さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

雑記

2018年06月26日 | 日記
いま読んでいるのは、中島らもの『異人伝』という本なのだけれども、ピュアーな人だなあ。こんな一節がある。

 「思想、主義ってのは砦。だから、どんな過激な行動をしてても、その人は思想っていうあったかい砦の中でぬくぬくしてるわけよ。主義も同じ。それやったら、いっぺん裸になって表に出てみろ。外は大風だよ。現実を見ろと。それと「自由は不自由だ」ってのはわりと通底してるね。
 思想、主義がなくて、やっていこうとすると、とても疲れるんよ。」

 思想や主義でひとを痛めたり、どついたりしたくなるような人は、いっぺんこの中島らもの言葉を噛みしめてみるといいかもしれない。


 

内藤明『薄明の窓』

2018年06月23日 | 現代短歌
 このところずっと、中村真一郎の『頼山陽とその時代』上・下の文庫本になったのを持ち歩いて通勤の合間に読んでいるのだが、たとえば江戸期の都市の文人の間に芽生えていた自由恋愛や男女平等の気風が、明治時代に入って再び男尊女卑の文化が強まって後退させられてしまったのだとか、いくつもの卓見に驚かされる書物である。これは頼山陽を取り巻くひとびとの評伝であるとともに、その漢詩文についての批評でもあるという書き物だから、だいたい文化・文政から天保以後までの時代の漢詩アンソロジーの性格も持っていて、ブルクハルトを引き合いに出すのは大げさかもしれないが、江戸漢詩の世界を介した壮大な文化思想史の下書きというような気配も持つ、柄の大きい書物なのだ。

そういう本を読んでいる、一種の陶然とした気分の延長にある時に読むに堪える現代短歌があるのかというと、それがあるのだ。たとえば内藤明の今度の歌集は、ちゃんと江戸漢詩を読んでいた気分ともつながるところを持っている。

愉しかる一日なりけり事どもの軽き重きを問はざりしゆゑ

それぞれの猫に七癖あるもので雑誌の小口で爪研ぐ夢二

※「小口」に「こぐち」と振り仮名。

江戸の漢詩人は、一首目のような内容もちゃんと詩に作っていたということが、中村真一郎の本を読むとわかる。日本の文化は、近代を一巡して、ようやく江戸のレベルに復したのかもしれない。肯定的な意味で、本当の文人の歌がここにあると言ってみたい。
二首めは、山崎方代や高瀬一誌や小池光といった幾多のユーモリストの系譜に連なる歌であるが、全体に自然(じねん)の詠みぶりのあらわれているこの歌集の持つ静かな力に、こちらははげまされる気がするのである。

さやうなら 暁の月齢読みながら少し滲める目をつむりたり
 
 ※「暁」に「あけ」と振り仮名。

壁を指し鼠が走るといふ人の言をうべなふ、ねずみがはしる

ともかくも今日をあらむと開く扉ねぢけ心を捻ぢ伏せにして

 ※「扉」に「ドア」と振り仮名。

韮の花白く浮き立つかたはらを汗垂りながらいづくへ帰る

平穏無事に暮らしていても、日々を乗り切るという事は、そうたやすいものではない。「ともかくも今日をあらむと開く扉(ドア)」という時は、誰しもある。またその夕暮れも、「いづくへ帰る」と言いたくなるような険しい時の斜面はある。この感じは生活者なら誰しも抱くことのある感慨だと思うが、内藤さんの歌は、そういう内容を卑近な「ぼやき」の歌にはしていない。そこに、文語の力がはたらいていると私は思うものだ。

短歌の文体の「口語」「文語」というものには、一長一短というものがある。「ねぢけ心を捻ぢ伏せにして」は、「ねじけ心を捻じ伏せにして」では、散文的な印象が強くなってしまうのである。「いづくへ帰る」は「どこへ帰る」では、おもしろくも何ともない。四句目の「汗垂りながら」も生きて来ない。文語は「いい加減」を生み出す言葉の魔法なのだ。

