さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

かぜをひいて

2022年10月30日 | 日記
 先々週はかぜをひいてしまって、三日ほど寝込んだ。先週はその余波で、一週間体調がすぐれなかったのだが、その間になぜかめずらしくも締め切り原稿のようなものが三つあって、多少調子の戻った土・日に必死で片付けた。それから体調のもどりはじめた木、金、土の夜になぜか林芙美子の『放浪記』を読んだ。筑摩の赤いカバーの全集本で、活字が小さいから読むのに骨が折れるのだが、夏にも復刻版で読んでいたから、二度目の文章をたどるのは、何とかなる感じで、目もそれほど疲れなかった。
 あとは美術評論家の今泉篤男の著作集を読んだ。私はここ数年、日本の近代「洋画」や戦後まで生き延びた戦中派画家たちのことを、少しずつ調べたり読んだりして来た。古き良き「洋画」の全盛時代の作家たちの版画やらデッサンやらが、けっこう安価に市場に出てくるので、ニセモノに唾を吐きかけつつ、何とかそれに引っかからないように画集や版画やリトグラフを中心にして集めるということをしてきた。そうして、あっという間に資金が尽きた。骨董なら売ることもできるが、底値まで落ちた洋画関係のものは売りようがない。けれども、私の気持は豊かである。ゴッホ風、セザンヌ風、マティス風、なんでもそろっているのだから。ただし、日本の画家の「マティス」であり、「モジリアニ」である。値段は千分の一か、万分の一か。しかし、近代の洋画家たちが必死で取り組んだ中身を、単なる模倣だとか、オリジナルではないとか言って、すませられるものだろうか。
 先夜、娘を駅まで迎えに行って、しばらく待っていた。「何分待っていたか」と聞くから、「そうね、五分くらいかな」と言うと、「そんなに待たせてわるかった」と言う。「別に、わるいということはない、待っている時間が楽しいから」と言うと、「無駄な時間をすごしていたのではないか」と聞いて来る。私はものを見ているだけで楽しい。道を歩いて目に入って来るもののすべてが、木や、舗道や、空の雲がうつくしいと感ずる。なにもかも、私にとって意味のないものはない。美術に心を潜めることによって私が得たものは、そういう「もの」の見え方である。それは気持の上で、早々に死ぬ準備をしているのかもしれないが、現に私と同年代の人がどんどん死んでいくのだから、私とていつ死んでもいいつもりでこの世を生きたって、別にわるいことではないだろう。
 私は羊歯が好きだ。前庭に数本生えている羊歯を今日の夕方も愛おしいと思った。