラスがあると、子どもたちが怪我をするといけないから」と答えたそうです。

 そこで兄が、「うちの子どもたちはもう大きいから川で遊んだりしないよ」と言うと、「あの子らの子が遊ぶ時、怪我をしたらいけないからね」と言ったそうです。

 しかしその時、まだひ孫は生まれていなかったのです。

 まだ生まれてきていない子孫のために豊かで安全な自然環境を守らなければと思い、自分の苦労を厭うことなく働くという気持ちをもったお年より・ご先祖さまは、つい最近まで日本にはたくさんいた――今も少しは残っていますが、ほとんどいなくなりつつある――のではないでしょうか。

 自然の大切さを知っており、また実際に自然を大切にするという点について言えば、かつての庶民は現代の小市民よりもはるかに優れていたようです。

 より広く言えば、自然との関係に関しては、近代は必ずしも前近代より優れているとは言えないのではないでしょうか。

 やがてまとめてやや詳しく述べたいと思っていますが、近代についてプラス面とマイナス面を見たのと同様に、近代以前についてもプラス面とマイナス面をしっかりと見た上で、近代以前のプラス面と近代のプラス面を統合するようなかたちを構想することによってのみ環境問題の解決のメドは見えてくるだろう、と私は考えています。


 快楽主義と大量消費社会

 さて、話を少し戻します。

 小市民の幸福主義も含む広い意味での「快楽主義」では、いちばん大事なのは自分の快楽の量ですから、当然ながら快楽をもたらす「物」の大量消費に向かうことになります。

 鶏が先か卵が先かという話に似て、快楽主義が先か大量消費社会が先かを決定することは難しいでしょうが、相互に循環し促進し合う関係にあることは間違いないと思われます。

 近代人が快楽主義的になればなるほど大量消費社会も拡大発展し、大量消費社会が拡大発展すればするほど小市民も快楽主義的になって来たといっていいのではないでしょうか。

 すでに述べたような入り口と出口での限界が顕在化しない間は、快楽主義と大量消費社会の相互促進は非常にいいことであるように見えました。

 たくさん作ってたくさん売り、たくさん買ってたくさん消費すればするほど、経済は活性化するのですから。

 そうした近代人の快楽主義と大量消費社会の相互促進が、資源の大量消費と大量廃棄による自然の汚染という環境問題に深いかかわりがあることは、もはや言うまでもないでしょう。

 これはまさに「悪循環」と言うべき状態であり、この悪循環を断ち切ることなしには、環境問題の解決はありえません。

 しかし、日本では現に大量消費社会というシステムによって日々の生活が回っているのですから、そうとう本気にならないかぎり、変えることはできません。

 そして、快楽主義・幸福主義やエゴイズム・ミーイズムという心の状態では、本気になどなれるわけはありません。

 消費社会をどうするかというのは社会システムの問題であり、快楽主義やエゴイズムをどうするかというのは心の問題です。

 何度も言ってきたことですが、環境問題は、多くの方が考えているのと異なって、単に技術で解決することができないのみならず、社会システムの変更だけでも解決できない、心の問題の解決も必須だ、そもそも心が本気にならないかぎり社会システムの変更もできないのだから、と私は考えています。



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