さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

小佐野彈『メタリック』

2018年05月26日 | 現代短歌 文学 文化
 開封いちばん強烈な表紙カバーの匂いにつつまれ、本をひらくと、目がちかちかするような鮮烈な言葉が飛び込んで来た。二回にわけてあっという間に読み終えた。同じ一連から引く。

 焼き捨ててしまひたいほどたよりない僕のからだが夏にぬかずく

 彗星に焼き切られたる街ならむ薔薇も芙蓉も咲く新宿は

 集ひ来て息の温度をたしかめる少年たちの密やかな群

 秋雨は亀裂 真昼の新宿を、やがて日本をへめぐりてゆく

 全休符しんと動かぬ五線譜よ かうして九月の街は暮れゆく

いまという時代は、二丁目を中心とした新宿の街に感謝し、そこでやっと解放を得られたひとびとがいるということを、大声にではなく、普通に語り合うことができる。そうして、この街への尽きせぬ賛歌をこのようにささげている歌人がいるということも、現在の日本の文化の成熟の度合を示すものであろう。だから、この歌集の作品は、かつてのようなスキャンダラスなイメージを冠して受け取られるべきものではない。このようにしかあり得ない一人の孤独な青年の愛と苦悩の経験の歌として、詠まれるべきものなのだ。

一首目は、官能の不安な予感にふわふわしながら歩いている作者の気持をみごとに表現している。そうして、どうしても、言うならば「彗星に焼き切られ」たり、「秋雨は亀裂」だったりするほかはないような、はげしい後悔と自責の思いにさいなまれる愛恋に出会ってしまうのも、その若さのゆえである。

現代の後朝(きぬぎぬ)の歌というコンセプトを作って探してみると、次の歌が目に入った。

 ぐちやぐちやに絡まつたまま溶けゐつつあらむ 始発を待つ藻屑たち

 薄雲のやうにおぼろな約束のことば交はしてひとりで帰る

 一首目は朝帰りをしたことがある者には、よくわかる光景だが、二首目の「薄雲のやうにおぼろな約束のことば」という控えめな言い方に注意したい。春日井健との比較を言う人は、解説にも引いてあるような、華々しい劇場型の作品の方に注意を向けようとするだろう。私はそちらの方はそれほど好きでもないので、むしろ静かな淡い抒情をたたえた歌の良さに読者としてよろこびを覚えた。

 熟れてなほ青々として芒果はレインボーフラッグとならんでゆれる
  ※「芒果」に「マンゴー」と振り仮名。
 
 永住者カード涼しき水色の存在感で財布に眠る

 身にしみてゆく音どれもゆふやみの似合ふ金管楽器のファ・ソ・ラ

雨中待聲

2018年05月26日 | 現代詩
 今日は詩をひとつ。

雨中待聲                     さいかち真

   さみだれの雲間の軒のほととぎす雨にかはりて声の落ちくる  慈鎮『玉葉集』より

狙って 狙われたところに
それが来るはず

でも 君らをどうやって助けたらいいのか
私を カイカワレ ウリウリラレ 
取引に出て行く 
わが娘よ 息子たちよ
克つために…

君らが狙ったところに きっと来る
香ばしい一杯のコーヒー
のような通知
それがきっと 来るはずであったのだが
届けられたものは
雨あられのような銃弾とガス弾だという
そんな西の国もある

ほとどきすの声にまぎれて
露にまみれた知らせが きっと来るはず
木の間を抜けて あかるい小窓の
光またたくほとりまで 
待つことにしよう 
雲間よりほととぎすの声とともに
届くはずのものを


松本喜美子『青春期』

2018年05月21日 | 
※きのうアップしたこのページのタイトルが角田純氏の『海阪』になっていました。どこかでファイルが入違ったようです。角田さんには失礼いたしました。なお角田さんの歌集については、2016年12月6日に書いていました。 

