さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

加藤治郎歌集『環状線のモンスター』

2021年11月23日 | 現代短歌
何番目かわからなくなった。これで一応の区切りとなる。

日めくり詩歌 短歌 さいかち真 (2011/1/20)
投稿日:2012年01月20日 カテゴリー:日めくり詩歌(月~金曜更新)


環状線出口はなくてとりどりの小さな鏡に目が映っている   加藤治郎

光線のように飛ぶ血を浴びながらわたしはしんそこからっぽだった

   加藤治郎歌集『環状線のモンスター』(平成十八年七月・角川書店刊)

一首めについて書く。むろん、環状線に出口がないということはない。出口がないというのは、この日常の現実のことである。「とりどりの小さな鏡」は、ひとびとが手にしている携帯電話や、新品の電子機器のことだろう。その、おのおのが見ているものは、画像だけではなく、その反射板に映っている自身の顔なのかもしれない。がしかし、それは見えないし、気づかれないのだ。普通の人が思いもよらないところに目をつけた、鋭い風刺的な感覚のひらめく作品である。

二首めは、近年続けて起こった刃物を用いた殺傷事件にかかわりのある作品だろう。犯人のからっぽさを捉えつつ、その事件を耳にする私の心も同様にむなしい諦念のようなものに満たされている。それは、犯人のからっぽさの一部を、私も同じ時代を生きながら共有しているからだ。

作者がここにとらえているのは、現代の都市社会における不安である。長く続く不況のせいもあるが、朝の通勤電車に押しあいながら乗っていると、車内を支配している恐ろしいほどの不機嫌と絶望の空気に圧倒されるような感じを受けることがしばしばある。その気配や気分の底に伏在するマグマのようなものを、加藤の作品はとらえようとしていると言えるだろう。

溶けそうな四角いマーガリンがあり怒鳴りあい喚きあい抱きあう
青いテントにすべる花びら項たれて自爆の順にならぶんじゃなく

ここには、ゆえ知れぬ激情の言葉がある。まるで歌のアクション・ペインティングのように、キャンバスに叩きつけられるようにして言葉が踊っている。加糖治郎は、イメージによって自分や他者の内面にあるものを掘り起こす言語的な実験をずっと続けて来た。マーガリンが何で怒鳴りあったり、喚きあったりするのか。それを見るまなざしが、苛立ち、震撼されているからであろう。たぶん詩的な薬味のインスピレーションの素は、アメリカの小説や映画からもらっている。でも、その情念の発出源は、この日本社会である。二首めの「項」は、「くび」と読んで「うなじ」の意味をあらわす。「自爆の順にならぶんじゃなく」という句は、残酷な響きを持っている。

こうした作品に反応するのは、読者の心の内側に蓄積された鬱屈した情念である。そういう意味で、読者が加藤の微量の毒が盛り込まれた作品に接することによってカタルシスを得るということは、あるだろう。こちらの心が傷つき、飢えている時に、加藤治郎の作品は一気に読者の深部に届く。このサラリーマンのいらだちと、うらみに満ちた都市においては、誰もが心の底にモンスターを飼っているのであり、その集合化した無意識のモンスターは、表現者によって鎮められなくてはならない性質のものなのかもしれない。

タグ: さいかち真, 加藤治郎

川島喜代詩のうた

2021年11月23日 | 現代短歌
日めくり詩歌 短歌 さいかち真 (2012/02/02)
投稿日:2012年02月02日 カテゴリー:日めくり詩歌(月~金曜更新)

発電炉しづめしみづがおもおもと波押しわけて海にもどりゆく

川島喜代詩『星雲』(昭和五八年刊)

掲出歌は、今度の原発事故とは関係がない。でも、これを読んだ時は、はっとした。いつの、どこの出来事か、私はわからないが、まるで昨年のことを何十年も前に見たかのような歌だ。分かち書きにしてみる。

