跋文に「阿木津英氏は文字通り師として教え導いてくれた。」とある。即物的な緊密な文体と、現象に真向かう時の気合いのようなものは、確かに阿木津英ゆずりのものだろう。また、阿木津英の師にあたる石田比呂志や、阿木津がよくよく読みこんだ玉城徹の作品からも示唆を受けているらしい作品がある。巻頭の章より引く。
人界の上にひろがる雲のむれ多なる電気コードを垂るる ※「多」に「さわ」と振り仮名。
雲間よりハンバーガーが降る時を道に拾いてわれも喰らえり
一首めは、「雲のむれ」で一度切れるのだろうが、一読して得られる印象は、直下の「多なる電気コード」が、まさに「雲のむれ」の中から垂れているかのような不気味なイメージである。
二首めは、さらに幻想的で、雲間から今度はハンバーガーが降っている。玉城徹の夕暮れは帽子が空を飛ぶごとしという歌のイメージが一瞬頭をかすめる。たぶんその歌を本歌取りのように底に沈めながら、何かいやしい事をしているような、罪深いことを当たり前な顔をしてやっているというような、受け入れ難い事も受け入れて生きてしまっているというような、そんな感じの生の感触が手渡される。シュールリアリズムである。二首目の歌のすぐあとに、こんな歌がある。
額縁店の壁に我、我、我、我、我、我を充てよと額のひしめく
何も入っていない額縁が、自分を使ってくれとひしめいている。壮絶な自己主張である。こんなことを普通は考えない。そこに「絵」を入れたら、その「絵」は十全の「我」になるのかもしれない。自我論としてもおもしろい比喩だし、空無の枠組みが「我」だという逆転の発想は、秀逸で頷かせられる。後半から引く。
くろがねの扉の塗りの剥げたるはひとびとが日日掌に押すところ
※「剥」の活字は文字化け対策に略字とした。
こういう、やや持って回ったような目の付け方は、現代の歌人たちが磨きをかけて来た技なので、真野の身近にいる島田幸典などと同じエコールの匂いがあるけれども、バスケットボールの三点シュートが決まった時のような美しさがある。そうして、阿木津英の歌のような「現存在」の<気分>の呼び起こしが、かすかに感じられる。
河岸に並べる見れば板覆うブルーシートを様式となす
これは、ホームレスの家を見ている。「様式となす」と言った瞬間に、私たちが無意識に受け入れているものが対象化されて、<かたち>になって見える。
「侵略」は戦後の言葉とざくざくと父ざくざくと筍を食む
息子は「父」の主張が理解できる。けれども、抵抗も感じている。だから、食事をする父が筍を噛む音は、「ざくざく」と荒々しい。散文の言葉では言えないニュアンスをみごとに伝えている。
捕らえたるばったは草をしく籠にことごとく死す夏の一夜に
同じ一連の少年時回想の歌である。誰しも一度はこういう経験があるだろう。無垢でありながら、なにか後悔しなくてはならないところに立たされてしまっている。ひとが、中年期を過ぎてこういうことを言う時は、現在の自らの後悔や罪の意識が投影されているのだ。無益な殺生をしているような日常というもの。真野の作品は、そこのところの後ろ暗い感じを<気分>としてとらえて、作品化している。