松本喜美子『青春期』1995年刊 三省堂企画 

長年神奈川県で女学校の先生だった人のエッセイ集。

「今から三、四年前のことだが、歌人の近藤芳美氏が朝日新聞の随筆に「重慶で黄瀛(こうえい)に会った」という一行を書いておられた。それを読んで、私は驚いた。旧知の黄瀛は戦死したとばかりおもっていたから、急に半世紀前の彼の記憶がどっとよみがえり、よほど氏に黄瀛の住所を教えてくださいと頼もうかと思ったが、しばらく考えてみると、寄る年波の分別くささで、今更手紙なんか出してどうなる、などと思い返してやめてしまった。」

 とある。そのあとに若かりし黄瀛の手紙が紹介されている。文通のやりとりの何通かを紹介したあとで、

「が、私は別に黄に恋をしていたわけではない。恋というよりは多分に彼の異国的な性格に惹かれて、『草』の他の男たちより親しくしていたにすぎない。」

と書いてあるのもおもしろい。当時は手紙のやりとりだけだって、十分男女の交際の名に値した。それは、好きだったのだ。そこを老年の著者がはればれと回顧して書いているところが、何かすがすがしくて好ましい。そういう時代の物語なのだ。同書には、「戦時中の女学生の歌」という一節もある。そこから歌を引いてみよう。

不足など云はじと思ふ靴下のやぶれつくろふ針すすめつつ  (N子)

吐く息も白白寒き初冬の夜空よぎりて爆音は征く      (М子)

黄菊ひとつかげやはらかに活けられし机の上の書をわれは読む (A子)

 あまり上手な歌ではないが、この人たちはきっと今頃まだ短歌をつくって長生しているだろう。現にその一人とおぼしい人を私は知っているから、今度この本を見せてみようかと思う。私が「未来」の歌人の稲葉峯子さんから聞いた回顧談によると、戦後の義務制の学校でも職場の何人かがいっしょに「アララギ」の定期購読をしていた、というような雰囲気があったそうだから、短歌と学校現場というのは、近かったのだ。雑書拾いはこういうことがあるから、やめられない。

嶋岡晨「一つの家具」

2018年05月20日 | 現代詩
嶋岡晨「一つの家具」      『弔砲』平成十三年 獏の会刊

 最近のさまざまな報道を見ていると、これはなかなかぴったりと来る詩なので、引いてみよう。

一つの家具   嶋岡晨

椅子がつぎつぎに 待っている
かける人びとを しかしどの椅子も
腰をおろしたとたん 崩れるのだ
汚れに敏感な雪のように

ときに 椅子は
たちまち人をかき削る
製氷器のように
氷いちごだ! 溶けやすく
椅子は 人事だ 奪われやすく
――まれに 強力接着剤がぬってあり
一生くっついて 離れない

だれも電気椅子とは呼びたがらない
が 似たような場合が しばしばだ。

  ※   ※        
 椅子に坐った瞬間に崩れる椅子というのは、なかなか意地が悪い椅子である。「汚れに敏感な雪のように」というのだから、椅子は「汚れ」がいやなのである。あんたなんかに坐ってほしくないね。汚れた不潔な人間に敏感な椅子だ。この椅子は良識が豊富なのか、それとも潔癖症?

 二連目は、もっとすごい。「製氷器のように」坐った人を削ってしまうのだ。葉山嘉樹に『セメント樽の中の手紙』という小説があったが、あんなふうにセメントになるのではなくて、「氷いちご」にされてしまう。これは、長時間労働のはてに過労死するようなものだろうか。テレビ画面に映し出され、報道機関のカメラによるフラッシュを浴びている人たちの顔を、いまここで思い浮かべてみてもいいかもしれない。

 次の「強力接着剤がぬってあ」る椅子というのは、古いコントにもありそうな場面だが、「一生くっついて 離れない」のは、実は悲劇以外の何ものでもない。けれども、人はその地位に恋々とし、たとえば一度権力の味を知ったものは、なかなかそれを手放そうはしない。 