まだ少し時間があれば聴かむとす野の鳥のこゑ梢吹く風

感情が内へ内へと吸ひこまれ身動きとれぬからだなるべし

絶え絶えに闇の底よりひびき来る消音ピアノの鍵盤敲く音

 ※「消音」に「サイレント」、「鍵盤」に「キー」と振り仮名。

感情と身体(からだ)あってのことばなのだということを、内藤明の歌を見ていると思い出す。修辞優先の詩は、人間を生きにくくさせてしまう。世界を広げようとしてかえって世界をせばめてしまうのだ。作者は、はじめから修辞をめがけないところで修辞に至るというところがある。ここに引いた一首目のような平易な歌と地続きのところで、二首目の歌や、三首目のような歌があるということは、やってみればわかるが、なかなか難しいことなのだ。

安井高志『サトゥルヌス菓子店』

2018年06月16日 | 現代短歌
 短歌の世界は、中澤系、笹井宏之という夭折者の系譜に、またもう一人の若い作者の名前を付け加えなければならなくなった。安井高志、私はこの人の作品を特に注意して見てきたわけではない。しかし、こうして一冊にまとめられたものをみると、この人が並々ならぬ才能の持ち主であったことがわかる。そうして、何と切なく痛々しい歌であることよ。さらにこの歌数の多いこと。どれも生前の遺書のようにも見える歌ばかりで、幸いに多くの友情の花輪に飾られて、生き難いこの世を何とか歌をたよりにして生き延びるよう腕の下に手を差し入れて支えつつ、はげましてくれる仲間にもめぐまれていたらしい。その点については、作者はむしろ倖せであったろう。しかし、いかにも無念である。自分が何かを言うと、あとからその発言に自分で傷ついてしまうような人というのは、いるものだ。私は安井高志がそのような繊細な羞恥にまみれた人であったろうと思う。

遠い目の灰色ガラスの水の底むすめはひとり歌をうしなう

霧のなかに歌がきこえる繭のなか滅びをまってるバレリーナたち

朝摘みのぶとうと共に収穫された娘たち 霧に果てたい

 巻末の年譜、御母堂によって記されたとおぼしい伝記的な事実は、この歌を読む参考になるのかもしれない。
「1985年千葉県生まれ。幼時より少年少女合唱団に入団。中学3年時、ハンガリーのコダーイ国際合唱コンクール金賞受賞、上野音楽堂にて記念コンサートを開催、ハンガリーでボーイソプラノを失う。」

 この「ハンガリーでボーイソプラノを失う。」という一句が、掲出歌の「むすめはひとり歌をうしなう」という詩句と関連しているように思われた。誰にも理解してもらえない孤独な喪失経験のようなものが、ここにはあらわれている。「むすめ」というのは、だから韜晦なのにちがいない。

ハッカ水飲ましておくれお姉さん恨みが綺麗な星になるなら

ヒトカタを葬るためにみずうみへ向かう 夜汽車のかすかな響き

花嫁の体がちぎれていってしまう彼女がひかりになった海岸

人形の夜は続くよもう二度と歌わぬように濡れたハンカチ

 いい歌がいっぱいあって、でもこれらの自己滅却願望をぎりぎりのところで詩的に救抜しようとする作品群は、痛々しく、危うい。これも血で書かれた文字と言うべきだろう。だから、生きていくためにはこういう歌を書いてはいけなかったのかもしれない。言っても詮無いことだが、滅びに抗して生きつづけてほしかった。これを読んであげることが、せめてもの死者への花の手向けとなるだろうか。編者の方々の御尽力に心から敬意を表したい。

