さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

山中律雄『川島喜代詩の添削』

2020年10月17日 | 現代短歌
 私は会ったことがないのだが、川島喜代詩の名前は、その歌の印象からかもしれないが、ゆえ知らず慕わしいのである。本の名前をみた時に、筆者がこの本を出した理由は、川島喜代詩の持っている人間としての温かさのようなもの、また生真面さのようなものに由来するのだろうと、ただちに了解された。それは、本をめくればすぐにわかることでもあったが、筆者の山中氏の持っている資質の芯の部分と、川島喜代詩の短歌作品の核にある純一で初々しいものへの希求は、共鳴し合いながら深いところで響き合っているのだろうと、私なりに納得のいくものでもあった。

 「 時を待つ感じに暗き水ありて動くともなし木下のみづは  (原作)
  
   時を待つ感じに暗き水ありて動くともなし木群の下に   (添削)

(評)「水」のリフレインは、必ずしも成功していません。

(略)計らいは不感動の源である。「時を待つ感じ」「動くともなし」を活かすのに「水」を重ねる必要はなく、まのあたりの「木群」によって、情景のはっきりした一首になった。 」
               126ページより

掲出歌は、茂吉・佐太郎直系の歌と言っていいのだが、さすがに出詠する方も添削する方も、ある水準を抜けたところで、詩とは何かということを問題にしているのがわかって楽しい。これは「リフレインと重複」という章にある。

「 かたくなな思ひを解けるありさまに木蓮のはな開き始めつ  (原作)

  かたくなの思ひをほどくありさまに木蓮のはな開き始めつ  (添削)

(評)歌のほうも、一、二句あたりをほどきましょう。

(略)「解ける」も「ほどく」も意味は一緒だが、比較的大きな花である木蓮が開く様子を思えば、やはり「ほどく」の方が適切だろう。些細なことによって、花とこころの交歓、自然と人間の交歓が生まれた。言葉を扱う者はこうしたところに敏感でありたい。 」
                         168ページより

この評言の何とも言えないユーモア。
佐太郎系といってもいろいろな資質の人が居て、先生のレベルを継承維持するだけでもそれはそれでたいへんなことなのだけれども、本書に縷々記されているような、技法の勘所の部分、それから基本の構えのところをないがしろにしていると、現代短歌は必ずや足をすくわれてしまうだろう。それにしても、改めて川島喜代詩は振り返るに値する歌人であると思った。

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