 三連目。坐ったとたんに死刑宣告に等しい目に合うような、「だれも電気椅子とは呼びたがらない」椅子というのも、この頃は目にする機会が多いような気がする。たとえば某国の国会にも、そんな椅子がひとつはありそうだし、それ以外の場所でもこのおそろしい椅子は、大活躍の模様である。




河田育子『園丁』

2018年05月19日 | 現代短歌
 なんとこれが第一歌集だという。私が河田さんの名前を最初に知ったのは、『現代短歌雁』だった。すぐれた評論を書くひとだから、歌集も何冊かつくっておられるのだろうと勝手に考えていた。歌は章立てに工夫がこらされているが、奇をてらうような作品はさらさらなく、良識あるひとが、世界のできごとや、身の回りのできごとを前にして、感興をおぼえたり、怒りに胸をふるわせたりした内容が丁寧にうたわれている。読み始めるとあっという間に目が進んでいくので、この編集のしかたは成功している。随所に作者の批評的な目が感じられる作品があって、そこから自ずと立ち上がるものがある。

 向ひ家のシベリア帰りの老大工怒鳴りつつをり理解をされず
  ※「家」に「や」と振り仮名。
 
 「企業戦士」その比喩ならぬさまを知り献花つづける人々の群

 ひと言でいふのが流行るこの時代 いつそ無言でゐるがいい

 ほんたうの父さんや母さんが一人子を殺したあとも食事をしてる

 カタカナの並べる薬多く持ちやや途方にくれた感じの父在り

 作者は個性とか、独創性といった近代の通念をあまり信じていないだろう。先立つものとして、日々の思い、揺れる己の歌魂がある。それを鎮めるために歌を作っている。だから、平淡な外見をもちながら、ゆるい直球でもストライクを決められる。

 朝靄のなかを寄り来る鬣のかすかに濡れて湯気たつ仔馬

 寒狭川のちひさき魚を皿に盛り帽子をぬげるひとりの夕餉
  ※「寒狭川」に「かんさがは」と振り仮名。

 黒雲の濃淡見する空合ひのいづこに澄める十六夜の月
  ※「黒雲」に「くろくも」と振り仮名。
 
地に在るに星屑を数ふ 砂粒を読むがごとき空すがすがしさか
  ※「空すがすがしさ」の「空」に「むな」と振り仮名。

安らかな歌いぶりである。作者は日本の古典にも通じているから、古典和歌ふうの淡くてしぶい古語の斡旋や、折口信夫ふうの和訓をすいすいと使いこなせる。「音」で武川忠一に教わったと歌集の後記にある。内藤明の名も出ている。交友面ではめぐまれた人と言うべきであろう。
 

宇田川寛之『そらみみ』

2018年05月15日 | 現代短歌


 私が最初に作者に会ったのは二十年以上前のことだけれども、年に一度ぐらいにどこかで顔を合わせる時は、いつも青年の頃のイメージが甦って来る。たぶんしゃべり方が変わらないせいだと思うが、作者の持っている自由な雰囲気が、こちらをくつろがせるせいもあるだろう。今度の歌集も、そういう作者の持っている空気感が一冊全体に行き渡っていて、そういう意味でもまったく自然体の歌集である。

 長靴の子はみづたまり突き進み虹にゆがみを与へてをりぬ

 補助輪をつけて娘は疾駆せりそのあとを追ふわれの小走り

 聞き分けのなき子を叱り疲れ果つ昨日よりずつと年老いてゐる

 子の生まれ不眠と無縁になりし吾の身体の仕組は説明できぬ

 子育ての歌がおもしろく読めた。補助輪をつけた娘の自転車のあとを追いかける父親というのは、絵になる。

 星合の混線電話に聞き覚えあるこゑありて耳はうるほふ

 勝者も敗者もゐないさやうなら、おほかたしばしうつむきをらむ

 無名なるわれは無名のまま果てむわづかばかりの悔いを残して

瑞々しい感情の流れ出している相聞歌や、作者の仕事や生活の苦労が察させられる歌のどれもが、作られた時から十年とか二十年というような歳月を経て、純朴なたたずまいを見せている。そこに好感を抱く。誰もが思い通りにならない人生を生きている、そのことの意味を宇田川寛之の歌は、静かに噛みしめている。

