さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

佐々木幹郎『音みな光り』を読む

2023年12月31日 | 現代詩 戦後の詩
  手元に佐々木幹郎の『音みな光り』という本がある。まずタイトルにひかれる。ウクライナでの戦争のニュースに加えて、連日ガザの死者の数が報道されるような状況のもとで、「音みな光り」というのは、どんな事が書かれた本なのだろうかと、興味が動いた。
 全体は四つの章に分かれていて、最初の章は「舌を打ち鳴らすための音楽」である。その最初の詩は「舌を打ち鳴らすための五つの音楽」と題されていて、Ⅰからⅴまでのローマ数字をふられた五つの詩をもって構成されている。そのⅠをここでは読んでみたい。

    ※ 以下、便宜的に行頭に番号を付し、行空けがなくても、何行かの詩行をまとめて「一連」のようなグルーブとして扱う。

Ⅰ (全30行。行空けなし。)

わたしたちは天を喰う
地を舐める
ひくひくと動くもののひとつであり
わたしたちは暗闇のあたたかい洞窟で
死の意味を問い
丸められて
息をすることのないものであり
わたしたちはひらかれたとき
その存在を一瞬にして忘れ去られ
空気に向かってかん高く揺れる
そして再び平たくなって
湯気を出すものであり

 ここでいったん引用の手をとめる。読み始めて、「わたしたち」が何なのか、すぐにはわからないのだけれども、12行目の「湯気を出すものであり」まで来て、「ん?もしかしてこれは間欠泉のことか」と思うわけである。ただし、この「間欠泉的なもの」は、「天を喰う/地を舐める/ひくひくと動くもののひとつであり」とあるから、「うごくもの」の一つなのだ。だから、これ以後の「間欠泉的なもの」についての描写は、すべてこのほかの「うごくもの」の生態、在り様でもある、ということになる。つまり、地上に存在する人間を含む生きもののすべてが、「天を喰」い、「地を舐め」て存在しているということを指し示した詩行ということになる。

わたしたちはときおり
わたしたちの仲間に出逢うとき
もうこれ以上抱きしめることができないほど
互いにからみつき
讃えあい ののしりあい
けれど 五月の青空が映るスプーンの上に
冷ややかに横たわることもできる
やわらかな獣であり
わたしだけは
どこにでももぐりこめることのできる
許しのなかで 小さく

 ここでまた立ち止まる。「互いにからみつき/讃えあい ののしりあい」というのは、これは明らかに友愛を交わしたり、闘争したりする人間のイメージである。しかし、18行目の「けれど」以下で、「五月の青空が映るスプーンの上に/冷ややかに横たわることもできる/やわらかな獣であり」となって、青空の精のような、この「やわらかな獣」の正体が何なのか、再び曖昧にわからなくなっていく。21行目の「わたしだけは」以下を重ねて引く。

わたしだけは
どこにでももぐりこめることのできる
許しのなかで 小さく
あ と言い
お と言うことができる
わたしたちは とくに
透明なあけぼの
ゆっくりと時間をかけて
発酵することができる
美しい生きものの形

 これが三十行の全部である。この「どこにでももぐりこめることのできる」ものは、何となく、地上に遍満する水のような、また空気のような変幻自在に遍満するもののイメージであるが、「あ と言い/お と言うことができる/わたしたちは とくに/透明なあけぼの」の「あ、お」は、曙光の射しこむ天空の「青」色のようでもあり、「五月の青空が映るスプーンの上に/冷ややかに横たわることもできる」というのは、そのような青い色それ自体が〈光〉の現実的な姿としてここにあらわれていると解釈することもできる。それは詩集全体の題とも響き合っている。末尾の五行をもう一度みてみる。

わたしたちは とくに
透明なあけぼの
ゆっくりと時間をかけて
発酵することができる
美しい生きものの形

 ここまで読んで来て「わたしたち」が、当初は「‥ひらかれたとき/その存在を一瞬にして忘れ去られ」るようなものだったのに、いまや「ゆっくりと時間をかけて/発酵することができる」ものとして讃えられるものになっている。いつの間にか、「わたしたち」は、〈光〉を持つ〈言語〉そのものの喩ともなっているだろう。「あ と言い/お と言うことができる」とは、そういうことだ。
 何度も読んでみて案外と気になるのは、26行目の「わたしたちは とくに」の「とくに」という副詞である。直接には次行の「透明なあけぼの」にかかっているのだが、この行を挿入句的に宙づりにしたまま、それ以後の行にもかかっているようにも読める。とく(・・)に(・)、「ゆっくりと時間をかけて/発酵することができる」、そのような「美しい生きものの形」なのだ、と言っているとも考えられるのである。  ※ 「とくに」に傍点。元がワードのファィルなので。

 ここまで書いて、翌日になってこの章の扉に小さな活字で組まれた詩集全体の緒言とも言うべき文章が置かれているものに、改めて目を通してみる気になった。豊多摩刑務所正門扉のモノクロ写真が見開きで印刷されている右ページの奥に、8ポイントぐらいの小さな活字で次のように書かれている。

 「舌は言葉を話すときに使われ、ものを味わうときに使われ、楽器を吹き鳴らすときに使われる。お互いに触れあって愛情を伝える場合にも、だが日本語の舌はつねにさげすまれている。
「舌を出す」(相手を馬鹿にする)、「舌を巻く」(驚く、感心する)、「舌が肥えている」(鋭い味覚)、「舌をふるう」(雄弁)、「舌がまわる」(よどみなくしゃべる)、「舌先でまるめこむ」(うまく言いくるめてだます)。――(岩波「国語辞典」)
 舌はそれ自体として、見つめられることも、音を出すこともない。しかし、「母語」(mother tongue)はもともと、母なる舌なしには語ることができないものであり、わたしたちが最初に日本語を覚えたのは母の舌からであった。それは見つめられることもあれば(find one’s tongue=口がきけるようになる)、言葉そのもの(the gift of tongue=言葉の賜物)でもあったはずだ。そのようにして舌があがめられることがあるだろうか。
 舌を打ち鳴らしてみる。」