嵯峨直樹『みずからの火』

2018年06月16日 | 現代短歌
嵯峨さんの新歌集が出た。これまでの歌集で作者の関心は、エロス的な身体のありように主として向けられていた。そこが魅力でもあった。それが、今度の歌集では<存在>そのものを把握することに意を注いでいる。むろん性を媒介としてうたう時に独特の屈折したニュアンスを漂わせる作者の資質は健在である。ただそういう歌の場合でも、たとえて言うなら「肉体」と言わずに「熱源」と言ったりするような、より抽象度の増した根源的な比喩に傾いている。そのため日常的な情景にさかのぼって、作者の卑近な<私性>に近づくきっかけが消してある。

欲動に洗われながら匿名のにくたいになる一夜をかけて

赤土に激しくまろぶひぐらしを粘度を増した光が縛る

この歌集の多くの歌において、ここに掲出した一首めのように実景は言葉の網目のあちら側にうっすらと霞んでいるか、または二首めのように独創的な彫琢をこらした一筋縄ではいかないものとして提示されている。
作者は、近年の情報化とデジタル技術の深化によって、より細分化され、断片化してしまった<現在>の全体性を回復しようとしているのだ。だから、日常的な理解の延長線上に描写の言葉を置くことを極力排除しながら、現象する花や木々や建物などのモノと、自身や妻などの人間の肉体とを、影と光のあわいにあるものとして、暗闇に置かれた物体のような不分明なモノとして描いてみせるのである。

くらぐらと水落ちてゆく 側溝に赦されてあるような黒い水

ひとという火の体系をくぐらせて言の葉は刺すみずからの火を

初夏の銀のひかりに輪郭を蝕まれつつさわぐ葉桜

血だまりの日暮れのぬくみ部屋内に両足の裏みせて寝るひと

 ※「部屋内」に「へやぬち」と振り仮名。

 神田川か何かを見ながら「側溝に赦されてあるような黒い水」と言う時、そこはかとなく虐げられ、あたかも罪ある存在として生活世界に突き出されている作者の心が伝わる。
どうして「言の葉は刺す」のか。そのように痛みを伴うものなのか。「葉桜」は、「初夏の銀のひかりに輪郭を蝕まれ」ているのだ。ここには供犠として差し出された者であるかのような、現実の作者の心身の受苦が形象化されている。「両足の裏みせて寝るひと」は、おそらく作者の妻なのであろう。でもその姿は、血のように赤く照りつける夕陽の光のなかにある。これは見る者が安んじて接することができるような絵ではない。もう少し引く。

水映すテレビの光あおあおとシーツの上でまたたいている

暗闇の結び目として球体の林檎数個がほどけずにある

 この二首は堅実な歌で、作者は書評を書くために玉城徹の全歌集を通読したと先日語っていたが、これは玉城ファンのめがねにもかなう歌であろうと思う。多くのイメージの絵を描く歌の間にこうした歌が差し挟まれているところには、「未来」に所属する作者らしい自恃が感じられる。

薄氷に鈍く映ったひとかげへ身を入れてゆく喘ぎ喘いで

 ※「薄氷」に「うすらい」、「喘」に「あえ」と振り仮名。

 薄氷の歌がある一連は、多摩川や「自裁死」という言葉が出てくるので西部萬の自死のことを歌ったものだろう。しかしこれは、切迫した生理的なものの反転した表現のようにも読めるのであり、そこにこの作者独特のエロス的なものの示現する瞬間がある。すでに述べたように、微かな受苦へと傾斜しながら詩的に昇華しようとする志向性があらわである。ここまで書いてしまってから一度寝てしまって、起きてからまた見直すと、先にわからなかった歌が良く分かる気がしたものがある。一部の歌の難解さは、むしろ積極的に擁護すべき性格のものだ。
 

吉田漱さんのこと、和辻哲郎の公共性についての規定

2018年06月09日 | 
メモ・吉田漱さんのこと、和辻哲郎の公共性についての規定

 「未来」の歌人だった吉田漱さんは、江戸から明治にかけての絵画の専門家であった。少し前の河鍋暁斎。最近では小林清親。この画家についての解説は、吉田さんの著書に負うものが多いはずである。