発電炉 しづめしみづが
おもおもと
波押しわけて 海にもどりゆく

こうして見てみると、三句めの「おもおもと」が、まるで一首の真ん中に重石を置いたかのように「おもおもと」して効いていることが、よく分かる。結句の「海にもどりゆく」の八音、この一音字余りが、鈍重な水の動きの活写に効き目を出している。丁寧に読んでみると、言葉の一音一音と、イメージの重ね合わせの妙を感じ取ることができるのではないだろうか。

打ちあげて退きたるのちの沈黙を消してふたたびとどろく波は

静かでゆったりとした、自然の波の動きに同化したような調べを持つ歌である。読みながら、その情景を思い浮かべる。これも分かち書きにしてみる。

打ちあげて、退きたるのちの 沈黙を
消して ふたたび
とどろく波は

「沈黙を/消して」と、「ふたたび/とどろく」というように、二回連続して句またがりになっている。その声調は、まるで退いた波がふたたび高まって、どおんと砕けるさまを写したかのようだ。これが言葉における「写生」ということである。作者は、佐藤佐太郎門の歌人である。この人は、佐太郎詩学の神髄をつかんだ一人であろうと思う。

たはやすく連帯をいふこと勿れ人の嘆きのひとざまならず
しづかなる午後と思ふに奥入瀬のみづに捲かるる落葉かぎりなし

「たはやすく連帯をいふこと勿れ」というのは、同情する心が深いからこそ、こう言うのだ。きまじめな倫理的な歌だと思う。この歌のようなことを言うと、今はすぐに、そんなことはないといった子供の感想の言葉が返って来る時代だ。「人の嘆きのひとざまならず」という場所で、じっと立ち止まることも大切なのである。

私はあの地震のあと、東日本の地名を読んだり聞いたりするだけで、微妙に心がゆらぐようになった。いま二首めの歌の奥入瀬という地名が、なぜかとてもいとしく感じられたので、引いてみた。

タグ: さいかち真, 川島喜代詩

喜多昭夫歌集『早熟みかん』

2021年11月23日 | 現代短歌
日めくり詩歌 短歌 さいかち真 (2012/02/15)
投稿日:2012年02月15日 カテゴリー:日めくり詩歌(月~金曜更新)

「来ないで」と念じても駄目来てしまふ奈良公園の鹿のやうなもの

喜多昭夫歌集『早熟みかん』   (二〇一一年十二月刊・私家版)

今回はユーモアのある歌を取り上げたい。私は奈良公園で鹿せんべいを持っていて、大きな鹿に急迫された覚えがある。これを読んで思わず吹き出してしまった。

この本は年末にポストに投函されていた。はじめに表紙の上の段の「早熟」という文字が目に飛び込んできた。この人は故春日井健のお弟子さんで、師についての著書もあるから、こういうタイトルの本を出すような年齢ではないはずだ、と思いながらよく見ると、表紙に「早塾蜜柑」とあって、ローマ字で「WASE MIKAN」と読み仮名がつけてある。ソウジュク、でなくて良かった。それで目次を見ると、歌集の題となった「早熟みかん(OLカナ 残業のおやつ)」という章が目についた。ん? これは、作者が「OLカナ」に成り代わって詠んだ一連ということらしい。短歌に詳しい人なら、ただちに穂村弘の『手紙魔まみ、夏の引越し(うさぎ連れ)』を連想するだろう。その一連の中に右の歌がある。でも一連には、0Lと言うよりやっぱり中年男ふうの歌もまざっていると思った。別の連から引こう。

投げつけられたウルトラマンが倒れこむ蜜柑畑をまきぞへにして
象が踏んでもこはれない筆箱を持つ友だちよ 嫉妬のはじめ
「ヤバくね? ドーナツの穴を覗けばアリスがお辞儀」