 端的に言うなら、「舌を打ち鳴らす」とは、詩を書くことそのものの喩でもある。この緒言は、先に注記を書いた詩行に直接影響を及ぼしているのだが、この文言に引きつけられすぎて読むことから自由に読んでみたかった。ここで〈母語〉を語るなかで「母体」と「母」を介した言語の習得について語られていることが印象的だ。「わたしたちは暗闇のあたたかい洞窟で/死の意味を問い/丸められて/息をすることのないものであり」という詩行の「暗闇のあたたかい洞窟」は、子宮のイメージでもあるだろう。

 この文章を書き写しているうちに、最初から12行目までの試読のなかで私が「間欠泉的なもの」と呼んだ〈比喩の相手〉(※私が案出した用語)として、とくに音楽も考えられるのではないかということ、特に金管楽器の吹奏のイメージを持ってきたら楽しいのではないかと思いついた。すると、リヒャルト・シュトラウスの「ツァラツストラかく語りき」の冒頭のファンファーレがたちどころに連想されたのだけれども、この詩の場合は、そんなに鮮烈な語り出しではなくて、「ひくひくと動くもののひとつであり」、「息をすることのないものであり」、「湯気を出すものであり」という、「~であり」の繰り返しによってこの詩固有の定型的なリズムを生み出している叙述の一部であって、この詩の「わたしたち」はそんなに派手やかなものではない。

 でも人間が発声や、音楽としての音を生む前の、混沌とした待機状態というものは、ここに言われているような「暗闇のあたたかい洞窟で/死の意味を問い/丸められて/息をすることのない」ものなのであろうし、さらに「…ひらかれたとき/その存在を一瞬にして忘れ去られ/空気に向かってかん高く揺れる」ような、瞬時に消えてゆく生のほとばしりでもあるものが、われわれの発語や音楽だということだろう。そうしてこの詩全体の音楽的なイメージが、視覚としてまとまりを持って焦点化されている語句は、「透明なあけぼの」以外にはない。この詩の「わたしたち」は、「舌」または「舌の生み出すもの」のことであるのにちがいない。この「美しい生きものの形」をした「透明なあけぼのの色」を思い描くことは、生きることのなかでの理念的なものの抱懐にかかわっている。

鮎川信夫『宿恋行』

2018年05月03日 | 現代詩 戦後の詩
 古書で鮎川信夫の詩集『宿恋行』を買った。あんまり自分のこの頃の気分にぴったりするので、いや、鮎川ほど私は自己滅却への願望は強くない。それにしても、読んでいて「楽しい」というか、「みたされる」詩集ではあって、まあ、連休中にこういうことを朝の四時に起きだして書いているような人間もそう多くはないだろう。引いてみる。

  こんな夜には     鮎川信夫

セブンスターの箱をはじくと
悪魔が出てくる
一人でタバコをすっていると
むしょうにやつと話したくなった   

シガレットの吸口を
かるく水につけて上から吹く
無意味ないたずらにも
造物主の息がかかっていて

こまかい泡のかたまりが
コップに落下しすぐに消え
無数の星の悲鳴を耳のなかに残すから
うれしくならないこともないよ

紙マッチの軸を台紙からちぎらずに
ちょっと折りまげてこすりつけ
くだんのタバコに点火すれば
冷たい水色のけむりが立ちのぼる

澄んだほほえみを忘れちゃいけない
あくまで一人の殺し屋の
おいらのメッセージ
習慣のロボットになるな

紙マッチの台紙には
折れまがった用済みの黒い頭と
まだ綺麗な白い頭とが仲よくならんでいて
醜い現実の姿をさらしている

タバコの外装からセロハンをはずして
箱型のそれを机のうえに立ててごらん
透明にそびえることを望んでいる
きみの城にそっくりだから

てっぺんに火をつけると
美しい炎をあげて燃えあがり
十数秒で黒い灰になる
すべてがこんなふうだったらわるくはないぞ

じゃあ おやすみ
健康のため
吸いすぎには注意しましょう
なんと無邪気な悪魔のやつめ!

 全部で九つの連によって構成されている詩だ。以下にコメントを試みることにする。

1
セブンスターの箱をはじくと
悪魔が出てくる
一人でタバコをすっていると
むしょうにやつと話したくなった   

2
シガレットの吸口を
かるく水につけて上から吹く
無意味ないたずらにも
造物主の息がかかっていて

 悪魔と造物主が対照的な存在であることは、誰にでもわかる。しかし、タバコを使っていたずらをしている時に発生する泡・あぶくを見ながら造物主の名を引き合いに出すこと自体が強烈なアイロニーである。ここで造物主も笑わせたいと詩人は思わなかっただろうか。

3
こまかい泡のかたまりが
コップに落下しすぐに消え
無数の星の悲鳴を耳のなかに残すから
うれしくならないこともないよ

 三行目と四行目の言葉の切れ具合が、尋常ではない。四行目の「うれしくならないこともないよ」という話し言葉のような、翻訳文体のような一行の秀抜さは、言いようもなくすばらしい。

4
紙マッチの軸を台紙からちぎらずに
ちょっと折りまげてこすりつけ
くだんのタバコに点火すれば
冷たい水色のけむりが立ちのぼる

 「冷たい水色のけむり」は、むろんニヒルな煙であるが、抑えた言葉遣いのなかに冷え冷えとしたよろこびを感じさせる詩行である。

5
澄んだほほえみを忘れちゃいけない
あくまで一人の殺し屋の
おいらのメッセージ
習慣のロボットになるな

 これはタバコの悪魔がしゃべっているのだろう。私の解釈では、この詩は荒淫のあとの気分につながっているのである。だから、悪魔が退屈な殺し屋であるのと同様に、詩人である「おいら」も肉を相手になすところの技巧家であり、比喩としての「殺し屋」の一人なのだ。ただし世間一般の殺し屋というのは、想像力が死滅しているからこそそういうことができるのであって、この詩人のように愛技の手練手管にすぐれているわけではないだろう。「澄んだほほえみを忘れちゃいけない」というのは、手を下す時のことであろう。まったく天才的な一行だ。