スタンドの花をいただき帰りたり待つひとあればちょっとおどけて

アコースティックギター爪弾く街角の少女は髪に六花をまとひ
  ※ 「六花」に「りくくわ」と振り仮名。

WINSに最後に寄りしはいつなりや暮らしがギャンブルそのものとなり

敵だらけになるは愉しき人生と投げやりに言ひ仕事に戻る

領収書もらふ慣らひの身につきぬフリーなる身の引き換へとして

言葉に負荷をかけすぎないで、一馬力の浮揚力をもって確かに少しだけ浮揚している。これはなかなか得難い空気感なのだ。

平井軍治『列島ののど笛』

2018年05月13日 | 現代短歌
 一月に「未来」の新年会で少しだけ談笑したのを覚えている。昭和十三年生まれだから戦中派だ。そうするともう八十歳だけれども、お会いした印象では、とてもそんな年齢には見えない。集中には、「いつもいつも年齢以下に見られきて今宵はなぜか腹が立つなり」という歌もあって、思わず笑ってしまった。青森県教育委員会を退職したのち、仙台矯正管区の篤志面接委員などをつとめた作者の第三歌集。青森は列島ののど笛、ということでタイトルとしている。

 うつうつと書物あさりし十代のいのちの余燼いまもくすぶる

 くりかえし記念に写真撮りたしと言いつのりたり、かの日の君は

 掲出歌は、老年のさびしさと哀歓をにじませていて好感が持てる。

 百歳を三つ越えたる姑は曾孫の声にのみ首をふる
   ※「姑」に「しゅうとめ」と振り仮名。

 コンビニにくつろぐソファー備えられ馴染みの茶房一つ消えたり

 ランチとる母と娘の二人連れひとりはスマホ覗きつつ食う

からかわれどやされながら凌ぎたる月日はつくる踊り手ひとり

 これらの歌には、そうだろうなあ、と思わせるような説得力がある。日常の些事をしっかりととらえて、平静におだやかに批評を加えている。

 一八六四年、ジュネーブ条約批准まで「赤十字」ならぬ「赤一字」
 
 カンボジアに果てし三十四歳も松陰の説く四季を持つべし

 姉の手に機銃掃射を遁れつつはまりし夜の畔のぬかるみ

 グラマンの轟音せまりうずくまる薄闇のなか閃光はしる

 国連は少年の目におおいなる希望の星の輝きありき

 やはりこの世代の人ならではの視点というものがある歌だと思う。吉田松陰の言葉は、早世した人にとっては最高の慰めの言葉である。平井さんにしてグラマンの掃射を受けた経験があるのかと、驚いた。いま昨年夏のNHKの空襲についての記録データを分析した番組のことを思い出した。大都市の空襲が一段落して制空権を確保して以降、米軍艦載機の単独飛行による空襲が地方に拡大した時期があるという。『ガラスのうさぎ』に書かれた世界である。考えてみれば私は国連の歴史や仕事というものをタイトルにした本を読んだことがない。戦後の希望に満ちた一時期の思い出は、語り継がれる必要がある。一瞬の青空が見えたと、「未来」の創立メンバーの太宰瑠維さんも語っていた。

東北は深ぶかと瑕負う胸部、癒ゆるに難きさだめを生くる

岡村桂三郎展 異境へ

2018年05月09日 | 美術・絵画
 平塚市美術館の岡村桂三郎展を見て来た。天井まで届くような大きな板のパネルが並んだ洞窟のような展示空間である。お寺の境内にいるような、また山中に正座しているような気分にさせられて心地いい。身長の三倍はあるかと思われる大画面が、屏風のかたちに並んで置かれており、美術館では懐中電灯を持って子供達と探検する催しも開かれているとあった。