作者は一九六三年金沢市生まれ。ウルトラマンの歌は、旧仮名の使用が、おかしみを増している。「象が踏んでもこはれない」というのは、ずいぶん昔にあった筆箱のコマーシャルのコピーである。あれは、私も強烈な印象がある。教室で実際に買った子が、それを足で踏んで試してみたりしていたような覚えがある。当時の筆箱は、鉛筆が一ダースも入れられるような大きくて角形のものだった。そうして比較的安価なセルロイドの筆箱は、たいていすぐに端から割れて駄目になってしまうのだった。

現代短歌には、江戸時代だったら狂歌と呼ばれていた要素を持つものが入り込んでいる。

中年のわれはなかなか使へない色鉛筆の白に似てゐる
つれづれに気泡緩衝材つぶしついでに僕もつぶしてしまふ
切り株が頭づの中にある夜である 母によく似た鬼が火を焚く

この文章の前半に引いたような歌を作っている時には、自卑と、おどけが、この作者の身上なのだが、テンションを少し下げると、おふざけだけではない、哀愁が感じられる抒情歌となる。

ぶらんこに揺られてゐるのはゆでたまご 落つこちさうでも楽しさう

著者が発行している歌誌「つばさ」に載ってもいた最新作。こういう童画のようなイメージと言葉の使い方に、作者の叙情質の一番いい部分が出ているのだが、それだけで我慢できないのは、いたずらっ気が旺盛だからだろう。作者が短歌関係の話題にくわしいせいもあるが、集中には、歌壇の内輪のごく一部でしか受けないような歌も多く目についた。それは私はあまり支持しないが、こういう歌はいいと思う。

朝詰みの苺をそつと手作りのケーキの上に置きて去にける
 ※「去」に「い」とルビ。 11.25訂正しました。

これは先年夭折した笹井宏之への挽歌で、うまい歌だ。上に示した二首からもわかるように、これだけ高度な言葉の技術があるのに、そのハケ口が見つからず、一冊を通してまとまった説得力のある美学のようなものを生み出すことができずにいるという印象を持つのは、穂村弘の連作の骨格を借りたりするからだ。もっと古今東西の古典や、世界の民俗地理の知識などを参照しながら広いところに出ればいいのに、と思う。余計なものを削ぎ落とすのは、今後の作者の課題ではないか。

タグ: さいかち真, 喜多昭夫

米口實のうた

2021年11月23日 | 現代短歌
日めくり詩歌 短歌 さいかち真 (2012/02/28)
投稿日:2012年02月28日 カテゴリー:日めくり詩歌(月~金曜更新)

朝ごとに厚き重石をこじあけて黄泉がへりくる我のししむら
 「重石」に「おもし」、「黄泉」に「よみ」とルビ。

婚姻色の天魚を割さけばはらわたは渓のさくらのいろなして照る
  「天魚」に「あまご」とルビ。

花嫁のごとくひそかにかがやける夜の桜樹の下に立ちゐき

   『米口 實歌集』(二〇一一年十一月・砂子屋書房刊)

石塚の下に葬られている死者がよみがえって、うつつの女人と一夜を過ごすという幻想を歌った一連から引いた。作者は大正一〇(一九二一)年生まれ。この一連をおさめた歌集『流亡の神』は、平成十九年刊。古代の王者の物語に仮託しながら、高齢の作者自身の復ち返りの幻と、浄化され、理想化された追憶の断片が、自然の美しさへの賛仰の思いを込めて混然と重ね合わせながらうたわれている。

輝きのいのち噴きあげ春ごとにおとろへゆくかわれも桜も
息ふれて恥ぢらふごとくひらきたる西行塚の花もまぼろし

作者にとって、花は一瞬のエロスを象徴するものである。また、集中の老いたる神の形象は、そのまま常住座臥死を意識する自らの姿とだぶって、存命の悲しみを伝える。そこに戦争体験の記憶がさしはさまれて、米口の作品をさらに重層的なものとしている。

