The Last ward from Southen Cross to my future

目の前にある林檎は本当に林檎なんだろうか。その林檎は腐っているから林檎だって気づかないだけかもしれない。

日本国内で日本人差別につながるヘイトなんたら運動の廃止を

2015-03-08 06:05:55 | Weblog
そもそもヘイトなんたら、というのはあきらかに物理的な身体特徴が違う人種間でのみ有効な価値観だ。もし、イデオロギーの違いによるヘイトなんたら、と反対運動をしたらどうなるのか、よく考えて頂きたい。そもそも外国人が違法な状況で長期に日本国に居座り、日本人と同等の権利を得るためにいう内容が日本人への憎悪言動そのものだ。こういった人による物理的な侵略をする朝鮮半島国を警戒するどころか、受け止めようという日本人こそ、外患罪の適用がふさわしい。何故なら、敵国相当な言動で、自国民に被害が出てても、政府はこれを問題とせず、ひたすら隠蔽してきた歴史的事実がある。これは日本政府だけの問題でもなく、朝鮮半島の国との間で、なんらかの密約がある可能性も否定はできない。そういった怪しい関係の状況で、その国の外国人にヘイトなんたらはいけない、と平然という人は少なくても日本国の国民ではなく、朝鮮半島国の従者かもしれない。なにせ騒げば利益を得るのは、彼らなのだから。普通は差別され、危険と感じるなら、さっさと当事国を出て、他国に移動するか、帰国する。これは世界の常識だ。それとも帰国できないほど、彼らの国は危険に満ちているから難民だとでも言いたいのか。例え、難民というのなら、日本政府は即刻、難民一時収納施設を作り、彼らをそこに収納し、国連より難民認定が出るまでは、閉鎖地域で自給自足をしてもらう。医療なども医者や看護婦もいるのだから、農業や工芸などで経済自立してもらって、薬や設備を購入してもらえばいい。なにせ、彼らは貧困ではなく、資産を持っているのだから、ほかの戦争や内乱などで生じる難民たちとは違う。

日本国内が外国人を差別という背景には、確実に朝鮮半島出身者の違法滞在がある。中国からの不法滞在者も多いだろうが、数からすれば、ダントツ朝鮮半島出身者だ。そして、彼らのごり押し要求が、他国からの不法滞在者を増やし、不法滞在者にとって有利な条件を得るために利用されている。これを支援する弁護士や団体もいる。そもそも自国に帰れない事情が子供がいるとかなら、子供を連れて帰ればよい。結婚というのなら、家族で帰国すればよい。何故、そこまで日本国での滞在にこだわるのかわからない。経済的理由というではなく、社会福祉による待遇面が自国よりよい、という理由でみな帰国しない。不法滞在者も増えて行くだけだ。

まず、外国人には社会保障の適用を制限する。経済自立できない不法滞在者は強制帰国。家族がいてもだ。家族がいるのなら、家族が不法滞在者を支えて、法的に滞在できるようなビザを取得すればよい。これが取得できないなんらかの条件があるのなら、家族まとめて帰国してもらうのがよい。費用と罰則は出身国との条約次第になるように、罰金を彼らが払うのか、出身国が立て替えてからのちに出身国の法律で裁くかしてもらうようにする。こういった条約を締結していくことで、特定国のみに不法滞在者が集まらないようになる。経済格差があるアジアでは、これぐらい厳しくしていかないと不法滞在者がなくならない。すでに中東からの難民に便乗した偽装難民が溢れている状況なので、これを解決する手段として、国同士での条約締結を有効かしていくしかない。
逆にこの条約がない国からの移民は、制限があるとすればよい。近隣諸国は日本国との話し合いを拒否するぐらいだから、条約締結は難しいのだから、この策は有効だろう。米国などがいちゃもんをつけるのなら、彼らが取る不法滞在者への処遇などを言い返せばよい。


本当に他国籍からの子供たちをまともに育てたい、犯罪者にしたくない、というのなら、まずはヘイトなんたら運動などは廃止するのが好ましい。法律で言動を制限する、表現を自由を制限する、これは日本国が古来から継承した文化ではない。言われた方も気にしなければいい。差別は国民と外国人ではあって当然だ。区別もだ。そもそも差別とは、人の心の問題であり、法律を制定したところで人の心が変わる訳ではなない。その例が米国にある。肌の色での差別は今でもある。法律では人の心は変わらないのだ。ただし、肌の色で差別をしない人の数も半世紀で相当な数になってきている。変化には時間がかかる。これを身を以て知っている人たちは、日本人だけではない。身分階級がない社会であっても、出身や経済的レベルでも十分に差別している現実がある。
まず、教育だ。肌の色が違うだけでは、差別の理由にならないだけで、別な差別は世界のどこにでも存在する。
法律でどんなに制限しても、人間の心までは変えられない。この前提を日本人は島国という閉鎖された地域社会で生まれた文化からいろいろな回避策を生み出した。それが、村八分だとか住み分けだ。他国からすればこれも差別だとか、アパルトヘイトという。だが、日本国内への内政干渉とも言えるような言動をする国へこそ、言い返したい。差別がない地域社会など、地上にはない。刑務所内でも出身や身体の違いで差別はあるそうだ。