 しかし、何しろ日本みたいな国で大藪晴彦の小説ふうに銃器をぶっぱなすというのは、先日のキレてしまったおまわりさんみたいで、野暮の骨頂と言えるかもしれない。ついでに詩と同じ対照の詩法にならって書くと、先月末に捕まった脱獄犯の男は、近頃めずらしいハードボイルドな表情をしていた。日本社会というのは、一人の男がああいう顔になるまでに人を追いつめる社会なのだ。彼はまったくそんなことは自覚せずに、全身で拒否感を表明していたのだが、大半の人間は、そんなことは夢にも思わないにちがいない。私は『宿恋行』が気分にぴったりするぐらいのところにいる人間なので、彼の孤独が理解できる。(彼の以前に犯した犯罪が、ではない。) 

  ※そののち週刊誌の報道で、彼がおかれていた施設が人間の自尊心を根こそぎ損う旧態依然とした、旧軍隊のようないじめ的な状況を放置している、ひどいものであるということがわかった。私は刑務所に暮らしているひとたちに同情を禁じ得なかった。日本の刑務所を管轄しているひとたちは、ドイツその他の「先進国」にまじめに視察に行くべきだろう。受刑者の人権を損うような刑務所は、再教育機関・人間の更生機関として失格である。マスコミも口を拭っていないで、きちんと続報をすべきである。

6
紙マッチの台紙には
折れまがった用済みの黒い頭と
まだ綺麗な白い頭とが仲よくならんでいて
醜い現実の姿をさらしている

7
タバコの外装からセロハンをはずして
箱型のそれを机のうえに立ててごらん
透明にそびえることを望んでいる
きみの城にそっくりだから
 
 この一連も、悪魔がしゃべっているのかもしれない。「透明にそびえる」「城」というのは、人間の為している抽象的な行為のすべてを示す暗喩だが、とりわけ芸術の分野、それから哲学・思想の分野、詩の分野において際立つものをアイロニカルに示唆しているだろう。「きみ」とは、作者も含めた詩人たちのことでもあるのだ。

8
てっぺんに火をつけると
美しい炎をあげて燃えあがり
十数秒で黒い灰になる
すべてがこんなふうだったらわるくはないぞ

 「てっぺん」は天上を示唆しつつ、知的な作者自身の脳味噌に近い部分を燃やしてしまうことに通ずるだろうし、黒い灰は、もちろん死を示唆する。「すべてがこんなふうだったらわるくはないぞ」という、ふたたび現れた絶妙な響きを持った翻訳語の話し言葉の口調、悪魔の口調が、自分いじりと自分いたぶりに慣れた(つまり自己批評的な)詩人の「いたずら」な気分を明るく諧謔をもって表現されている。

9
じゃあ おやすみ
健康のため
吸いすぎには注意しましょう
なんと無邪気な悪魔のやつめ!

 本家の英国の詩人ジョン・ダンの諧謔的な精神の遠い反響みたいな味を持つ詩でありつつ、「吸いすぎには注意しましょう」という口調には、アメリカ由来のような無邪気な率直な調子も感じられる。「健康のため/吸いすぎには注意しましょう」というのは、むろん強烈な皮肉である。私は分煙には賛成だが、すべての公の場所における「全面禁煙」には反対だ。煙草を吸う人のためのスペースがどこにもないので建物から出て、さらに門の外で吸っている場面をしばしば目にするが、これに何の配慮もしないのはおかしいと思う。

石原吉郎の詩「気配」を読む

2018年02月12日 | 現代詩 戦後の詩
 石原吉郎の詩を読む。たまたま手元にある「星座 第一号」という三十ページほどの小冊子で、表紙には「石原吉郎 書下し作品集」とある。昭和五一年五月矢立出版。定価500円。装丁が司修。詩七篇にインタヴューを収める。

  気配

とどかねば
とどかなければ緑の極限へ
風の支度
水の支度
ながかったとは思わぬが
一度の食卓へ
そんなにも生きたのだ
とどかねばそして
とどかなければ
すべて支度する
気配へいそがねば
とどかねば
     
 全部で十二行の詩である。行番号を付す。
1とどかねば
2とどかなければ緑の極限へ
3風の支度
4水の支度
5ながかったとは思わぬが
6一度の食卓へ
7そんなにも生きたのだ
8とどかねばそして
9とどかなければ
10すべて支度する
11気配へいそがねば
12とどかねば

1行目の「とどかねば」と2行目の「とどかなければ」はリフレインで、いきなり何か切迫した息遣いを感じさせる。1行目を読んだ時に、どこに「とどかなければ」いけないのか?という疑問を持つが、その謎はただちに「緑の極限へ」という言葉で答を与えられる。ではその「緑の極限」というのは何か。それを続く詩の言葉は説明してくれるのか?ということを思いながら読んでいくのだが、

3風の支度
4水の支度
5ながかったとは思わぬが
6一度の食卓へ

と来て、「緑の極限」が、「一度の食卓」と同じ目的の場所・時間であるということが、わかる。そこに行くには、「風の支度」や「水の支度」が要るのだ。季節だとすれば、冬を経て「緑の極限」に向かって伸び拡がって行こうとする、いのちの芽のようなものの思いを、上空に向かって「とどかねば」、「とどかなければ」と懸命に「届こう」としている。

 けれども、「一度の食卓」は一回きりのもので、その「極限」と同時に決定的に終わってしまうものであるような気配が漂っている。その証拠に、

5ながかったとは思わぬが
6一度の食卓へ
7そんなにも生きたのだ

「ながかったとは思わぬが」と「そんなにも生きたのだ」という詩行の間に「一度の食卓へ」という言葉が差し挟んであるわけだから、この「一度の食卓」は、長くはないが自分でも思っている以上に生きた人が「気配」を感じるような「一度の食卓」の「気配」なのだということになる。そうすると石原吉郎の死に方を知っている読者としては、このただならぬ
「緑の極限」への「気配」は、ほとんど死と同義の生の極限のようなもののことではないかと思われる。しかし、これは生の絶頂と死の絶頂とが相通うという、通俗化したエロスとタナトスの論理を詩に流し込んだものではなくて、作者の固有の生についての倫理観を幻の「食卓」に形象化したものとして読まなければならない。「緑の極限」はすなわち生の極限のことだろうか。ここが微妙なところである。「一度の食卓」では何かを食べたり、誰かと会ったりするということがないのだろうか。どうしても最後の晩餐のイメージが、「食卓」という言葉の下にちらついて来るようだ。