 あとは、意外なところで吉田漱さんの名前を目にした。奥本大三郎『壊れた壺』集英社文庫1997年刊に、ポール・ジャクレーという蝶の標本の収集家だったフランス人の画家の話が出て来る。ジャクレーは、明治三十二年、四歳の時に来日し、昭和三十五年に軽井沢で没した。

 その…(以下は、奥本大三郎の著書よりの引用)

「展覧会のカタログにある吉田漱氏の解説および年譜によれば、母はバスク出身で、両親の結婚は、ソルボンヌ大学の総長を永く務めた父方の祖父の気に入らなかったらしい。ポール・ジャクレーの木版画が示している、チャモロ族やアイヌのような、いわば少数民族に対する一種の共感は、あるいは母に対する想いと関係があるのかもしれない。」

 吉田漱には、別のペンネームによるエスぺランチストの高倉テルの伝記がある。吉田には、コスモポリタン的な感覚を持った民俗芸術に対する嗅覚と好奇心があった。浮世絵は、端的に言うなら近世日本の都市のフォークロアである。それにたとえばゴッホが鋭く反応したというのは、わかる。そういう意味では、芸術上の革新というのは、常に、と言っていいほど、フォークロアの血統を受け継いだもののなかに現れるところがある。「アララギ」の写実主義を身をもってマスターしながら、コスモポリタンな民衆芸術に意義を見いだすという吉田の視点には、広くて深いものがあった。

 私は時々、自分にないものの持ち主ということで、吉田漱という人の広さと深さを、不意になつかしく思い出すのである。昨日は私の母の命日であった。何となく手元に転がってきた本をひろげて書いてみたら、こんな文章になった。

 この後は蛇足になる。でも、書いてみようか。

中山恭子『ウズベキスタンの桜』2005年KTC中央出版
 タシケントの劇場を建設した日本人の戦争捕虜の話が出て来る。

和辻哲郎『倫理学』(一)岩波文庫2007年刊
「そこでまず、世間にあらわになるということは、一つの国民の内部、あるいは何らかの共同体の内部の、<すべての人に知られている>(カギかっこに傍点)ということではない。事実上きわめて少数の人しか知らないことが、しかも最大の公共性を持っているという場合はあり得る。なぜなら、世間にあらわになるということは、<世間にとって隠されていない>(カギかっこに傍点)ということにほかならぬからである。言い換えれば、それに接近しようとするすべての人に対して開放せられているということなのである。従って公共性の大いさは事実上それに参与する人の数量によってではなく、<参与の可能性〉(カギかっこに傍点)の大いさによって計られねばならぬ。<世間にあらわにするとは>(カギかっこに傍点)、その世間に属するあらゆる人に<参与の可能性を与えること>(カギかっこに傍点)にほかならない。これが公共性の主要な規定である。」
226ページ

 これは、喫緊の問題ともかかわる言葉だ。和辻は、ドイツ哲学を批判的に読みこむ中で、どうしてこれだけ明確な公共性についての規定を書き得たのだろうか。信じがたいほど冴えていると思う。もう一つ。

 「個人存在があらゆる空しさの根柢であることを覚るのみでは、個人に超個人的意志への合致を命令する道徳法は可能とはならない。むしろ逆に、個人存在の根柢が空であることを覚ることによって、個人存在は自他不二的充実の根柢となり、従って道徳性も可能となるのである。」343ページ

 ハイデッガー批判として書かれている一節にある言葉だが、こういう思考の中には、国家主義と愛国心の問題があり、これを引っくり返すためには、「個人存在があらゆる空しさの根柢であることを覚る」ということと、「個人存在は自他不二的充実の根柢とな」るということの両方を吟味していく必要がある。ここのところを曖昧にしていくら空論を述べ立ててもそれは心情論でしかない。