 その画面は、貼り上げた杉板を下作業としてバーナーで黒焼きし、その上に日本画の岩絵の具を塗りこんでから彫り上げるという作業を繰り返して作り上げられている。モチーフとなっている巨大な龍や霊獣や大魚の鱗、さらには超越的な第三者の「目」が、数えきれないほどたくさん散りばめて画面に彫り込まれており、呪術的であると同時に聖性を感じさせる画面は、ダイナミックで力強い。

 タイトルをカタログから書き写してみる。群山龍図。百眼の魚。地の魚。龍ー出現。龍ー降臨。白象図。渦巻く。降り注ぐ。夜叉。南冥の鳥。北溟の鳥。瑞魚。海神。陵王。地神龍。眠蛸。五部浄。百鬼。北溟の魚。迦楼羅と龍王。迦楼羅。

 何か非常に詩的な感興をそそられるものがあると感ずる。ほかに初期の作品が数点展示されていたが、『荘子』の神話世界や、インドの神話にでてくる聖獣のようなものがタイトルとなっていることがわかる。迦楼羅(かるら)は龍を食べる鳥である。作家は地水火風とお経のようにとなえながら鱗や目を彫っていたのではないだろうか。手作業の跡は徹底的に即物的であり、表現されているものは霊性・聖性という空気である。
 
 数日前にNHKの映像で深海の動物たちの様子を撮影したものを見た。岡村桂三郎は映像のような極彩色を用いずに、現実の深海魚をも絵に描いてしまっているのだと今思った。

鮎川信夫『宿恋行』

2018年05月03日 | 現代詩 戦後の詩
 古書で鮎川信夫の詩集『宿恋行』を買った。あんまり自分のこの頃の気分にぴったりするので、いや、鮎川ほど私は自己滅却への願望は強くない。それにしても、読んでいて「楽しい」というか、「みたされる」詩集ではあって、まあ、連休中にこういうことを朝の四時に起きだして書いているような人間もそう多くはないだろう。引いてみる。

  こんな夜には     鮎川信夫

セブンスターの箱をはじくと
悪魔が出てくる
一人でタバコをすっていると
むしょうにやつと話したくなった   

シガレットの吸口を
かるく水につけて上から吹く
無意味ないたずらにも
造物主の息がかかっていて

こまかい泡のかたまりが
コップに落下しすぐに消え
無数の星の悲鳴を耳のなかに残すから
うれしくならないこともないよ

紙マッチの軸を台紙からちぎらずに
ちょっと折りまげてこすりつけ
くだんのタバコに点火すれば
冷たい水色のけむりが立ちのぼる

澄んだほほえみを忘れちゃいけない
あくまで一人の殺し屋の
おいらのメッセージ
習慣のロボットになるな

紙マッチの台紙には
折れまがった用済みの黒い頭と
まだ綺麗な白い頭とが仲よくならんでいて
醜い現実の姿をさらしている

タバコの外装からセロハンをはずして
箱型のそれを机のうえに立ててごらん
透明にそびえることを望んでいる
きみの城にそっくりだから

てっぺんに火をつけると
美しい炎をあげて燃えあがり
十数秒で黒い灰になる
すべてがこんなふうだったらわるくはないぞ

じゃあ おやすみ
健康のため
吸いすぎには注意しましょう
なんと無邪気な悪魔のやつめ!