あえぐように切迫しながら、「支度」をして、伸びあがり、自然そのものと同化したような「風の支度」と「水の支度」を整えながら、「とどかねば」と希求するもの、それは何だろうか。そのような「気配」を感じている。生き急ぎ、死に急ぐような、あえぐような希求する感じをもって、まだ「とどか」ない時間を生きている現実の作者がいる。
 
 読者としては、そのような切迫した生の息遣いを持ちながら自分は生きているだろうか、という反問を持ち、また逆に「とどか」ない悩みを抱きながら生きている者にとっては、この詩は、

10すべて支度する
11気配へいそがねば
12とどかねば
 
という焦慮の感覚を言い当てたものとして、共鳴するところがあるはずなのだ。この時に人はどのような姿勢でいるのだろうか。石原吉郎の詩は、急角度で生きる者の倫理を表明したものなのであり、そういう意味では危機の時空に宙づりにされた言葉でもある。「すべて支度する」と言って、「気配へいそがねば」と続けるときに、はからずも「急がねば」という一語を漏らした。そうすると、この「支度」は、どうしても「緑の極限」であるような死の支度へと傾斜するようだ。ところが、簡単には届かないから「とどかねば」と言い続けることになるわけなのだ。言うなれば、生も死も難いのだ。そこで踏みとどまるという事が、詩を書くことなのであり、またこのような危地の詩を生きるということでもあるのだろう。安易にはさわれない、戦後の一精神のかたちである。


中江俊夫『沈黙の星のうえで』昭和40年10月刊より

2017年09月30日 | 現代詩 戦後の詩
寝床の脇に積んである本の中から、一冊抜き取って披いてみると、まことに時宜に適うような詩が目に入ってきたから、少しばかり長いけれども全編引用してみよう。これを読むうちに読者の気が紛れたら幸いである。

詩集『沈黙の星のうえで』昭和40年10月刊より

  めくる   中江俊夫 

季節をめくる 風をめくる
昼と 夜をめくる
時間をめくる
ことばをめくる 沈黙をめくる
生をめくる
心臓をめくる
瞼をめくる

(明日はない)

夢をめくる
欲望をめくる
愛をめくる 花びらをめくる
存在をめくる 秩序をめくる
神をめくる
天体をめくる
無をめくる

(明日はない)

商標をめくる
会社をめくる
社長の背広をめくる 脱税をめくる
カバンをめくる
書類をめくる 伝票をめくる
課長をめくる
不渡手形をめくる

(明日はない)

トランプをめくる
かるたをめくる
頭の皮をめくる
顔をめくる
秘密をめくる
青空をめくる
星空をめくる

(明日はない)

パンのみみをめくる
鼻紙をめくる
キャベツや たまねぎの皮をめくる
かん詰のふたをめくる
じゃがいもの皮をめくる
カレンダーをめくる
便箋をめくる

(明日はない)

厚ぼったい毛布をめくる
薄汚れたシーツをめくる
ぺしゃんこな敷きぶとんをめくる
すりきれた畳をめくる
こわれかけた床をめくる
白ありのくった土台をめくる
重たい土をめくる

(明日はない)

ベトナムをめくる コンゴをめくる キプロスをめくる キューバをめくる 
民族をめくる 死骸をめくる
アメリカをめくる ソ連をめくる
中国をめくる 台湾をめくる
インドネシアと マレーシアをめくる
争いをめくる
世界中をめくる めくれるだけめくる

(明日はない)

田舎をめくる 農村漁村をめくる
祖先をめくる
山林地主をめくる 野山をめくり 海をなぎさからめくる
因習をめくり 村八分をめくる
むしろをめくり 農協漁協をめくり 宿屋をめくる
坊主と 寺をめくる

(明日はない)

新聞をめくり 雑誌をめくり 活字をめくる
独占資本と マスコミをめくる
死をめくる 女優をめくる
スカートをめくる おま〇こをめくる
黒い魂をめくる
胎児をめくる
恐怖をめくる

(明日はない)

※引用了

[解説と解釈]
 無関係な方々の検索にかからないように、一箇所あえて伏字にしてある。

 一行あけた(明日はない)までをセットにして一連と数えることにして、詩は全体で九つの連で構成されている。一連目と二連目までは、極大のものが相手になっていて、まじめな感じがする。三連目以降は、下世話な日常生活の事柄が取り上げられてきて、ユーモラスである。七連目では当時の紛争地と対立勢力の名があげられる。八連目は日本全国津々浦々、九連目でジャーナリズムや芸能界が何となく想起されてから、詩はどうにかおわる。ここでの「女優」はマリリン・モンローかもしれない。

 そもそもこの、「めくる」というのは、どういう意味の動作動詞なのだろうか。ありとあらゆるものを飲み込んで「めくって」しまう。ここには、「めく」られてしまったあと、そのモノは、消えて見えなくなってしまうような気配がある。「めくる」という語は、最強の否定の表現なのだ。しかし、同時に「現前」の瞬間自体は肯定されている。「めく」られるものには、良いもの、素晴らしいものが含まれる。

 「めくる」という言葉には、「引っくり返す」とか、「覆す」というようなニュアンスが感じられる。そうしてから転換、または展開してしまうのである。 「明日はない」というのは、その「めく」られたモノが明日はもう無いと言っているようだ。同時に「明日」というものが「ない」。あるものを「めく」ってしまったら、その結果として「明日」は無くなるのだよ、と言っているようにも解釈できる。きれいさっぱりめくってしまって、ああせいせいした、という気配も、ないではない。無。無こそがもっとも願わしい。

