さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

加藤史郎版画展

2022年06月04日 | 美術 展覧会 日本洋画 版画 
 現代日本の著名な版画家ならきっと名前を聞いたことがあるにちがいない、名うての銅版画の刷師である加藤史郎さんが、御茶ノ水の東京医科歯科大学の斜向かいにある画廊、アートギャラリー884で今日から個展を開いている。インクから自作したという、加藤の「黒」と言って定評がある深みのある黒インクを惜しげもなく盛り上げたドットの刷り部分は、乾くまでに何と半年もかかったのだという。その作品のうちの一点は、まだ三点しか出来上がっていないから、あまりたくさん注文されたら困る、と苦笑いしておられた。

案内状に文章を寄せている北川健次氏は、「先日工房で刷りの前の版画の原版を見せてもらったが、昨今の版画の傾向が浅く薄くなっている中で、流れに抗するかのように版の腐食は実に深く、マチエールへの挑むような意欲は極めて斬新に私には映った。」と書いておられる。

アメリカの大学に教えに行ったこともあるという加藤さんが自分で開発した技法による腐食の原版も今回は展示されている。あれは銅版画を志す人たちには必見のものではないだろうか。この展覧会は、必ずやその道をこころざす人たちの交歓の場になるにちがいない。作家が画廊に滞在している日は、今日はのぞいて5、7、9、11日、8日14時から、12日15時まで、とのことである。教えを乞うてみたい若者は行くべきだ。

加藤さんは、版画の刷りを本業とする一方で、長く高校の美術の先生を勤めて来られた。しかし、案内状を職場に掲示したところ、あまり反応がなかったという。加藤さんを取り囲む日常の職場環境は、芸術とは無縁の世界なのかもしれない。さびしいことである。加藤さんは自分を宣伝しない。幾多の著名なプロの作家の作品を手掛けながらそれを自慢したことは一度もない。

確かな技術とそれに裏打ちされたインクの色、その発揮する表現効果、そこにしか版画芸術の立脚する基盤はないはずであり、加藤さんはそこに自分なりの作家としての自負をこめて今回の作品を展示している。その作品の風合いは、意外に明るく、清明で、晴れやかである。建物と自然とが四季の時間の中で響き合うような一作が、今日の私には目にとまった。

ある作品についての「このドットは時間なのです。時間をあらわしている。」という作者の解説が、私にはよくわかった。この展覧会の会場に流れている明るい時間を、私の知人には共有してもらいたいと思って、この文章を書いている。

この戦争の時代にも、永遠に通ずる時間は流れ続けているのであり、会場に二点だけ展示されている石に貼り付けられた版画を包むクリア・ケースの箱は、滅びのなかに置かれた人間の生の意味を語っているように思われた。

版を腐食させ、その腐食を中止させることによって成立する版画というものの持つ意味を加藤さんぐらい実感して生きてきた人はそんなに多くはいないだろう。だから、加藤さんにとって版画とは、つつましい時間の化石としての存在物でもあるのかもしれない。