戦ひの最中に鳴きゐし野の鳥のこゑなど人は忘れゆくべし
  「最中」に「さなか」とルビ。

フラッシュバックの残像のやう殺戮とみじかい愛の思ひ出などが

「戦ひ」の記憶は、加齢とともにきれぎれになってゆく。酸鼻な戦場にひろがっていた空や野原の記憶と、はじめて性愛のよろこびに触れた思い出とが、ある哀切さをともなって自分のなかに蘇る。このように、人は人生を生きている。米口實の歌は、生の時間を流れる一瞬の甘美な時をいつくしんでやまないのである。

タグ: さいかち真, 米口實

川口常孝のうた

2021年11月23日 | 現代短歌
日めくり詩歌 短歌 さいかち真 (2012/03/23)
投稿日:2012年03月23日 カテゴリー:日めくり詩歌(月~金曜更新)

空襲警報の解除になりし夏空に忽ちにして閃光走る

鶴見橋を走る閃光落下傘三つが夏の澄み空に浮く

一瞬の閃光と地響ききのこ雲八月六日われ広島にあり

     『川口常孝全歌集』所収(砂子屋書房・二〇一〇年九月刊)

川口常孝の歌集『兵たりき』を私はこの全歌集に接するまで、不覚にも知らなかった。本を開くや、その苛烈な戦争体験と、広島における原爆の惨禍に接して作られた一連に衝撃を受けた。しかし、作者は、ことさらにそれらの作品だけを取り上げられることを好まなかったのだという。繰り返すが、これらの作品がまず引用されるということは、学究として生き、また「壬申の乱」のような創作を行った作者の本意ではなかった。

とは言いながら、これほど徹底的に戦場や原爆の生み出した光景を記録した作品は、またないのではないか。戦争と短歌文学と言うとき、渡辺直己や宮柊二の名はしばしば語られてきたが、(宮柊二に至っては歴史の資料として引用されるまでになっているが)、川口常孝のこれらの作品は、今後もっと読まれなくてはならないものだと私は思う。

作者は、当時広島の陸軍病院の可部分院におり、被災後ただちに救援部隊の一員として現地に入ったのだった。だから、これらの苛烈な描写は、どれも目の中に焼き付けられた実際の出来事の記録にほからない。

きのこ雲消え行くままに降り出でしこの黒き雨われらを襲う
火達磨となりし人体軽々と天空を飛ぶ竜巻に乗りて
重なりてのたうつ人ら何事の起こりしかさえ全く知らず
垂れ下がる皮膚重たげに持ち上げて人間ならぬ人々歩む
どろどろの死体次々踏み越えて至り着くべき所を持たず
爆心地に入り行くことの叶わねば手旗信号さよならを打つ

一連にはもっと凄惨な歌もあるが、それはあえて引かない。最後の二首、これは被爆者の方から聞いた事柄であるが、爆心地に近い所では死体で埋まった道を、死者を踏み越えながら夢中で肉親を探したのだという。これはなかなか人に言えなかったことである、とその方はあえて六〇年以上を経て証言された。その事実を川口は歌にしている。

さらにこの歌集には、日中戦争のさ中に経験した多くの理不尽な出来事や、苛酷な戦場の現実がうたわれている。その作品の価値ももっと顕賞されてよいものだ。

タグ: さいかち真, 川口常孝

菊地孝彦歌集『まなざさる』

2021年11月23日 | 現代短歌
二十二番目。

日めくり詩歌 短歌 さいかち真 (2012/04/05)
投稿日:2012年04月05日 カテゴリー:日めくり詩歌(月~金曜更新)