 それと同時に、めくって、めくって、めくってしまって、その果てに「明日はない」のだから、「めくるな」と作者は言いたいのかもしれない。めくってばかりいるんじゃない。めくるな、と。こういう矛盾したメッセージを、各連ごとに挿入される(明日はない)という言葉が発散している。「めくるな」とは、他者に対してだけではなく、作者自身に向けても発せられているメッセージである。どうしてあなたと私はさまざまなモノを「めく」り続けるのか。そうやってすぐにリセットしたがるのか。そんなふうに、やり過ごしてばかりいるンじゃない、と。

「めくる」という言葉には、多分に本や雑誌や新聞をめくる、というようなニュアンスが伴っている。「めくる」ためには、手や指先の動きが必要となるからだ。それほど大変ではなく、けっこう簡単に、やすやすと「めく」れるのである。スマホの画面もそんな感じだ。ここでまた、元の疑問に戻る。「めくる」というのは、どういう意味の動作動詞に置き換えられるだろうか。

通り過ぎる。忘れる。台無しにする。看過する。適当にごまかす。やりすごす。見ないようにする。考えないようにする。

こんなニュアンスを含み持っているかもしれない。

ところで、あるシチュエーションにおいて、「めくる」ことを強いられるのは、ひどく屈辱的だ。これは、仕事で働いて一定の報酬を得るために頭を下げるのとは、訳がちがうのである。日頃から「めく」られないようにしたいものである。と言うより、まずは「めくる」ことを疑ってみないといけない。自動的に「めく」っているみたいだけれど、何で私とあなたは「めく」るのか、「めく」られてしまうのか。

もしかしたら、「めくる」という語は、「生きる」ということの同義語なのかもしれない。それは抗いようのないことなのだから。とは言いながら、そこに「明日はない」という断言が連続する時、「めくる」ことは即座に絶体絶命の危機にぶち当たってしまうのである。その危機の感覚こそが、作者にとっての詩であり、詩的な文明批評なのだ。強烈な異議申し立てだ。でもまあ、かなり乱暴な感じのする詩ではある。論理性が、にょきっと突き出て聳え立っている。良くも悪くも「荒地」派の詩なのだ。



三木卓の本に引かれた大岡信の詩「春のために」 改稿

2017年06月11日 | 現代詩 戦後の詩
大岡信がなくなって、ひとつ思い出したのは、三木卓の『わが青春の詩人たち』という2002年刊の本に大岡信について書かれたくだりがあったことだ。そこに引かれていた詩を、ここに孫引きしてみよう。
 
  春のために     大岡 信

砂浜にまどろむ春を掘りおこし
おまえはそれで髪を飾る おまえは笑う
波紋のように空に散る笑いの泡立ち
海は静かに草の陽を温めている

おまえの手をぼくの手に
おまえのつぶてをぼくの空に ああ
今日の空の底を流れる花びらの影

ぼくらの腕に萌え出る新芽
ぼくらの視野の中心に
しぶきをあげて回転する金の太陽

ぼくら 湖であり樹木であり
芝生の上の木漏れ日であり
木漏れ日のおどるお前の髪の段丘である
ぼくら

新しい風の中でドアが開かれ
緑の影とぼくらとを呼ぶ夥しい手
道は柔らかい地の肌の上になまなましく
泉の中でおまえの腕は輝いている
そしてぼくらの睫毛の下には陽を浴びて
静かに成熟しはじめる
海と果実

 一応、註してみる。 
一連目、三行目、これは「古今集」の歌を踏まえている。
二連目、三行目、これは三好達治の詩を踏まえている。
三連目、三行目、ランボーの詩への連想をさそう。
四連目、三行目、『月下の一群』でもいいし、「フランシス・ジャム詩集」でもいいが、要するに「木漏れ日のおどるお前の髪の段丘」というのは、翻訳詩の文脈の中の詩句である。
五連目、三、四行目、エリュアールの詩のような感じがする。

 嶋岡晨の訳で引いてみる。

「絶えない歌」(一九四六年)

なにものもかき乱すことはできない
ぼく自身にほかならぬ 光りの秩序を
そしてぼくの愛するもの
テーブルの上の
水をみたしたポット 休息のパン
すみきった水でおおわれた手につづき
おごつた手にはおきまりのパンにつづく
一日の二つの斜面は
新鮮な水と熱いパン

(略)

だがぼくらのなかで
燃える肉体から暁が生まれる
そしてきっかりと
ただしい位置に大地を置く
しずかな歩みでぼくらは前進する
自然はぼくらに敬礼し
日はぼくらの色彩に肉体を与え
火はぼくらの瞳に 海はぼくらの結合に肉体を与える
     『エリュアール詩集』(飯塚書店世界現代詩集Ⅹ)
     1970年刊より

ここで、「道は柔らかい地の肌の上になまなましく/泉の中でおまえの腕は輝いている」という詩句を読んでいるうちに、何て精巧な完璧な模造品であることよ、という思いが突き上げて来て、私は思わず激してしまったのだった。近代詩以来、ずっと日本の詩はこういう西欧詩の翻案を繰り返して来た。これは極めて人工的な、架空の青春、血の通っていない生への賛歌ではないのか。

これは私の青春嫌悪、青春憎悪がなさしめる言葉であろうか。そうではなくて、この翻訳調の詩語に魅惑された世代の言語感覚というものに、根本的な疑義を抱くということを言いたいのである。むろん私にも、大岡信には、心を惹かれる詩がいくつもある。しかし、この詩に限ってみるなら、こういう戦後の青春を神話化したような詩は、再び回帰したモダニズムを肯定する心性を無根拠に押し出したもののようにしか見えないのである。同じエリュアールに示唆されるのにしても、田村隆一などの行き方とはまったく別物ではないか。

一九五六年刊の詩集だから、ずいぶん昔のことになる。平成もあと数年という時代に入って、「そしてぼくらの睫毛の下には陽を浴びて/静かに成熟しはじめる/海と果実」という詩句との不思議なほどの感覚の落差というものに、私はめまいがするような気がする。どうして何の反語もなく「静かに成熟しはじめる」という言葉を書くことができたのだろう。

こうした詩を書いた人が『折々の歌』を書き、連詩にこだわったということのなかには、余人のうががい知れぬ自分自身の詩的出自というものへの持続的な反問というものがあったはずである。それは、翻訳文学から出発した「現代詩」というものへの問いでもあったのだと私は思う。

