言葉で話し合いができない相手に対しては、行動、それも子供でもわかるようなレベルで示さない限り理解してもらえない。なにせ、決め事を認識し、それを守る意味がわかってない相手なのだから、もっとも初歩的な態度で怒りを示すのが妥当。日本が怒っている原因も伝えたところで、理解できないのだから、もう対話しないでもいい。
人に噛み付く犬にいくら説教をしたところで、通じないのと同じ。今までは暴れ犬だから、優しくなつかせるまではしていただけだ。ところが、そんな状態なのに、やっぱり噛み付いたから怒っている。
国民みんなで事実でない歴史を教育し、信じているような国って、もうこれはカルト集団との交渉と変わらない。
そんな国とビジネスとか民間交流なんて、危なくてできるはずがないのだ。ところが、それをやってきたのは、竹島をめぐるように日本人を拿捕し、人質外交をされた経験からなんだろうか。暴力団にみかじめ代を払い続けた結果、どんな利益があったのか、日本人はよく思い出した方がいい。
日本が健全な思考をし、自らの憲法改正および未来への技術開発を含めた戦略をするためには、間違った朝鮮半島との関わりは是正しなければいけない時期が来た、と自分は感じる。人道云々とか、差別とか、あまりに偏向した彼らの主張のおかげで、大多数の日本人は正しい判断ができなくなったとも言える。まず、すべてにおいて朝鮮半島優遇はやめる。今後の交流も、中国やロシアを重視し、朝鮮半島とはほとんど交流はしないでよいようにしていく。そのはじめの一歩が貿易による優遇策。ゆえに日本側の輸入についても、他国同様の厳しい検査を基準とし、食物についても衛生面で何かあれば、輸入停止もあって当然。また、学生も労働者の受け入れも、他国人と同等に日本語能力、犯罪歴を審査してからビザの発行とする。少なくても、同盟国や条約締結国以外であれば、すべて平等な基準をきちんと明確に示すのが重要。反面、同盟国や条約締結国の場合、留学生、労働者や輸出入への優遇措置はあって当然だが、これを公開はしない。何故なら条約があるからだ。これが本当の貿易。市場解放とは、解放先との二国間またはTPPのような組織内で情報を共有するべきであって、すべてが公開して言い訳じゃない。
例えば、捕鯨にしても、日本はあまりに世界を相手にあれこれ言いすぎた。たぶん、海鮮物の食料において、鯨肉の需要は高い訳じゃない。それでも捕鯨にこだわる本当の理由は何なのか。日本文化の維持だとかいうが、鯨肉は日本中どこでも食べられた訳でもないし、むしろ、工芸品や生活に必要な品のパーツとしての需要が高かっただけではないのだろうか。鯨肉よりも鮪や鰻の必然性の方が高い。あと、鯨より南極のオキアミ乱獲こそ、日本は世界に訴えるべきだ。オキアミを主食とする魚は鯨だけではないからだ。
日本は米国との安全保障関係を確固たる維持と共に、中国やロシアとの経済や安全保障の共有も模索する必要はある。特に学術、技術においては必然だ。何故、中国やロシアが侵略を望むのか。たぶん、インドの将来も社会主義や共産主義に変わる可能性だって否定はできない。あれだけ大量の国民を抱えているのだから、経済的な安定も必要なのだ。ただし、大きな国ほど、貧富の差は大きく、経済格差は縮まらない。インドは社会福祉を宗教で補っているが、中国はそれすらない。ソ連は経済政策を失敗して解体した。これは米国だって似たようなものだ。オーストラリアや英国は労働者の賃金が高すぎるために、製造業が維持できなくなった。だから輸入に頼るとなると、今度は国内の雇用に偏りができてくる。オーストラリアは介護士夜間や休日の賃金が高いため、高度老人施設の運営が厳しくなっている。もう一つの原因は、金利が下がったことだ。利子で生活しているお年寄りは老人施設から追い出されている。日本の老人介護施設は、介護士の賃金が安すぎて、介護士として働こうとする人がいない。すでに高齢者を社会から排除するような体制すら提唱する人が出てくる始末は、日本も英国もオーストラリアも同じ。
地域社会がなんらかのストレスが溜まった状態だと、まっさきに弱い部分を攻撃する訳だ。言葉や行動で出て行けというのが、差別と禁止する日本は、どうなんだろうか。根本的な問題を理解してないから、今でも解決できない。もともと日本人は世界でも差別意識を持たない文化だった。政治的な理由で外国からの文化を阻止した歴はあれども、一般民は拒否してはいない。見世物小屋で障害者を見世物にしているのを、差別というが、働く場所がない障害者や一般と異なる身体を持つ人にとっては、唯一の働き場所だった。もちろん、昔は人権意識なんてないから、奴隷とか、動物に対しても限度を越えた要求をしていたのも事実。ただし、すべてが悪い訳ではない。つまり、現代の自分たちができるのは、あれこれ言われる権利だとか、主張よりも、まずは個々が生活できるためにどうすればいいのか、と考えることだ。どうしても労働できないため、収入もない人もいる。そういった人を放置するのではなく、地域社会で助けていくことができるのかどうか。障害者でも社会に参加したいと望めば、参加できるようにしていくのが好ましい。ただ、障害の種類によっては、本人の望みが叶わない場合もある。例えば、バスや電車の運転手になりたい目が不自由な人がいる。現在では自動運転が十分ではないので、目が不自由であれば、運転手になることはできないが、将来はわからない。問題はメンタル障害者。社会でどう参加していけるのか。日本はそういった動きすら未だにないのだ。背景には、批判し、足を引っ張る行為を否定しない文化にある。つまり、言いたい放題だけで、解決策も模索しない。
法治国家であれば、法律従事者への国籍も考慮すべき。少なくても裁判官や検察官には、宣誓書にて日本国憲法の下で公明な判断を誓ってもらう。温情とか、そういった配慮は必要ない。AIによる判定を望むのは、感情の排除こそ、公明正大だからだ。法は完璧でないから改正は不可欠だし、それこそが民主主義における法治国家の存在する意味だ。