さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

諸書雑談 

2021年03月28日 | 
 私がいま毎日読んでいるのは、『アメリカーナ』という河出文庫に入っている小説で、昨年の「現代思想」のBLT特集でみて、これは読みたいと思って取りついたのだが、読んでいて重いので毎日数ページずつしか読み進むことができず、今もまだ毎日十分ずつ読んでいるのだけれど、おすすめの小説です。

 あとは近代絵画関係で永瀬義郎の『放浪貴族』という本がおもしろかった。これに関連したところだと、日本の近代「洋画」のファンだという人が書いた新書を斜め読みしたが、本が行方不明になってしまったのでタイトルが確認できない。永瀬も雑誌「白樺」をみて絵の方に進もうと思ったというから、日本近代の芸術史において「白樺」の果たした役割はとても大きい。「白樺」関係では、里見弴の『安城家の兄弟』という昭和四七年にほるぷ出版から出た本には、有島武郎の死について弟の視点から書かれているうえに、同じ兄弟の生馬の絵のカラー図版が載っていて興味深い。女とのやりとりなどは、先日少し触れたが岩田専太郎の本などと共通する要素があった。ちなみに最近、岩田専太郎の画集『三百年のおんな』をきわめて安価に手に入れたが、その解説を書いているのが川口松太郎で ーここでの川口の解説の文章は絶品と言っていいー 永瀬義郎は、その川口を感心させた色男ということになっている。永瀬は外国人のような彫りの深い鼻高の異貌である。それにしても、このところ遊び人の書いた本ばかり続けて寄って来るというのがおもしろい。と言っても、里見弴などは戦時中に東条配下の特高警察ににらまれながら元老の西園寺公望のもとに通って筆記を行ったというから、ただの遊び人ではないが…。あとは、永瀬には蒋介石の肖像画があり、いったいどこでそれを描くことになったのか、写真をもとにしたのか、実際に会ったのか、宿題の一つにもしておきたいところだ。私にフランス語や中国語ができたら一篇のスパイ小説でも書き上げられたかもしれない。

 追記。
 河合隼雄と鷲田清一の対談『臨床とことば』(朝日文庫 2010年4月刊)を再読。なかなか滋味のあることばにあふれている本で、傾聴することのむずかしさに冒頭の方で触れているくだりなどは、何度読んでもうなずかせられる。私は看護医療系を志望する学生に必ず「キュアとケア」についてそのちがいを論じなさい、という題を出して書かせている。「看護とは何か」と問われても漠然として答えにくいけれども、「キュアとケア」についてどう考えますか?と、踏み込んで問うてみると、その人の持っている問題意識の深さの度合が端的にわかる。河合隼雄は「キュアとケア」が一体のものだと考えていることが、この本からはよくわかる。しかし、現実の医療の現場においては、キュアの面は医師が、ケアの面は看護師や介護士が担当するという仕事の分担が行われているように見える。そこのところで、看護師はどういう心構えをもつことが適切なのか、ということを問いかけるために私は本書のような書物を材料として手元に置いている。

 似たような気軽に読める雑書として、さだまさしの『やばい老人になろう』(2017年9月 PHP研究所刊)もおもしろかった。「やんちゃでちょうどいい」という副題が付いている。本書の中に出で来る永六輔や小沢昭一といったさだまさしの先輩に当たる人たちは、老人の世間知と意見を語る達人だった。やかまし屋の隠居のおじいさん、という役どころを見事に果たしながら、ユーモアや余裕を失わない、気づかいのやさしさも持っている、黒沢監督の映画『椿三十郎』の昼行燈の家老のような存在がいれば、無駄な血が流れることもないし、時間を無駄にすることもない。もめごとの解決のための落としどころを知っている、ということで、自浄作用というのは、そういう高度な芸当のできる知恵を持った老人の仕事のはずだったのだが、近頃はそういうことのできる本物の物知り、訳知りの「老人」が政界にも官界にもいないから昨今の国会のような体たらくとなるのであるとは思うが。

 ついでに書くと、ビルマもたぶんそんなところだろう。長い間の軍政が人材の育成を阻害したために間に立って調整弁となる階層がいないから、ああいうことになるのだ。そういう意味で、黒か白か、右か左か、というネット言論の場などで決着をつけようとする態度は、政治的行動としてはあまり上等ではない。そこには政治はない。

