さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

あらはなる生おもむろにしづめつつ草木國土冬に入りゆく    島田修二

2019年11月23日 | 歌を一首引いてから
 週に一度ぐらいのペースで、歌集評と感想の中間ぐらいのテーストの文章を出していこうと思って書いていたが、行き詰ってしまった。更新が滞っているのに、このところアクセス数は増加していて、気にかけていただいているのに何も書かないのは、申し訳ない。

それで、これからしばらく、短歌一首を引いて何かを言う、というようなかたちをとってみたいと思う。かまえて何かをのべようと思うから息が切れてしまうのだということに気がついた。次の歌は、額に入れて自分の部屋の壁に飾ってあるものだ。まず、これから始めることにする。

   あらはなる生おもむろにしづめつつ草木國土冬に入りゆく    島田修二゛

「あらはなる生」というのは、欲望や意欲が旺盛な時期の生、ということである。青年期を過ぎてばりばり仕事をする時期に誰もこんなことは思わない。人生も半ばを過ぎて、はじめて人はこういうことを思うようになるのだろう。

「あらはなる生おもむろにしづめつつ」。そうなのだ。冬は一気に近づいてくる。予想していたよりもずっと早い。「しづめつつ」は、書では「しつめつつ」と濁音の点は書かれていない。折々見上げては、自身の年齢と重ねてみるのである。

「草木國土冬に入りゆく」。なべての「そうもくこくど」、「くにつち」が冬の相貌に変化してゆく姿は、壮絶と言っていいような、激しさと猛々しさを伴っている。でも、いま私の前に拡がっている草木の枯れてゆく野の姿には、何かやすらぎのようなものを感じさせるところがある。それがなぜだかは、わからない。私が滅んでゆくことと、季節の進み行きにつれて、枯れがれてゆく木の葉や草木の様相は、同じ様な私の生それ自体の消尽をも肯定するかのようなのだ。

 ついでに。さっきはアイザック・スターンのモーツァルトのバイオリン・ソナタをかけてみた。ピアノは、イェフィム・ブロンフマン。包容力のある、安心して聞けるつややかな音色だ。いまテレビでは、羽生結弦の会見の声が聞こえている。神技に近いところまで磨き上げている演技に、あらためて感心した。

このあとで、FMシアターで、あらいまさみ作、いけだしゅうじ音楽のラジオ・ドラマ「エンディング・カット」を聞いた。語り手の女の子役が、あしだまな、その父役が、さとうりゅうた、病で亡くなってしまう母親の役が、ひろすえりょうこ。

 FMのラジオ・ドラマと言えば、いまから四十年以上前の、別役実作、武満徹音楽の「地下鉄のアリス」が忘れがたい。アリス役はハスキー・ボイスの淺川マキ。私は受験勉強のさなかの高校三年生だった。

 さらに。木内みどりが亡くなったという記事に驚いた。うっかりして、はじめのうちは木之内みどりとまちがえていた。こちらの方のみどりさんは、私が少年の頃から雑誌のグラビアなどで親しんでいた覚えがある。清楚な感じの美少女だった。


原田千万歌集『嬬恋』

2019年11月04日 | 現代短歌
 天草季紅さんらが出している『さて、』という雑誌がある。そのなかに原田千万歌集『嬬恋』から抄出したものがのっていて、読んでみると実にいい。本体の歌集の方は一度見た覚えがあり、その時には、さほど強い印象を受けなかったので、ちょっとめくっただけでそのままにしてあった。選出したのは天草季紅さんであると聞いて、なるほどそういうことか、と頷いた。何年ぶりかでお会いした際に、雑談の間にそういう話題が出たのである。それを書き写してみる。

  雪霏々と降りしきる見ゆ冬の蛾に羽なきもののあるを聞きつつ

  さよならと言ひてしばらくとどまりぬいつたい誰に別れきたるか

  異端ならずまして正統ならずかきくらし降る雪のなか独りありたり

  鳥の屍のなかにも空があるといふいかなる鳥がその空をゆく

  いくたびか霜のあしたを越えたれば蝶は襤褸といふばかりなり

  森ごとに鬼が棲みをりわがつひのすみか信濃をつつむ朝霧

  ゆゑもなきかなしみあれば樹の下に坐せりふたたび鬼となるべく

  なにものも見えねどふかきゆふやみに雪踏む音が遠ざかりゆく
  
  嬬恋のさくら花びらふりしきるゆふぐれ妻も語らずありき

特に四首目と、七首目以降の歌が、いまの私には心にしみる。ふと思い立ってキース・ジャレットのShenandoahを聞きながら、これを書き写した。

どういうところに共感するかというと、この頃私自身の書いたものを思い返しながら、あれは文学になっているのかな、なりきらなかったのかな、と反問することが多々あるからで、自分なりに力を尽くしてきたことではあるけれど、「異端ならずまして正統ならずかきくらし降る雪のなか独りありたり」とつぶやきたくなる瞬間は、私にもあり、「ゆゑもなきかなしみあれば樹の下に坐せり」という時も同様にある。同じように「樹の下」ではないが…。ある年齢になれば特に、ものをつくる人間は一様に孤独を強く感ずる時がある。

しかし、「鳥の屍のなかにも空があるといふいかなる鳥がその空をゆく」という歌は、たぶんシャイな作者の人柄を感じさせる控えめな言い方だけれども、ヴィジョンというものを持って生きることへの夢を、鳥のうちなる空に託していて感動的だ。