さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

助動詞「けり」のこと

2020年10月31日 | 古典文法
※2014年に同人誌「無人島」に書いた文章がフォルダーにあったのを見つけて、ひさしぶりに読んでみたら自分でもけっこうおもしろかったので、以下に再掲する。
 この四月から勤務先が変わることになり、また高校の古典文法を教える必要が出て来た。三年間務めた学校の二単位(週二時間)の国語の授業では、古典文法を扱うことはできなかった。それで、錆びついた古典文法についての知識を一新する必要を感じて、にわか勉強を始めた。

管見にすぎないが、私が推奨したいのは小田勝著『古代日本語文法』(おうふう・二〇〇七年)である。この本は、現在の世界の言語学の共通の術語であるテンス(時制)、アスペクト(局面)、ヴォイス(態)といった概念を用いて、これまでの古代日本語に関する諸説を公平かつ客観的に参照しながら書かれたコンパクトな文語文法総覧である。

内容は、第1章・古代語文法の基礎知識、第2章・動詞、第3章・述語の構造、第4章・時間表現、第5章・文の述べかた、第6章・形容詞と連用修飾、第7章・名詞句、第8章・とりたて、第9章・複文構造、第10章・敬語法、参考文献、出典一覧、索引となっている。この章立てを見ただけで、勘のいい人なら、日本語の主語をめぐる議論や、「は」をめぐる諸説が、うまくまとめられているらしいことが予想できるだろう。本書は、従来の「文、自立語、付属語、敬語表現…」と並んでゆく高校古典文法の教科書の章立ての定型的なパターンを踏襲していない。品詞偏重ではなく、構文論を中心とした解説の姿勢が一貫しているのである。

特に助動詞に限っていうなら、受身の「る」「らる」は、第2章のヴォイス(態)の項で説明され、時間に関係する「つ」「ぬ」「り」「たり」「き」「けり」は、第4章の時間表現で説明され、その他の助動詞は、第5章の「文の述べかた」の章で説明される。文についての有機的な理解に乏しい知識の列挙にすぎない古典文法の教科書とは、根本的に発想を異にして編まれている。さらに「とりたて」の章では、先に副助詞の「ばかり」「のみ」「まで」「だに」「すら」「さへ」を扱い、係助詞の説明は、そのあとになされることになっている。

係り結びの有無が、古代語と現代語を分かつポイントであるというのは、『係り結びの研究』における大野晋の言葉で、だから係り結びについて理解することは初学の者にとって大切なのだが、従来の古典文法の授業では、それゆえに輪をかけて他の文の性質についての理解を後回しにして、性急に「ぞ」「なむ」「こそ」「や」「か」の係り結びについての説明を展開することが多かった。そこでは、「も」や、「は」についての説明は、ほとんど後景に退いてしまっていた。本書では、「ぞ・なむ・こそ」に先立って「は・も」が説明されるのである。私は、本書を参照することによって、ルーティンワーク化した古典の授業や説明のありかたに反省を促された気がしている。

「むかし、男 あり けり。」の「あり」は、独立動詞だが、「時は 五月に なむ あり ける。」の「あり」は、補助動詞である。この補助動詞の働きをする「あり」が、動詞に付いて「咲き・あり→咲けり」から「り」ができたというような説明すら、古典文法の教科書には書かれていないのが現状である。補助動詞の「あり」の例を本動詞の「あり」としてうっかり説明してこなかったかどうか、過去を顧みると慄然とする。
「来(き)・あり」から「けり」ができ、「て・あり」から「たり」ができた。「あり」が「む」に上接して「あら・む」から「らむ」ができた。こういう「ラ変型」に活用すると漠然と説明していた助動詞について、まとめて「あり」とのかかわりの中で説明するということを今後は心がけたいと思った。文法を学ぶ(教える)とは、文法的に考えることを学ぶことである。そういういきいきとした言語への関心を呼び起こさないような知識は、たしかに文法ぎらいと知識の剥落をもたらしてしまう。