 全部で九つの連によって構成されている詩だ。以下にコメントを試みることにする。

1
セブンスターの箱をはじくと
悪魔が出てくる
一人でタバコをすっていると
むしょうにやつと話したくなった   

2
シガレットの吸口を
かるく水につけて上から吹く
無意味ないたずらにも
造物主の息がかかっていて

 悪魔と造物主が対照的な存在であることは、誰にでもわかる。しかし、タバコを使っていたずらをしている時に発生する泡・あぶくを見ながら造物主の名を引き合いに出すこと自体が強烈なアイロニーである。ここで造物主も笑わせたいと詩人は思わなかっただろうか。

3
こまかい泡のかたまりが
コップに落下しすぐに消え
無数の星の悲鳴を耳のなかに残すから
うれしくならないこともないよ

 三行目と四行目の言葉の切れ具合が、尋常ではない。四行目の「うれしくならないこともないよ」という話し言葉のような、翻訳文体のような一行の秀抜さは、言いようもなくすばらしい。

4
紙マッチの軸を台紙からちぎらずに
ちょっと折りまげてこすりつけ
くだんのタバコに点火すれば
冷たい水色のけむりが立ちのぼる

 「冷たい水色のけむり」は、むろんニヒルな煙であるが、抑えた言葉遣いのなかに冷え冷えとしたよろこびを感じさせる詩行である。

5
澄んだほほえみを忘れちゃいけない
あくまで一人の殺し屋の
おいらのメッセージ
習慣のロボットになるな

 これはタバコの悪魔がしゃべっているのだろう。私の解釈では、この詩は荒淫のあとの気分につながっているのである。だから、悪魔が退屈な殺し屋であるのと同様に、詩人である「おいら」も肉を相手になすところの技巧家であり、比喩としての「殺し屋」の一人なのだ。ただし世間一般の殺し屋というのは、想像力が死滅しているからこそそういうことができるのであって、この詩人のように愛技の手練手管にすぐれているわけではないだろう。「澄んだほほえみを忘れちゃいけない」というのは、手を下す時のことであろう。まったく天才的な一行だ。

 しかし、何しろ日本みたいな国で大藪晴彦の小説ふうに銃器をぶっぱなすというのは、先日のキレてしまったおまわりさんみたいで、野暮の骨頂と言えるかもしれない。ついでに詩と同じ対照の詩法にならって書くと、先月末に捕まった脱獄犯の男は、近頃めずらしいハードボイルドな表情をしていた。日本社会というのは、一人の男がああいう顔になるまでに人を追いつめる社会なのだ。彼はまったくそんなことは自覚せずに、全身で拒否感を表明していたのだが、大半の人間は、そんなことは夢にも思わないにちがいない。私は『宿恋行』が気分にぴったりするぐらいのところにいる人間なので、彼の孤独が理解できる。(彼の以前に犯した犯罪が、ではない。) 

  ※そののち週刊誌の報道で、彼がおかれていた施設が人間の自尊心を根こそぎ損う旧態依然とした、旧軍隊のようないじめ的な状況を放置している、ひどいものであるということがわかった。私は刑務所に暮らしているひとたちに同情を禁じ得なかった。日本の刑務所を管轄しているひとたちは、ドイツその他の「先進国」にまじめに視察に行くべきだろう。受刑者の人権を損うような刑務所は、再教育機関・人間の更生機関として失格である。マスコミも口を拭っていないで、きちんと続報をすべきである。

6
紙マッチの台紙には
折れまがった用済みの黒い頭と
まだ綺麗な白い頭とが仲よくならんでいて
醜い現実の姿をさらしている

7
タバコの外装からセロハンをはずして
箱型のそれを机のうえに立ててごらん
透明にそびえることを望んでいる
きみの城にそっくりだから
 
 この一連も、悪魔がしゃべっているのかもしれない。「透明にそびえる」「城」というのは、人間の為している抽象的な行為のすべてを示す暗喩だが、とりわけ芸術の分野、それから哲学・思想の分野、詩の分野において際立つものをアイロニカルに示唆しているだろう。「きみ」とは、作者も含めた詩人たちのことでもあるのだ。

8
てっぺんに火をつけると
美しい炎をあげて燃えあがり
十数秒で黒い灰になる
すべてがこんなふうだったらわるくはないぞ

 「てっぺん」は天上を示唆しつつ、知的な作者自身の脳味噌に近い部分を燃やしてしまうことに通ずるだろうし、黒い灰は、もちろん死を示唆する。「すべてがこんなふうだったらわるくはないぞ」という、ふたたび現れた絶妙な響きを持った翻訳語の話し言葉の口調、悪魔の口調が、自分いじりと自分いたぶりに慣れた(つまり自己批評的な)詩人の「いたずら」な気分を明るく諧謔をもって表現されている。

9
じゃあ おやすみ
健康のため
吸いすぎには注意しましょう
なんと無邪気な悪魔のやつめ!

