さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

林武 フイレンツヱ

2023年01月28日 | 美術・絵画
「フィレンツェ残照」と題が付されている林武のコンテと水彩による小品を見る。
これはコンテと水彩によってえがかれた色紙サイズの小さな絵である。それなりの経年劣化を被った中古品で、約四十年以上の歳月を経たものだ。額裏にフジヰ画廊取扱いのシールがある。絵をみると、河を行くボートを押し流すようにして川水が下ってゆく。その向こうに斜めの反り橋が見えている。ここに描かれているのは、<時間>的なものであると今の私は思う。最近になって、林武の滞欧最新作が巻頭に紹介されている一九七〇年の「みずゑ」を手に入れて、代表作のひとつであるエッフェル塔の図版を見た。この頃が日本の「洋画」にとって一番いい時代だったのではないかとその時にふと思った。

 この絵は、黒く描きこんだコンテの線描の上に二色、青灰色と淡彩の赤色が薄くのっている。画面右手の川岸に見える建物の壁面は、細部が多めの線に塗りつぶされていてよく見えない。けれども、何日か壁にかけて折々眺めているうちに、不意にその塊のように描かれた建物の「感じ」が、納得のできるかたちでこちらに伝わってきたのだった。そうして、若干の経年劣化のために少しだけ元の画面より暗くなっているとおぼしいこの絵が、もともと持っている雰囲気の明るさのようなもの、一種の日常感覚のようなものの把握を同時に受け取ることができるようにも思った。

 そのむかし私は高校の美術部で絵をかいていた。それで美術科あてのポスターをもらさず目にできる環境にいた。高校二年生のときに竹橋の近代美術館で開かれた林武展を見て、私はとても強い印象を受けた。林武の絵の持っている緊密な構図と、それを支える生きることへの意欲のようなものに感動し、私はしばらく林武ばりの絵をかくことに熱中した。展覧会を見てからその頃刊行されていた中公新書の林武著『美に生きる』を読み、その構図論のとてつもない主張に驚いたのだった。構図論だから徹底的に空間の処理にこだわるものであることは言うまでもない。

 しかし、一九七〇年のヨーロッパで画家が見ていたのは、時間的なものでもあった。この流れる水を描いた小品に見られるような、動く時間と、それを固形物によって永遠化しようとするヨーロッパの文化が持つ根源的なエネルギーの当体を画家は自分の肉体を通過させながら描こうとしていた。彼の代表作のひとつであるエッフェル塔は、フランスの文化そのものが持っている力が、物と化して突出したものであるように思われる。

 翻って日本では、それは富士山だ。日本文化のなかにおける永遠なるものの象徴として、この画家が富士山を選んだことには必然性がある。そこに動いているのは、あくまでも力動的なものと、その力動的な表現への関心である。すべての静止した状態のものは、内側にその存在物のみが持つ時間的な力を把持している。林武はそれを描こうとした。現在に顕現している永遠の相、つまり美なるものをつかむこと、それが画家に課せられた使命であった。

 林武には、一般の美術愛好家向けに企画された大判のデッサン集のセットと、石版画のセットがある。デッサン集の方は、官能的な印象の強い絵が多くあって親しみやすいので、どこかで再版したらいいと思うが、そもそもああいう絵の好みがいまの日本人の間にどれだけ残っているのか、とは思う。数年前に七千円で買った中古のデッサン集の絵の方は、何枚か交換用のマットを注文して作って、取り替えて見ることにしたのだが、ほとんど元手のかからない趣味で、そんなことをしていると気が紛れる。石版画の方は、きまじめな冷え冷えとした印象がある作品が多くて、額装してある二十号大の貫禄あるものがときどき中古でネットに出るが、厳粛な感じを受けるものだ。絵を写真版の画集を見るようにみるのではなく、自分のなかの正面をみる視線を一度編み直した「観る」態度にかえすことがもとめられる、とでも言えばいいだろうか。

 林武の絵は、余白の部分についての徹底的な思考があり、それは言い換えるなら存在や生命といったものに向き合う時の焦点・中心点についての思考でもある。そういう点で近代絵画・近代芸術の仕事は終わったわけではないのであって、近年のようにそれを軽々に忘れ去ってよいようなものでもないだろう。

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