嫌いなものは仕方がない。我慢するのが自分か、ほかか。ただし、我慢する状況がいつも一方的であれば、その反動はどこに向かうのか、考えて頂きたい。こういった人の感情を法律でなんとかできるほど、人間は理性的なのか、と疑問もある。犯罪が発生するのは何故なのか。犯罪がない地域社会をどうすれば実現できるのか。その手段として住み分けがある。最近は民度という表現を使っているようだが、自分たちが生活する一定の地域社会のルールを守ることで、自らも快適な生活が約束される。しかし、ルールを守らないで、自分たちだけが快適な生活をしたい、という人は、犯罪を犯しても何の反省もないし、ルールを作るたびに文句をいう。こう考えるといろいろ見えてくる。誰のための言動なのか。

外国人労働者が増えるのなら、ひとつ提案がある。日本語が不自由な外国人のために、何の言語ならコミュニケーションができるのか、レベルを分けて身分証明カードの記載してもらう。もちろん、持病や宗教などもだ。
緊急時に対応できるようにするためだ。これを差別というのなら、差別としか見えていない人には、地域社会でいかに快適に外国人も日本人もいっしょに生活するのか、という視点は理解できないと言える。違うものは違う。だからこの違うをどう地域社会が吸収するのか、そういった策を考えて、試行錯誤するのが重要だ。だが、日本がこういった試みを簡単にできない背景には、まさに朝鮮半島出身者によるヘイトなんたら運動のようなネガティブな言動がある。人口数も少なく、国連公用語でもない朝鮮語が大学の入試科目というのもおかしな話だ。だったらタガログ語、ベトナム語、ペルシャ語もあって当然だろう。しかし、こういった提唱をしない。

日本人が欲しい移民とは、共に手を取り合って、住みやすい地域社会を作ろう、という意思を持つ人たちだ。外国人労働者もそうあってほしい。だから、言語や宗教など、緊急時に必要な情報は提示できるような身分証明カードが必要なのだ。警察や消防も緊急時のために各国言語による通報対応が可能にする。病院も電話経由などの通訳で各国語言語に対応する。オリンピック前にできるはずなのだから、即刻やって欲しい。
そして、こういった特定国のみ有利になるような運動は、差別を広げるだけなのでなんらかの法律上で制限して活動を制限させる。ヘイトなんたらへの抗議は、言論、思想の自由への差別であり、疎外を要求している、と認識して頂きたい。誰もが自分の意見を言える。それが社会的に受け入れられないとしても、発言する自由はある。あとは本人が社会から制裁を受けるだけだ。

この社会からの制裁についても、暴力行為は徹底的に取り締まる。壁への落書き、近所への怪文書配布などは、暴力行為と同じ。言いたいのなら、堂々と自ら名乗り出て言うべきだろう。これをしないのなら、しっかり取り締まる。少年法への不満はわかるが、死刑を要求というのもいかがなものか。まず、死刑についてもっと議論は必要だ。これは法的にも倫理的にもあらゆる面からの議論があって、はじめて死刑とは社会にとってどんな定義なのかが決まる。

自分は死刑反対の立場だ。残虐な殺人やテロによる大量虐殺というのなら、閉鎖空間で活かし、生活条件も制限しておきたい。苦しんで死んで欲しいからだ。たぶん、良心がある人は自殺するだろうが、まったく反省もなくもない人は、苦しむこともなく生活できる。更生とか、人間が勝手作った定義であり、誰もがそれに適用するはずもない。だから何度も重犯罪を繰り返す人もいる。社会における、重犯罪者を殺す効果は何だろうか。例えば、死刑にしても一人殺してもならない、など基準が曖昧だ。犯罪を犯す側がそこまで考えているのかは、疑問もある。確かに少数の犯罪者は罰則回避で調べるだろうが、結果として、同じなら罪が軽くなるってのもおかしい。正当防衛は認める。罪を犯して刑を受けて、出所しても社会は厳しい。これが社会からの制裁だ。一定の人は受けれるが、一定の人は受けれない。このバランスが正常な社会を保つ。自由とはこういうものだ。
言論や思想、思考の自由を制限する社会は、偏向した言論、思想や思考の満たされる。そこで生まれた社会に自由や穏やかな社会は存在しない。なにせ何かに頭から押し付けられているからだ。社会にとって必要なルールと目に見えない押し付けられた制限の違いはわかるだろうか。よく考えて欲しい。自分だけではなく、誰にでも適用できる。自分だけに適用できる。こによって生じる違いは何なのか。

宗教や文化によるタブーはたくさんある。それが共存することで、お互いの生活習慣に影響ができる場合もある。だからこそ、事前に違うを知ることはとても重要なのだ。違いをどう吸収すればいいのか、本来はこういった議論が活発にならなければいけないのに、あれこれ制限ばかりを要求する。本当に自由を手ばなしてもいいのか。

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