街を包み込む時霧はときおり手の形脚の形にもなる

妻を眠らせ妻の屋根にはいかな愛憎降り積むならん

 菊地孝彦歌集『まなざさる』(二〇一二年三月・六花書林刊)は、第一歌集『声霜』に続く二冊めの歌集である。しかも第三歌集『彼の麦束』と同時の刊行だ。

 「短歌人」に所属。定型は守っているが、故・高瀬一誌の弟子である。二冊めの本の栞は、三井ゆきさんが書いている。高瀬一誌は、独自の口語自由律の短歌を追究した。自分のこだわりに徹した歌人である。その弟子を自認する人だから、自由闊達でありながら、自分の美意識や価値観を頑固に保持する姿勢も、しっかりと受け継いでいる。高瀬も菊地も、とらわれのないところでものを見る修練を積んでいる。作品には、独特の自己放脱感が漂っており、不思議な世捨て人のような言葉を微妙なユーモアに包んで提示してみせる。

切り通しを振り向けばぽっかりと空いた穴からしばしの声はあり
この道を往くと決めたからにはこの道を往く さびしくてよし

 二冊の歌集のタイトルは、どちらも、この世のどこにもないようなものである。「まなざす」という架空の動詞があるとして、それに受け身の助動詞「る」をくっつけた造語であると著者は「あとがき」で言う。簡単に言うと、「見る」ことは「見られる」ことであり、発語の瞬間に「私」という「他者」が立ち現れるのである。作者には自己同一性の物語は、はなから信じられるものではないのにもかかわらず、妻など身近な人々との関係性の中で「私」は、厳然と規定されている。そこに私の意識のありようとの間でよじれが生ずる。その「よじれ」を詩の言葉として語ることと、たとえば「まなざさる」という奇異な用法を編み出すこととは、同じ動機に基づいている。

 第一歌集の出版記念会の時に、作者がラカン派の精神医学を修めた人であるということを知った。だからと言うわけではないが、たとえをもって言うならば、「彼の麦束」は、必ずや「私の麦束」であろう。もともと私の所有であった「私の麦束」は、ただちに「彼」の所有に帰してしまうのである。そうでなければ、会話も詩も成り立たない。が、「彼の麦束」は、「彼」の所有に帰したと同時に一種の謎と化してしまうのでもあって、「私」は日々その問いかけに答え続けなくてはならないのだ。日々の生活が、そのような苦行を強いて来る。作者においては、それが言葉を介して仕事をする精神科の医師としての日常なのだ。呪文のような歌が出てくる所以である。
 
玄関の正しい閉め方はひしめくまなこを締め出すようにする

 これはまさしく高瀬一誌直系の文体だが、妄念や無意識のかげりを一度に遮断する心術を語っているようでもあり、常住坐臥われわれが囚われている一過性のモラルのようなものを定着しているかのようでもある。

  
睡魔来て通り過ぎたるそののちをきらめけり夜のとほき街角
ゆふぐれの掌を脱けいでしてふてふは身めぐりに添ふ添ひてかき消ゆ

    『彼の麦束』

 第三歌集の方が、苦悩や、生き難い感じが強まっていて、その分歌も理詰めのものが多

くなっているようだ。だから、かえって右のような美しい歌を見ると、ほっとする。でも、この歌にも、「自己」の境界がゆらぐ時間帯に意識を集中して詩を拾うという操作を心掛けている作者の指向は、一貫していると言うべきであろう。

タグ: さいかち真, 菊地孝彦

玉城徹のうた

2021年11月23日 | 現代短歌
二十一番目。

日めくり詩歌 短歌 さいかち真 (2012/04/18)
投稿日:2012年04月18日 カテゴリー:日めくり詩歌(月~金曜更新)

夜空より落ちはなれたる肉の疣われは跳ねゆく舗装のおもてを

    玉城徹歌集『樛木』より

肉をもつものの世界」の章から引いた。一連十首中の九首めの歌で、難解をもって知られる。この謎めいた歌の試解を以下に示したい。

この歌で夜空から「落ちはなれ」たものは、たぶん梅の実や、未熟な柑橘類のようなやや弾力性のある果実・木の実なのだ。そうして、四句めの「われ」は古語で、二人称の意味の「われ(お前)」なのだ。それを初読の際にどうしても、一人称の「われ」として読んでしまうから、またそう読ませるような仕掛けが一首に施されているから、読者は不思議な印象を持つことになるのである。まるで一人称の〈我〉の肉体が、「疣」のように舗装路の上を跳ねているかのようなイメージが、読み手の心に浮かんでしまって消えない。それは、作者が、この「我」・自己存在というものは、そこをはかなげに跳びはねている「肉の疣」に等しいものだと感じているからだろう。