 私としては、ここから一直線に演繹していくのではなく、さまざまな媒介項目や、歴史的な実例や、各種の素材を提示しながら、個別に吟味してゆく鶴見俊輔のようなやり方が大事だと思っている。ここですぐに白か黒かをはっきりさせようとする言葉は、私はネット言論のいちばんいけないところだと考えている。


穂村弘『水中翼船炎上中』

2018年06月02日 | 現代短歌
 名久井直子の装丁が素敵な本だ。間にはさまれた栞にある著者の説明によれば、表紙の絵の組み合わせは9パターンあるそうだ。ケースから取り出した本を並べて額縁のケースに入れたら、ちょっとしたインテリアになるかもしれない。十七年ぶりの新歌集だというけれども、これまでに出した歌集がどれもいまだに経年劣化していないのだから、三冊目から四冊めまでの間の年数を言うことにさしたる意味はないだろう。

穂村弘の文体は、歳をとりにくい文体なのだ。けれども、歌集には老いた両親のことをうたった作品が収録されている。生身の作者は、確実に人生の時間を深めているのだが、それを語る歌の語り口が、年齢の濁りを感じさせない。澄んでいるのである。そのことに、今回あらためて感動させられた。

歌集の表紙には、青色と金色があるけれど、私が今回感じた調子(トーン)は、特に後半は、乳色と白銀色の入り混じった光を投げかける月明かりのような色だ。それは哀しみを詩的に昇華させようとする作者の意志がもたらしたものだと思う。過剰に機知的であるような言葉の動き方を、あえて平淡なところに抑え込んだり、あるいは逆に凡庸な文体に近づけたところで一瞬の差異化を目立たないように生み出すように気を配ったり、自在な夢の中の立ち泳ぎをやってみせる作者の安定した技量にほれぼれとしながら、ページをめくることができた。

今日からは上げっぱなしでかまわない便座が降りている夜のなか

髪の毛をととのえながら歩きだす朱肉のような地面の上を

これは母の葬儀に関連した一連のなかから引いた。作者は、ごく一般的な短歌の作り方の土俵に降りてきたところで、実に鋭敏にその瞬間を永遠化している。

金魚鉢の金魚横から斜めから上からぐわんとゆがんでる冬

あ、一瞬、誰かわかりませんでした 天国で髪型を変えたのか

冷えピタを近づけてゆく寝息から考えられるおでこの位置に

いろいろなところに亀が詰まっているような感じの冬の夜なり

表面的な驚異を追求する歌は真似できる。でも、ぜったいにこの作者以外にはできない角度で対象に迫っている(「現前」に打ち当たっている)「金魚鉢の金魚」みたいな歌が、この歌集にはいくつもある。

なにひとつ変わっていない別世界 あなたにもチェルシーあげたい

あいしあうゆめをみました 水中でリボンのようなウミヘビに遇う

階段を滑り堕ちつつ砕けゆくマネキンよ僕と泳ぎにゆこう

スカートをまくって波のなかに立ち「ふるいことばでいえばたましい」

「あなたにもチェルシーあげたい」というのは、コマーシャルのコピーの引用だけれども、ここにあるのはアメリカのポップアートの言語版と言っていいような鋭くて高度な表現意識である。

これらの作品に見て取れるものは、現在の界面をまるごと反転させ、独自の言語イメージの世界に移動するイマジネーションの力である。

そうしてここにあるのは、天上からこぼれて来る理念の光を障子紙越しに透かし見るようにみて来た理想家が、少しだけ諦念に侵食されはじめている光景である。

だから、これは単なる意匠と着想で成ったものではない。若いひとたちは魅了されるのはかまわないが、真似をしようなんて思ってはいけない。一度冷凍されてから生まれ変わったような内的経験(実体験ではない)を経ないとこういう歌はできないのだと私は思う。