追記 このあと「ユリイカ」の大岡信追悼号を読んだ。この詩にも見えるようなきらきらした恋愛詩を作者はずっと続けて作っていき、大成させた人だということがわかった。ここに引いた詩の頃はいささか器用で秀才的なエリュアールの翻案のような詩を作っていたわけである。誰でも初期というのはそのようなものだ。「ユリイカ」特集の恋愛詩のすぐれた作者としての大岡信という全体的な取り上げ方は、とてもいいと思う。

秋谷豊の詩「背嚢」を読む

2017年06月03日 | 現代詩 戦後の詩

背嚢  秋谷 豊   『降誕祭前夜』(昭和三十七年十一月 地球社刊)より

おれのなかには夜がいつぱいだ
けれど おれを重くするのは夜ではない

おれが見知らぬ兵隊の背中で
ゆらゆらとねむりながら
波の上をわたつてきたのは夜の間だ
鉛のように
それが原野へつづいているなら
おれもそこへ行こう?
戦争はおれを熱い薬盒にする
唾液に
飢え
渇き
倒れていつただれかれの顔を
おれは逆光の中にまざまざと見るが
それはなんという大きな落日だつたろう

おれはれおれの中の夜を圧し殺す
けれど おれを暗くするのは夜ではない

兵隊が死ぬまで支えていたのは
銃であつた
兵隊は銃のために死ぬ
銃ににぶくほりつけてある
紋章のために死ぬ
兵隊は固いぺトンでつくられたもの
夜を夜と考えることのできぬ
沈黙のぺトンだ

おれと夜の間を長い長い軍列が流れてゆく
そいつは煉獄のはてから来た
だが おれを撃ち苦しめるものを
おれはキリストのように
背負うことはできないのだ 

 この詩の作者は、戦争からの帰還者である。
「あとがき」には、
「ぼくは自分の底に流れている戦争の体験を、いまも消し去ることができないでいる。戦争はわれわれにとって過ぎ去った暗黒の時間ではない。今日の崩壊しつつある人間性の危機は、ここから「神」が狂っていった二十年前のあの渦の中に再びわれわれをまきこもうとする。」
とある。

 詩の全体は、五つの連に分れている。タイトルが「背嚢」となっているから、「おれのなかには夜がいつぱいだ」という言葉を読んだ時に、読者は背嚢を語り手としてまずこの詩を読み始める。けれども、この重たい言葉の響きからただちに感じることは、「背嚢」である「おれ」が、まちがいなく作者自身の実感を担ったものだということだ。
 ここに二行目の「けれど おれを重くするのは夜ではない」という詩句が重ねられる時、では何が「おれ」を重くするのだろうか?という問いを読者は抱え持つことになる。そうして以下の詩句を続けて読む時に、その答は与えられるのか。

 二連目前半。「おれが見知らぬ兵隊の背中で/ゆらゆらとねむりながら/
波の上をわたつてきたのは夜の間だ/鉛のように/それが原野へつづいているなら/おれもそこへ行こう?」

 潜水艦の攻撃や空襲を避けて、輸送船はなるたけ夜間に移動するということがあるだろう。そうして夜のうちに「原野」のある南方の戦線のどこかに兵隊とともに上陸した。ここには作者自身のそうした暗闇の記憶が書かれている。この詩の「それが原野へつづいているなら」の「それ」とは、背嚢の中にある「夜」のことだろう。鉛のような夜。ハンス・ヘニー・ヤーンの小説に『鉛の夜』というタイトルがあった。鉛のような夜は、戦争の時代のわかりやすい比喩である。「おれもそこへ行こう?」と疑問のかたちになっているのは、行って原野の夜に溶け込むことなどできはしないからだ。

 二連目後半。「戦争はおれを熱い薬盒にする/唾液に/飢え/渇き/倒れていつただれかれの顔を/おれは逆光の中にまざまざと見るが/それはなんという大きな落日だつたろう」

 南方戦線では、戦死者の大半が餓死であった。飢えと渇きの中で倒れて行った兵隊たちを、「背嚢」は見ていた。生還した兵士である「私」の背中で。戦場において、「背嚢」は熱い「薬盒」となった。
「大きな落日」というのは、戦争の敗北、敗走の現実そのもののことでもあるだろうし、また実際に赤々とした夕陽を目にもしたのであろう。
 一連目の「けれど おれを重くするのは夜ではない」という句の「重くするもの」の当体は、飢えと渇きにさいなまれた戦争体験の総体ということになるだろう。また、そうは言っても「重くするもの」のすべてをここで説明し尽くしているわけではないのだ。それが「あとがき」で作者がこの詩集において「神」を問題にしていると書いた理由ともつながって来るのだろう。

 三連目。「おれはれおれの中の夜を圧し殺す/けれど おれを暗くするのは夜ではない」。
ここに来て、「背嚢」は自分の中の「夜」を押し殺してしまった。それなのに、相変わらず「おれ」は「暗く」されている。そうして「おれを重くするのは夜ではない」という冒頭の一連の言葉も生きている。さらに、「おれを暗くするのは夜ではない」という句が付け加わった。

 四連目。「兵隊が死ぬまで支えていたのは/銃であつた/兵隊は銃のために死ぬ/銃ににぶくほりつけてある/紋章のために死ぬ/兵隊は固いぺトンでつくられたもの/夜を夜と考えることのできぬ/沈黙のぺトンだ」

 ここでは「背嚢」がものを感じたり、考えたりすることができるのであって、兵隊にはそれが許されていない。兵隊は「固いぺトン(「べトン」はフランス語でコンクリートのこと)」であり、銃のために、銃に彫り付けられている菊の紋章のために(天皇と大日本帝国のために)死ぬのだ。兵隊には「夜を夜と考えること」が許されていない。夜とは何か。戦争の現実を支えるまっくらな塊のようなもの。戦争そのもの。


