さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

永田紅『春の顕微鏡』

2018年10月28日 | 現代短歌
 永田紅さんの新歌集を手にする。ぱらぱらとめくっているうちに、ん?と思う歌にぶつかった。

これからを本番として 君は説く一点突破全面展開

 この歌の下句は、戦後学生〇〇史に残る社〇同(無関係な検索よけにあえて伏字にします)の有名なスローガンだ。どうして若い永田さんがこの言葉を使えるのかが、まず不思議。この言葉を教えた「君」は何歳なのだろうか。

 一九七七年に大学に入学した私の頃でも、この言葉はすでに死語だった。ただ、何となく聞き知っていた。これは当時刊行されていた「流動」や、「現代の眼」というような雑誌から知識を得ていたのかもしれない。私のような文学青年の間では、古井由吉などの「内向の世代」の作家が問題になっていて、彼らの手によって「文体」という雑誌が創刊されていた。

……というような事に思いが及んで、つい追想にふけってしまったのだが、このスローガンは、社〇同(無関係な検索よけにあえて伏字にします)の長年にわたる陰惨な党派抗争とは無縁の、晴れやかで、浪漫的な昂ぶりを覚えさせる言葉だ。それは「いっ」「てん」「とっ」「ぱ」「ぜん」「めん」「てん」「かい」という、語頭の促音に続く怒濤のような撥音の連続と、間にはさまる「ぱ」という破裂音の絶妙な響きに、音に敏感な歌人が反応して用いられただけなのかもしれないが、作者の持っている理念を希求する資質のようなものが、無意識のうちに呼び寄せた言葉なのかもしれないと、いま思った。

自らの専門を武器となすことに微かな後ろめたさはきざす

若き日の糊しろ部分を生きている私よ走ってから考えよ

タイミング違えて生きる 息つぎのようにときおり君を見かけて

どんな人と聞かれて春になりゆくを 春は顕微鏡が明るい

居心地のよき背中なり凭れても撫でても我にひらかれていて

 いま、たまたま手探りで「作者の無意識のうちに理念を希求する資質」と書いたけれども、要するにまっすぐに育った健全な感性を持ちながら成長したひとの、たとえて言えばフランクリンとかホイットマンとか、百年以上前のアメリカ人が持っていた開拓精神みたいなものと同質の感激と興奮を、いまでも日本の社会の理科系の研究者・教育者のなかにエートスとして維持している人がいるのだということが、何となくわかって、そういう人の相聞歌をリアルタイムで読めるということが、何だかとてもうれしかった。今日はここまで。


鈴木美紀子『風のアンダースタディ』

2018年10月27日 | 現代短歌
 若い頃はコンフォルミズム(順応主義)というのは恥だと思っていたから、いろいろと無理を重ねたものだけれども、どうも身に付かないことは続かないようで、そのうちに地が出て来る。鈴木さんの歌集をめくりながら、ああ、このタイプの人か、と思って共感するところが多かった。たとえば、

異国にてリメイクされた映画では失われているわたくしの役

見えなくてもそばにいるよと囁かれプロンプターの言いなりになる

 こういう歌をみると、思わず微笑したくなる。作者はきっと争いごとが嫌いだ。そのくせ結構打たれる場所に出て行って痛い思いをする。そうしてあとで時間をかけて反省をすることになるのだが、これは損な質(たち)だ。しかも最後まで自意識が徹底するから、受身で居ながら解放されない。歌でも作って発散していないと、それはやってられないさぁ。

イソジンのうがい薬の褐色でひとり残らず殺せる気が、した

やわらかな鞭で打たれているように驟雨のなかではじっとしてます

 この調子で歌が自分の性格物語の周囲をくるぐる回っているだけでは、世界が狭くなってしまうから、そこは修辞の力と、詩的な瞬発力でカバーしてみせる。それだけの力量が作者には備わっている。引いてみよう。

雪どけの光みたいに銀色のスプーンのなかへ逃げこめたなら

水鳥を数えているうちひっそりとたたまれるだろうわたしの花野

わたしが、と思わず胸にあてた手がピンマイクを打ち爆音となる

つぎつぎと水面に届く気泡あり。声のない叱責はつづく、今も

「一時間経ったら起こせ」と言ったきりあなたは隣で内海になる

今のうち眠っておけよと声がする晩夏へ向かう青い護送車

 ページの逆順に引いてみた。これらはどれも才気の感じられる歌で、先に引いた歌よりも読み手の共感を誘う部分が拡がっている。

 あえて全体に難点を言うとするなら、無理に固定した点と言うか、静止した境域を場面なり時間なりのなかに求めるきらいがあり、そこに私は抑圧のようなものを感じるのだ。たぶんゆるやかな制作順なのだろう。特に最初の三つの章は、初期のものらしく言葉が先走っている感じの歌が目について、初見では同情して読めなかった。理詰めだなあ、自分で答を出すのがはやすぎるなあ、と文句を言いながら読んでいた。だいぶ時間が経って、こちらが構えないで読めるいい歌が多いことに遅まきながら気がついたのだけれど、批評会にも都合で出られなかったので、この文章を書くことにした。本書は刊行が2017年3月だから、だいぶ時間がたってしまった。この人はいま流行りの詠風から脱して少し古い所を学んだら厚みも出ていい作者になるだろうと思っている。