 もう一冊は、山口明穂著『日本語を考える 移りかわる言葉の機構』(二〇〇〇年・東京大学出版会)である。同書では助動詞「けり」が、「明けん年ぞ五十になり給ひける」(「源氏物語」乙女)というような、一見すると「未来」のことをあらわす内容の文に用いられている用例が検討されている(「未来」という説明はむろん誤り)。
たとえば「田子の浦ゆ打ち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」(「万葉」三一八・山部赤人)という歌について、ここで「ける」を「伝承回想」で「雪は降ったのだそうだ」ととるのは変だから、従来こういう場合は「詠嘆」とされてきた。しかし、それはあまりにも場当たり的な説明ではないかと言うのである。「「けり」で捉えられた内容は、現在、目の前に存在する、「けり」にはそういう意味があることを考えるべきである。」と山口は「詠嘆」説を批判する。
学説史からみると、山田孝雄が『日本文法講義』で「けり」について「現に見る事に基づきて回想する」と述べたのが最初である。例歌として山田孝雄は「八重葎茂れる宿の淋しきに人こそ見えね秋は来にけり」をあげた。「過去の栄光と現在の衰退、その後者の現在の状況だけを和歌に詠み、そこから過去の何かを想像させる。」山口はこれを受けて、田子の浦の歌では、「山田氏の考えに従えば、「雪は降りける」が現実となる。そのとき、問題は何を回想したかである。」とのべ、「当時、冨士山は高い山であり、常に頂上には白く雪が積もっていると思われていた。」(略)「『風土記』にある話を赤人が回想していたかどうかどうかはわからないが、白く雪の積もった富士を見て、話に聞いていた通りに、この山には常に雪が降るという過去の記憶が呼び戻されたと考えることができるであろう。つまり、この歌での「けり」で回想されたことは、冨士についての話であると解釈すれば、「現に見た事に基づき回想する」という「けり」の機能が理解できることになる。」と山田説を敷衍してゆく。

つまり、私なりに訳すと、本当に富士の高嶺には聞いていた通りに雪が降り積もっているのだ、というような意味だということになる。

先述の小田勝の本では、この助動詞「けり」のはたらきについて、テンス的意味として「①過去に起こって現在まで持続している(または結果の及んでいる)事態、②発話者がその事態の真実性に関与していない過去の事態」というようにまとめ、認識的意味として「③気づかなかった事態に気づいたという認識の獲得(気づき)を表す」と通説をうまく交通整理している。この①の説と山口明穂が敷衍してみせた山田孝雄の説では、過去と現在の矢印が逆向きになってしまっているように私には思われる。③は「詠嘆」の「けり」の上手な言い換えのようなところがある。

山口明穂は、「現に見ている事を基本に回想する」という山田孝雄説を修正拡大して、「けり」の本義を「過去の事態を思い起こし、それを現在につなげる」ものだと説く。この「けり」は、「過去を思い起こす心情が現在につながるというのであって、その内容は、話し手の心の動きである。」だから、小田の①説のような「けり」のとらえ方には賛成できないし、二つの説は「似て非なるものである」と山口は言う。「けり」は助動詞であって語としての自立性がないから、「過去の事態」といった具体的な内容はふさわしくない、というのである。さらに山口は「けり」のテンス的なとらえ方そのものを批判して、「日本語の助動詞は、話し手が、前に述べた内容に対して、どう意識したかという、話し手の心情を表す語であるから、「けり」が付けば、全体が過去の意味になるなどの捉え方はするべきではな」いとのべている。

「けり」の意味を「詠嘆」と呼ぶ国文学の悪しき慣行については、藤井貞和も近刊の岩波新書の『日本語と時間 <時の文法>をたどる』のなかで厳しく批判している。竹岡正夫や北原保雄の説を援用しながら、「けり」を「時間の経過を示す」、「伝来の助動辞(ママ)」というように説明しようとする。現代語訳として「~テキテアル、~タトイウ、~タコトダ、~タノデアル」を当てる。だから、私なりに自戒しつつまとめると、「けり」の訳として「~したことよ」というような意識した詠嘆調は、あまりやりすぎない方がいいということになる。

ついでに、藤井の本はなかなか刺激的でおもしろいのだが、この本のなかにある助動詞の関係を三角錐の図形で説明する章のアイデアのもとになっているのは、小松光三の『国語助動詞意味論』の中にある三角形の図である。ヒントを得たことを記すべきではなかったか。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