 五連目。「おれと夜の間を長い長い軍列が流れてゆく/そいつは煉獄のはてから来た/だが おれを撃ち苦しめるものを/おれはキリストのように/背負うことはできないのだ」

ここでも「背嚢」は、外側にある「夜」と自身を一体化しない。「おれと夜の間」には、「長い長い軍列」が「流れてゆく」のだ。それは地獄、ダンテが描いたような「煉獄のはて」からやって来た。圧倒的に強固な戦争という「軍列」が隔てるために、「おれ」は「おれ」自身であり、「おれ」の荷物でもある「背嚢」を、仮に言ってみるなら<罪>というものを、「夜」そのものに預けてしまうことはできない。しかしながら、その背負いきれないものをキリストのように「背負う」ことも、またできないのだ。

「おれ」は「おれを撃ち苦しめるものを」背負うことも、周囲の「夜」に一体化させることもできないまま、「撃」たれ、「苦し」んでいる。銃弾に撃ち抜かれた背嚢。背負いきれない思いだけが、ここに厳然として残り、「おれのなかには夜がいつぱいだ/けれど おれを重くするのは夜ではない」という根源的なアイロニーだけが、かろうじてよじれる言葉としてここに投げ出され続けるのだ。

丸山豊「愛についてのデッサン」注解

2017年02月16日 | 現代詩 戦後の詩
一太郎ファイルの復刻。「美志」四号に掲載、一九九三年四月のものである。

詩集『愛についてのデッサン』をてがかりとして

 九州では、丸山豊は知られた詩人だったようだが、ぼくの周辺では語られたことがないので、何か書いてみるのもいいのではないかと思って、こうして書き始める。テキストは、土曜美術社の「日本現代詩文庫」の巻二十二である。小節ごとに番号を付し、ひとつずつ読んでゆくことにする。

愛する
だから私は身じろぎしない
私は聞かない
私は見ない
私は強情な点になる
愛だけがとぼとぼ歩いてゆく
貧血した顔で

のっけから、この詩の中の「愛」(以下かぎかっこ省略)が通念としての愛とは全く異なったものであるらしいことがわかる。「貧血した顔で」「とぼとぼ歩いてゆく」愛って何だろう。それは、「強情な点」となった「私」の愛である。何か私の愛には、自己完結した硬さがあって、そのために、きっとひどく気ままでかたくななのである。わが子のためと言って自分の虚栄心から子供を塾にやる母親とか、国民のため、と言って実は自分の利権をあさるのに血眼になっている政治家とか、みんな自分が「強情な点」となっているくせに、「自分は〇〇を愛している」と公言してはばからない。世の中の先生と呼ばれる人種の大方が、こういう愛の持ち主ではないだろうか。そして、それは普通のひとがおち込み易い愛の擬制なのである。


おまえをだきしめる
私のことごとくと
おまえのことごとくとが
稲妻の夜のハサミをつくる
このハサミで切りすてるのだ
愛の尊厳を

どうして「愛の尊厳を」切り捨てなくてはならないのか。この不意打ちは何か。「おまえ」も「私」も、なぜか「愛の尊厳」に値しない存在であるかのようである。夫婦なのか恋人同士なのかは、知らない。二人して共に「だきしめ」あいながら、愛の尊厳を「ハサミで切りすてる」ような、そういう生き方しかしていない、と言うのだ。「私のことごとく」と「おまえのことごとく」、二人の全存在をあげて「愛の尊厳を」「切り捨て」ているのだ。何という、つらい苦い認識だろうか。しかもこういう愛は、実はよくありがちなものなのかもしれないのだ。


心が弱り
日がかたむくとき
愛もまたいやらしく笑う
梅干のように
さむざむと燃える愛の力を信じるな
愛をにくめ

ここまで読むと、2の読みは少し変調をきたす。「おまえ」と「私」は自己意識の運動の表現なのかもしれない。「いやらしく笑う」愛とは何か。私を安易に救ってしまう愛のことである。夕暮れの心弱りを救ってしまう、惰弱な、めそめそした、みみっちい食卓のお友達の梅干のようないじけた愛である。そんなものに救われてはならない。むしろ「にくめ」、と詩人は言う。


場の牛のように
愛がないた
いやな予感のする場所で
もっとも明快な方法で
あっけなく
愛は
その重さだけの肉になる
二月の光にちらちら燃えて
下水溝へながれてゆく血

詩人の要請は劇越である。われわれは、愛すれば、すぐにその見返りをもとめる。無償の愛なんていうことを言いたいのではない。ほとんど癖になっている心の習慣が、「その重さだけの肉」を求める。断末魔の愛は、「場の牛のよう」になくしかない。無制限で、無限定であるべき愛が、交換の対象となり、売り買いされるということが、われわれの身の周りには起こっている。寄附をもとめ、喜捨をもとめ、布施をもとめ、寄付金の額が愛の大きさを示すものとなったり、愛の真剣さのあかしだったりする、そういう愛を見聞きしたことはないか。介護労働時間を貯金しようというアイデアがあるらしい。笑えない寒々しさである。すばらしく合理的で、等価交換的で、何かが決定的に失われている。たぶんあまりにも「あっけなく」愛が「その重さだけの肉にな」っているからではないだろうか。もちろん、その着想を抱いたひとに罪は無く、ここに立ち至った社会の帰趨に問題があることは言うまでもない。


公園
裁判所
河岸の塵埃焼却場
愛はおだやかに通りすぎる
愛の身勝手だけが
下水道のように
くらくふかく町にのこる

公園にも、裁判所にも、河岸の塵埃焼却場にも、愛の出番はある。愛の名によってひとはひとを裁いているのだろうか。わからない。しかし、法の運用にも情状酌量というものがあるだろう。あれは愛ではないだろうか。公園の親子、恋人達。行政サービスという愛。それらもろもろの愛の景色も、詩人は容赦しない。ふわふわした愛を許さない。気分の、ひとをあざむく、ことばだけの、見せかけの、こころの弱さにだけに訴えかける愛が、一見あたたかい「おだやか」な外見の中にしみ込んでいて、日々われわれを欺き続けているのではないか。詩人は「愛の身勝手」を多くそこに見いだす。愛の名において、行使されている権力と、生活事象のもろもろの中に、つまり人間のすべての営みの中に、愛の虚偽が充満している。かくしてこの詩は、眠そうないんちきな愛への賦活剤となる。