島田修二の歌

2018年10月21日 | 現代短歌
 長雨の九月と十月が続いたが、昨日と今日と久しぶりに晴れた。取り出したのは島田修二の歌集『草木國土』である。作者六十歳前後の作品が収められている。

あらはなる生おもむろにしづめつつ草木國土冬に入りゆく     島田修二

 ※「草木國土」に「さうもくこくど」と振り仮名。

差しとほる光の中におのがじし葉をはらひつつ樹樹の浄まる

 ※「浄」に「きよ」と振り仮名。

「あらはなる」というのは、動植物の盛んな営みをさす。さらには人間のあからさまな欲望に満ちたありようも示唆されている。そのような生の様相を一度に鎮静させて冬がやって来ようとしている。生の営みはなべて「あらはなる」もの、光にさらされたものである。
 二首めは、落葉の季節に明るむ木肌は、葉を落とすことによって自らを浄化しているようにみえるというのである。すき間の開いた枝の間からまともに差し込んで来る日射しの明るさを歌いながら、樹樹のみならず自身の心境の浄くあらんことを作者は願っているのだ。

秋空の澄みわたる下いちにんの市民の思ひよみがへり来よ

 折しもサウジアラビアの暗殺されたジャーナリストのニュースが世界を駆け巡っている。新聞社に勤務した作者には、「市民」という言葉に特別な思いがある。一人の「市民の思ひ」を知る人は、それを引き継ぐ義務があるのだ。一人の「市民の思ひ」が、この世界を変えてゆく、秋空の澄みわたる下、そう思うのである。

春日真木子『何の扉か』

2018年10月14日 | 現代短歌
 この歌集は、何と言っても、卒寿を迎える前後の作者の感慨を述べた作品群に読みどころがある。歌が生き生きとしていておもしろいし、自在な言葉の発する輝きに心を動かされるのである。

老いたるは化けやすしとぞ 廾 かぶれば花よ 私は生きる

※「廾」はここでは代字で、三画の「艸」に「くさかんむり」と振り仮名。「花よ」のあと一字空き。

九十歳のわれの腕に湯気ぬくし女のみどりごの桜じめりよ

 ※「腕」に「かひな」、「女」に「め」と振り仮名。

四代のをみなの揃ふ花筵 延びゆくならむわが待ち時間

この世紀まるまる生き継ぐ曾孫らに母国語ありや敢へなし母国

日本語がローマ字化さる戦きを語るわれらにながし戦後は

 ※「戦き」に「おのの(き)」と振り仮名。

花桃のひらきてわれは九〇歳 ああ零からの出発の春

 ※「零」に「ぜろ」と振り仮名。

 後記には、「九十歳を九〇歳と記せば一〇度目の零からのあらたな出発です」とあって、「あらたな」という自らを励ますような一語に力を感じ取る読者もいるのではないかと思う。
結社の「水甕」は、2013年に創刊100年を迎えた。それに伴って作者は来し方を振り返る機会が多かった。歌集冒頭の一連は、父の思い出をうたったものである。

手文庫の奥に見いでし封筒に「要保存」とぞ父の朱書きの

孔版の黄ばみし文書はGHQ校正検閲の通達なりき

検閲を下怒りつつ畏れゐし父の身回り闇ただよへり

校正をGHQへ搬びしよわれは下げ髪肩に揺らして

 三首めの「検閲を下怒りつつ」というのは、心のうちに怒りをこらえながら、という意味である。春日真木子は戦中・戦後の検閲の両方を経験し、それを証言してきた生き証人である。戦時中の雑誌は、表紙に「撃チテシ止マム」という標語を入れないと雑誌が発行できなかったということを、私は短歌誌上の春日氏の文章によって教えられた。一番ダイレクトでわかりやすいこの事実が、特に学校では教えられていないのである。
作者の父親は、歌人の松田常憲(つねのり)である。今度の歌集中には、昭和二十年の戦争末期の謄写版刷りでの歌誌発行の様子を伝える歌も収められている。

さなきだに用紙削減きびしかり なかんづく恐る検閲の眼を

きはまりは編集後記含みある言葉かこれは深く汲むべし

ザラ紙の誌面なでつつせつなけれ口授してゆかなこのせつなさを

 ※「口授」に「くじゆ」と振り仮名。

潔く辞めむと言ふ父潔わるく続けよと宣らす尾上柴舟

 ※「潔わるく」に「いさぎわるく」と振り仮名。

警報の解くればゲートル巻きしまま謄写に向かふあな甲斐甲斐し

 空襲によって印刷所も焼け、存亡の危機に立たされた雑誌をめぐっての松田常憲と尾上柴舟とのやりとりもおもしろい。おしまいにもう一首引く。

風は伸び冬木をめぐり吹きゆけり考へぶかく木は曇りをり

 こういう歌の話をゆっくりと自分の身の回りのみなさんとしたいなと、思うことはある。秒速で動く世の中に対しては、過現未の時間の帯を「いま」の周囲にひろげて、こちらが豊かにふくらんでみせたらいいのだ。それが生の豊かさというものである。

