さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

瀬戸夏子・このごろ亢奮されられる言語の事象について                     さいかち真

2016年12月26日 | 現代短歌 文学 文化
角川「短歌」の時評に瀬戸夏子が起用されている。これはすごい。それで、私が淺川肇さんのやっている雑誌「無人島」に最近載せた文章をここに転載することにしたい。 

 このごろ亢奮されられる言語の事象について 
                   さいかち真
この頃は若い歌人の過激な歌集が評判である。瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.』。それから井上法子『永遠でないほうの火』。どちらも、こいつら本気だ、と思わせる捨て身の迫力を持っている。これを出しているのは、書肆侃侃房の田島安江社長。田島さんは最近、劉暁波詩集『牢屋の鼠』(田島安江・馬麗 訳・編)を刊行して「朝日新聞」の夕刊に紹介されていた。劉暁波は、私は不明にしてほとんどその著作を知らなかったが、ノーベル平和賞を受賞した中国の獄中詩人である。田島さん自身が詩人であり、その活動は出版も含めて志の感じられるものである。

 井上法子の『永遠でないほうの火』は、タイトルとなった一首がすでに名歌の風情を漂わせていて、私はこれを今年の収穫の一冊としたい。こちらは歌壇的にも支持されるはずである。しかし、真の過激なチャレンジャーは、私は瀬戸夏子であると思う。一時期の椎名林檎を思わせる(※この一句削除いたします。2018.3.10)、詩的言語と心情のアイロニーを機関銃のように炸裂させる一匹狼。短歌の言語場にあらわれた真正の詩的冒険者。

近年の服部真理子や吉田隼人が賞を受賞した時点で、現代短歌の表現線の先端が、大きく動いていることは実感できたのだが、瀬戸夏子と井上法子の登場をもって、新々前衛短歌運動とでも言うべき、鮮烈な修辞的冒険を試みる若手の一群が、ほぼ出そろった観がある。あとは、これをどう熟成させ、思想詩としての短歌の歴史に接続し、人生の箴言詩として高めてゆくか、個々の作家の力量が問われている。
作品を見てみたいが、瀬戸夏子の作品は、以前読んだ時と、また取り出して読んだ時と、そのつどいいと思う作品が異なる。それだけ、名歌性や、秀歌性を犠牲にした作品が多いのである。つまり、そんなことはカケラも心配しないで歌を作ろうとしている。

章題の「私は無罪で死刑になりたい」とか、「東京という死の第二ボタン」とか、「純粋な勝負は存在しない」とか、何てまっすぐ獰猛なんだろうと思ってしまう。「私は無罪で死刑になりたい」というのは、罪科なくて配所の月を見む、という中世の日本人の美学を現代風にアレンジしたものかもしれず、「東京という死の第二ボタン」があるなら、第一ボタンは何だろうか、などといろいろ考える。こういうタイトルは、死の周りをぐるぐる回っている。第一ボタンはたぶん、国会か首相官邸にある。つまり、この世の秩序。王様の持ち物の世界だ。第二ボタンは、そこから相似的にずれている。そこで「現実」を「描写」するのではなく、言葉によって「現実」を修辞的に平行移動するのだ。死の方角に少し引っ張られながら。その時に普通は、都市の血汁が流れ、ビルの内臓の液体がしみ出すのだが、瀬戸夏子の言葉はどこまでも乾いている。都市も、高度な自意識も、SF小説の空間のようなバーチャルな観念世界にいったん変換し直されているのだ。そうして瀬戸夏子は、真の意味での「抒情の脱色」(私の造語)を成し遂げた。奴隷の韻律と言われて蔑まれた戦後の短歌の負債を一度に返してしまった。

 そっくりなディズニーランド操縦しマフラー編んだ声を椅子にし          瀬戸夏子

これは現実の「ディズニーランド」に抒情してしまう歌では、ないのだ。「そっくりなディズニーランド」として一度変換し直されているのだ。現実に係数を掛けているのだ。そうして、私は次のような歌の絶望の深さに驚くのである。

 未来の声がとどく範囲からではだめきれいな心を与えすぎてた           瀬戸夏子

通常の場合に人は、「未来の声がとどく範囲から」希望を語るのである。それでは「だめ」というのは、そんなものは甘いからである。宗教性の浮薄な部分をかっこでくくって批評してしまっている。少しあぶないぐらいに純粋なのである。そこから先には、刃物のようにきらめく本物の願望しか残されていないことになる。それだって「きれいなこころ」すぎたという自己批評の言葉に引き戻されている。これは「現実」の懐疑であるだろう。だから瀬戸の歌に「現実」がないのではない。絶望をウルトラ化して宗教的感情までも批評の俎上に上げる方法が、あまりにも奇抜で高度な自意識の操作に立脚しているために、「現実」を僭称する人々にわからないだけなのだ。


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