 議論の調整というのは、河合隼雄と鷲田清一の対談『臨床とことば』によると、「やっているうちに、だれがしゃべったか、だれの話をだれがしているのかわからないうような感じになってきたとき。そういうときはディスカッションがうまくいくんです。」というところがある、と。こういう言葉を子供たちには教えていく必要がある。へたな「ディベート」は有害無益であるとは、最新の教育研究者の著書にも述べられているところである。

「日本文学」今月号

2021年03月14日 | 大学入試改革
 日文協の「日本文学」の今月の特集は、国語科教員は必読と思う。
 寄稿している野矢氏の言う事はよくわかるが、とても視野が狭い。私も野矢氏と同じく「国語」は言葉の運用の仕方や、文章と本の読み方を教える科目だという立場だけれども、野矢氏には現場で高校生たちと日々接している先生たちにもっとサーチしてからものを言ってほしいと思う。これから「文学的」随筆や小説が排除された、実用文だけの「現代の国語」を教わることになる、一年生で二単位しか国語の時間がとれない商業高校や工業高校の子供たちの身にもなってみてはどうかと言いたい。

※追記 ここに指摘したことは、すでに現実的に現場では困ったことになっていて、神奈川県の教育委員会は、必修の「現代の国語」と「言語文化」を履修したあとでないと、「古典」や「論理国語」などは履修できないと言っているため、一年でも二年でも二単位しか確保できない学校の生徒は、二年次に「古典」を履修できない、三年次に「古典」そのほかの科目を無理に選択させるのはむずかしいので、そうすると必修科目を履修したあとの積み上げの科目の選択の幅が大幅に限られてしまうということである。頭の固い教育委員会の姿勢に、現場では絶望がひろがっている。

※ この記事は、追記を足して2021年12月11日に復活しました。

『3653日目』

2021年03月08日 | 現代短歌
 今月の「うた新聞」が届いた。吉川宏志が、巻頭評論で十年という言葉で震災と原発事故の問題に区切りをつけてしまおうとする動きに警戒したいと述べている。確かにそうかもしれない。この十年ほど、虚偽の言論が世間を堂々と押し通るという事例が多くありすぎた。
 以下に震災十年目の区切りということで刊行された〈塔短歌会・東北〉震災詠の記録という副題のつけられた『3653日目』という本についてコメントしたい。

  水が欲し 死にし子供の泥の顔を舐めて来清むるその母のため
          柿沼寿子『東日本大震災の歌 合同歌集』より

 読んだ瞬間に涙が噴き出すような気がする歌で、こういう直接的な歌の持っている意味は消えない。その一方で、次のような歌に私は根源的な疑義の提示というものを読み取る。

  復興を加速させてくその先に何があるのか幸福、なのか?   
          井上雅史
  ラジオから追悼曲ばかり流れてるおわりに向かうこの国だから
          同

 これは復興に尽力している人たちに文句を言っているのではないのだ。詩歌は最大公約数的な意見を代弁するためのものではない。どうして「おわりに向かうこの国だから」と言えるのか?それは、「これだけの被害とその後の廃炉作業の困難を見ながら、どうして原発を再開できるのだろうか?」というような思いを噛みしめているうちに発せられた言葉であるだろう。希望を語る言葉ばかりが行政やマスコミの示すものとして飛び交う。しかし、絶望を語る言葉の方が、よほど人の心に届くということはある。それが詩歌の存在理由というものだ。

本集には、現実を厳しく静かに見つめる立場で書かれた言葉がみっしりと詰まっている。

 本当は行くのが辛いと言ひつつも横顔美しき語り部タクシー
          大沼智惠子

 「災害の映像が流れます」的な注意書きなく映画は続く
          逢坂みずき

こういう人の心の持つ痛みに触れた歌を共有することを通してしか実現できない世界というものはある。

  分かちあふ水も震へてありし日のまたそれぞれの三月を行く
          小林真代
 
これは震災の三年後の歌。被災地の人にとって、ずっと三月はこのようなものであり続けるのだろう。でもこの歌には、何か明るさがある。三句目の「の」がやや落ち着かないのだけれども、まさにこの歌の調べのように宙吊り感を残したまま、「またそれぞれの三月を行く」と続いてゆく生活のリアルというものが示されているのだ。