 本家の英国の詩人ジョン・ダンの諧謔的な精神の遠い反響みたいな味を持つ詩でありつつ、「吸いすぎには注意しましょう」という口調には、アメリカ由来のような無邪気な率直な調子も感じられる。「健康のため/吸いすぎには注意しましょう」というのは、むろん強烈な皮肉である。私は分煙には賛成だが、すべての公の場所における「全面禁煙」には反対だ。煙草を吸う人のためのスペースがどこにもないので建物から出て、さらに門の外で吸っている場面をしばしば目にするが、これに何の配慮もしないのはおかしいと思う。

カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』と水沢遥子さんの新刊

2018年05月02日 | 日記
 今日はきちんと出勤。朝の電車の中は、普通の会社は多くが休みらしく、学校の先生と高校生と市役所その他の職員らしき人ばかりだ。空いていて心地よい。

 私は連休前半の中日に知人とカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』(ハヤカワepi文庫)を読んだ。何とも残酷な恋愛小説で、作品はわれわれの生きている世界の鏡になっている。人身売買によって臓器を抜かれている貧しい子供たちのいるこの世界に向かって、作品は静かな抗議を示しているのだ。読んでいる間は、おろし金で気持をおろされるようなところがあった。ひりひりと痛い物語である。私は随所に提示されている廃墟や終末のイメージに心をひかれた。映画のはなしも出たが、やはり映画と小説では、大きなちがいがある。私は映画の方は半分だけ見た。議論になったのが、クローンである子供たちに対するへールシャムのマダムやルーシー先生が抱く激しい嫌悪や恐怖が、われわれ日本人には理解できない、というものだった。それは宗教の違いに由来するのか、イギリスが階級社会であることによるのか。作家がイギリス社会やキリスト教そのものに対してやはり何か問いかけをしようとしているのではないか、ということが話し合われた。

 その前日には、新聞の地方版に出ていたので、茅ヶ崎の成就院というお寺に咲いている「なんじゃもんじゃ」の木を見に行ったのだが、それは私が小学校の頃に歩き遠足で行った「なんじゃもんじゃ」の木ではなかった。フタツバタゴという名の木だそうだが、オスとメスがあって、白い花が初夏の風に揺れていた。

鳥かげのつぶてたちまちよぎりゆく大樹の秀つ枝しづまりをれば     水沢遥子『光の莢』

 ※「秀つ枝」に「ほ」つ「え」と振り仮名。

 私に水沢さんほどの詩嚢があれば、「なんじゃもんじゃ」の木の白花も歌につくれるのだけれども、どうも今日はまだ無理なようである。もっとも成就院の「なんじゃもんじゃ」は「大樹」ではなくて、中ぐらいの大きさの木だった。文化人として名望があった茅誠司が、青少年の頃に明治神宮で種を拾ってきてその庭で育てた木だという。

光の莢のうちにいつかはしづまらむ現の外へ去りにしものも       水沢遥子

 詩や文学が人生の光源であるように生きるということは、水沢さんのような歌人には可能なことであっても、なかなか難しいことである。しかし、連休中にカズオ・イシグロの小説をレポートしてくださった英語の先生もそういう人の一人であるにちがいないと、いま思った。

 翌日、イシグロの小説をもっと読んでみようと思って同じ本屋に行ったら、その棚だけが五、六冊空いて隙間ができていた。平積みの本も二種類だけになっていた。帰省や旅行の途中に読んでみようかと思って買っていく人が幾人もいたということだろう。