7月2日の 新学習指導要領 高校国語科科目再編について に追記しました。

2018年10月07日 | 大学入試改革
7月2日の「新学習指導要領の高校国語科科目の再編について」に追記しました。
11月4日の項に詳細な情報を得て書きましたので、そちらもごらんください。

※ 追記 10月6日。

 そののちの続報によれば、「現代の国語」(主として一学年対象で週二時間が必修)や、「論理国語」は「エビデンス」を重視した文章を収録したものであるべきで、夏目漱石の「私の個人主義」や、山崎正和の「水の東西」などは、科目の目標とする教材としてはふさわしくない、という説明が担当官によってなされたようである。

 そうすると、従来の教科書の「評論」は、多くが「論理国語」から排除されるわけで、担当官がいったいどういう教科書を考えているのか、まったくわからない。

 いっそ「商業国語」とか、「経済団体忖度国語」とでも名前をつけてみたらどうかと思う。PISA対策として発想されたものかもしれないが、現実に担当官が提案するような教科書を作ろうと主張している理論も個人も教育団体も管見では存在しない(一部それに近いものがあるが、こんな極端なことを主唱していない)のだから乱暴である。これは担当者の頭の中で勝手に作り上げた妄想的な「国語」教科書である。

 文科省の担当官はきっと宇宙人なのだろう。たとえば。
現場では、六月にやって来る教育実習生のためには、一年生の教科書で「羅生門」がなくなると、とても困る。ただでさえ陸上競技大会や、学校によっては体育祭や運動会で忙しい時期なのだ。

 そういうことについての感覚がゼロの、まったく現場を知らないひとの机上の空論で教科内容まで一度に勝手に変えられるのは、本当に困る。と言うよりも、そこに民主主義的な手続きがまったくなく、上意下達ですべてが進行してゆくのが、本当に困る。

(※アリバイとしてパブリック・コメントをとっていた、と言うかもしれないが、でも、その時にこれだけの内容だという事をあらかじめ示していただろうか?)


米川千嘉子『牡丹の伯母』

2018年10月06日 | 現代短歌
  二〇一五年から二〇一八年までの作品だという。この間の世間の出来事や、それに重ねて思われる自身や家族の変化に伴う感慨は、どれもあまり意気の上がるようなものではなさそうだ。「先の歌集刊行から三年足らずの間ながら、じつに、瞬く間に社会の何かが変わったような気がします。」と「あとがき」にある。歌人には、感性を拠りどころとした社会の定点観測と批評という、大事な仕事・役割がある。米川が感じ取っている「変化」とは、何だろうか。

車椅子のひとと木椅子のひと語る むかしの童話になき車椅子

ひかり濃きもののたたかひ沼を蹴る白鳥をつかむ一月の水

ドローンも白きおほきな牡丹もしんしんと闇をみがきて飛ぶや

 ※「牡丹」に「ぼうたん」と振り仮名。

「今はわかりません」と言ひつつアレクサの学ぶ速度のなかにある夜

 四首とも、作品に詠まれた事象と、言葉によってそれをつかもうとする詩的なひらめきとが強く触れ合っているところが魅力的である。一首目のような不思議な肯定感のある歌を続けて探してみようと思って、本のなかを往復するうちに、あちこちで立ち止まってよみふけってしまう。そうすると、やはり風刺の効いた次のような歌が、目に入って来て、こっちもいいなあ、と呟いてみたりしている。

子に見せてならないものは死にあらず性ならずこのうす笑ひの答弁

ゲームのなかに女いよいよ気持ち悪く大き乳房と幼き顔もつ

朝が来て次期大統領映りをり この人を見ない権利がない

 三首めなどは、世界中で共有されそうな歌だ。電車の女性用車両に乗っている歌も悪くない。一巻を通じて、女性性や女性が女性であるということの意味を考えているのが伝わってくる。それは、抽象的に考えるのではなく、あくまでも実感に照らして、鋭い観察眼に立脚したところであらわれてくるテーマなのだ。

疲れたる女の顔は疲れたる男の顔とちがふ 桃の日

女性車輛の人らおほかたわれよりも若くて痩せてわれよりも疲る

 次に引く歌には、「堤防決壊の日、わが家と道を挟んだ住宅地には避難勧告。」と詞書がある。鬼怒川に関連して、長塚節の『土』を読み返す一連もある。

防災無線豪雨のなかに音にごり耳とほ母の孤独おもへり

ほかに、あと一首だけ引くと、

人は人をそんなに知つて幸せか 好きなうた、降りた駅、舌打ち

 引いてみたい歌は数多いのだけれども、ここまでにして、あとは読者の楽しみのためにとっておこう。「人は人をそんなに知つて幸せか」という言葉の含意がしみてくる。