さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

久我田鶴子『雀の帷子』

2020年09月27日 | 現代短歌
 今晩は、モーツァルトのロンド、インAマイナーK511番をアルフレッド・ブレンデルの演奏で聞くうちに、何か書いてみようという気になった。

  小鹿野なる鹿をたしかに証しつつ糞のころがる草のあひだに

  雲なして花粉の飛べる 節分草たづね入り来し秩父両神

  雪はつか残る谷筋わけ入れば逆光になほ白く滝落つ

  滝口にしぶくを見せて日の渡る空の三月ふと暗むなれ

 草の世界にずうっと入り込んでいって、地表の息遣いと一体化していく陶酔感のようなものが、ここにはある。こころは土の上の地表十センチぐらいのところにあって、そこから滝や空を見上げている。ここには、集中でしばしば呟かれている〈私〉のめんどうなはからいの世界への嘆きはない。

  枯れ草のなかなる菫むらさきに浮かぶ面影三つほど摘めり
    ※「三」に「み」と振り仮名。

  瑠璃碧灰紫のとりどりを光らせながら野ぶだうの秋
    ※「碧」に「みどり」と振り仮名。

こういう幸せな歌を続けて見つける。

  鳴きかはし枝うつり来し小さきらに体当たり見せひもじさの極
    ※「小」に「ち」と振り仮名。

  鴉ゐてなにをつつける 酔漢の嘔吐せしもの浄めたまへる

 一首目は、エナガを詠んだ三首の中にある。鳥のことではあるけれども、生きもののみせる真剣な「ひもじさ」に動いていくこちらの心の在処のようなものが、不意に感じられる。これはあとに引く藤田武の歌にちなんだ作品と、地下でつながっている。二首目は、鴉に敬語の「給ふ」を使う作者。ここには、相当な程度の人間に対する愛想尽かしのようなものがあるだろう。

 人間には、人が好きでたまらない時と、そうでない時とがある。各々が抱えている厭世と厭人の極みの部分を封印して生きるのが、処世ということであるから、ねたみとか、ひがみとか、うらみとか、何かただならない情念に染まらないように生きていくのが君子ならずとも普通にサラリーを得て生きる者の道である。そういうものの発する俗臭ふんぷんたる気配にとりわけ敏感な人というのはいて、そういう人には、この世界が苦しい。作者の場合は、対人的に傷ついて来た歴史が長く深いという気がする。だから次のような歌もできる。

  みづからの妬心を前に哭いてゐき藤田武の菜種河豚の歌

 この歌には、注が付けられている。

  菜種河豚たらふく喰えと妬み声ふくらみやまねばぐろりあぐろりあ(藤田武)
    ※「菜種河豚」に「なたねふぐ」と振り仮名。

 こういう人生劇のひだひだの中に入り込むような浸透力というものは、何十年短歌を読んでいてもなかなか身に付くものではない。身を以て感じたところがなければ、これはわからない。作者はそういう鋭さを、たぶん香川進のような先人の作品と接しつつ身につけて来たのだろう。あらためて短歌の修練の仕方は人それぞれであると思った。

 この濃厚な歌のとなりに次の歌が来る。

  曇り日のゆふぐれどきを海鳴りは電車の音にかき消されつつ

 いいなあ。この平淡さ。これが、短歌というものなのだと思う。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