石を摩擦して火をつくる
そんな具合に
やっとこさ愛をそだて
遅々とした成熟をまっている
この竪穴住居のまわりを
豹よ
みどりの目をしてうろつくがよい

「この竪穴住居」というのは、小さな「マイホーム」と考えてもよいであろう。そこで抱かれるごく平凡な安逸の夢というものの中に、詩人自身もいるのかもしれない。そういう自身を鞭打つように、詩人は「豹よ」という呼びかけをする。ダンテの『神曲』冒頭では、豹は肉欲のシンボルだった。別にそういう寓意を考えなくとも、「豹」が無限定な、愛への不支持者として、不安な中絶を暗示するものとして、さらには生の原型的な過酷な欲求を想起させるものとして、呼び出されているということに変わりはない。


燃えたり
溶けたりする
わがままになったり
やさしくなったりする
しかし
あれは愛ではない
あれは愛ではないのだから
私生児のように市場のむこうをあるけ
月夜のドブに沿ってあるけ

「燃えたり/溶けたり/わがままになったり/やさしくなったりする」愛は、どこにでも在るものではないか。われわれが通常経験している愛には、こういうところが無かっただろうか。あえて、詩人はそれに異を唱える。「しかし/あれは愛ではない」と。正道を、世の中の公の道を堂々と闊歩してもらっては困る、と。「私生児のように」という表現が差別的だ、なんて言ってみても仕方がない。ここでの私生児は毅然として「愛ではない」ものを拒否しているようなのだ。「月夜のドブに沿ってある」くものというと、犬か猫をすぐに思いつく。「燃えたり/溶けたり/わがままになったり」するものが愛じゃなかったら、いったいどういうものが愛だというのかと、混乱する人も多いであろう。詩人は、愛というあいまいな概念を追いつめているのである。読者も、ともに追いつめられ、かつ追いつめなくてはならない。詩を読むという経験は、そのような自由の試練なのだ。


愛はたちまち消えるが
その力はかたちをかえ
サナギのような囚人になる
やさしい愛をにくみ
愛の名をにくみ
やがて
砂の流れる法廷へ立つ
手錠のまま太陽を見すえる

「サナギのような囚人」となった愛というのは、人間の弱さが生むものだろう。愛してから手ひどく裏切られると、こうなるひとがいるという。「やさしい愛をにくみ」さらに「愛の名をにくみ」、こわばったこころとなって愛に敵対し、正反対のところへ走ってゆく。「砂の流れる法廷」とは、その虚無的なこころの闇の謂であろう。そうやって「愛の名をにく」んでしまったひとは、罪人のようなものなのであろう。「手錠のまま」、「太陽」つまり生命力の根源のようなものを、さびしい反抗者の視線をもって見上げるしかないのであろう。よく知られたカミュの小説を思い出す。


愛に
手ごたえがありそうな
ありがたい時刻には
からりと晴れた世界から
金色の縄が垂れてくる
そしてしずかにゆれながら
リンチの準備をととのえる
あらかじめヨダレをふいて
うやうやしく排尿をすます

「愛に/手ごたえがありそうな/ありがたい時刻」、こういうものに身の覚えがないひとはいないだろう。うまくいっているという満足感に、生きている喜びを得られる瞬間。その時私の存在は無条件に世界に肯定されているようにすら思われるのだ。すると唐突にも、鮮明な、メキシコの空のような明るい高みから、救いを暗示するような「金色の縄」があらわれる。詩人はここでも意地が悪い。報われたと思った時に、愛の成就の満足のうちに、何と「リンチの準備」がすでに始まってしまっているというのだ。これも、実は身に覚えのあることではないだろうか。そのように、愛は油断のならないものである。愛は自我の世界への安定にかかわるものであるがゆえに、常に背中にエゴイズムを張り付かせている。

10
しずかに
死の灰のふる島で
かたい咳をする
喬木にもたれる
独断をする
手紙をやぶる
ナマコをかじる
そして今日もまた
ダメおしをくりかえす
こんなに愛してる
愛してると

これは第五福竜丸の事件を思い出させる詩の文句である。さらにぼくはベトナム戦争のことを、思い出したのである。アメリカ合衆国のやったことのすべてが、「民主主義」への「愛」のためではなかったか。原爆とて、「民主主義」に対する愛のグロテスクな発露の産物だと、言えないことはないのである。現にアメリカ合衆国人の多くは、今でもそう言うではないか。原爆は、戦争を早期に終結させ、さらにこれ以上犠牲者が増えることをとどめることに役立った、と。「かたい咳をする」のは作者自身ともとれる。それが、次の行に進むに従って、追及の度合と論難の調子を強めてゆき、もっと他者一般、世界全体への弾劾に変わってゆくところが、この詩の一筋縄では行かない所である。「独断を」し「手紙をやぶる」というのは、実行家の姿のスケッチである。政治家の姿を思い浮かべるのが常識的な線だろう。

11
生まれた町の
砂と石との広場で
皈還兵は眠る
愛が
アリほどの重さで
片方のまぶたを這えば
まぶしそうにうす目をあけて
ウソみたいに遠い空をみるのだ

この詩集が出されたのは、一九六五年である。年譜によると、作者が五十歳の時。太平洋戦争では、ビルマの前線部隊で軍医として数々の辛酸をなめた人である(インパール作戦についての本に詩人の名前が出てくる)。そうすると、帰還兵は作者自身ととってみてもよいであろう。ここには、かろうじて生還した作者の感慨が盛り込まれているように思われる。「砂と石との広場」というのも、空襲によって焼け野原となった都市の姿を、異国の港町風に言い換えたことばとは考えられないだろうか。「愛が/アリほどの重さで/片方のまぶたを這」うような感覚というのは、おそらく、生還したことのむずがゆさ、羞らいの表現である。詩人は、生きているということのまぶしさに「うす目をあけて」「ウソみたいに遠い空をみ」たにちがいないのだ。ごろんと横になって……。 あの戦争を経験したあとで、こういう精神を強靭に立ち上げた詩人がいたということを、ぼくは忘れたくない。忘れないために、ぼくは書く。  
   ※丸山豊『月白の道』