典拠はあるのか。リルケの『ドゥイノの悲歌』第五に、軽業師の姿を「木の実」にたとえている章句がある。

「おお、お前、ただ木の実にしか見られぬような/落ちかたで、未熟のまま/日に百度、皆が組んで育てた軽業の樹から/落ちくるお前よ(略)/(略)/そこからお前は落ちて墓にあたって跳ねかえる、/ときとして一息するにも足りぬわずかのひまに、」(手塚富雄訳・岩波文庫昭和三二年刊)

玉城の修めた教養からして十中八九は、この詩業をもととして右の歌ができていると私は思う。そうすると、舗道を跳ねる「肉の疣」というのは、元のリルケの詩では、大道芸人たちの姿のことである。それを作者は、前後の文脈を切り落として引用し、下敷きにしている。別にそれは読者に気が付かれなくてもよい。一首は、自然観照の詩のような外見をとりながら、みごとに元のリルケの詩が持っていたニュアンスを残存させたものとなっている。手塚富雄の「第五の悲歌」註解には、次のようにある。

大道芸人の姿から、リルケは「(略)われわれ一般人間の、定めない、まやかしの、しかも追われるようにそのまやかしをくりかえしている日常的生存のみじめさを、そこに見たといえるだろう。」

 まるで夜の空から落ちて来たかのように、幹から離れて跳ね返った肉の疣のような木の実、「われ」。初句の「夜空より落ちはなれたる」という、日本語による短詩型の利点を最大限生かした省略のみごとさと、「肉の疣」という生々しい言い方で木の実を言い表したことによる詩的な異化の作用によって、一首は〈肉〉、ハイデッガー言うところの〈現存在〉の嘆きを訴えかける深玄な趣を漂わせる詩として屹立することになったのである。

タグ: さいかち真, 玉城徹

斎藤茂吉のうた

2021年11月23日 | 現代短歌
二十番目。
日めくり詩歌 短歌 さいかち真 (2012/05/01)
投稿日:2012年05月01日 カテゴリー:日めくり詩歌(月~金曜更新)

雪の中より小杉ひともと出でてをり或る時は生あるごとくうごく

 ☆「生」に「しやう」とルビ。

あまぎらし降りくる雪のおごそかさそのなかにして最上川のみづ

   斎藤茂吉『白き山』

どちらも動きのある自然の相をとらえている。一首目は、一本のちいさな杉の木が、寒風に吹かれて揺れるのだろう。二首目は、最上川が、空を暗くかすませて重々しく降り始めた雪のなかを流れている。この歌集のなかには、有名な歌が何十首もあるけれども、右のような地味で目立たない歌のどれもが、生彩を放って息づいている姿は、言いようもなく尊い。老年の茂吉の自然に寄せる思いの深さが、体に響くような感じで伝わって来るのである。

文学好きの(歌人ではない)知友にたずねてみると、『赤光』は読んだことがあっても、『白き山』一冊には取り組んだことがないという人が多かった。

最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片
オリーブのあぶらの如き悲しみを彼の使徒もつねに持ちてゐたりや

こういう代表歌は、むろんみんなが知っている。アンソロジーで読んでいる。でも、『白き山』一冊はいそがしくて無理なのかもしれない。でも、読んだ人は、人生の宝物と言えるような歌を、きっと一つや二つは拾うことができるだろうと思う。

戦後の日本人たち、特に「進歩的」な知識人や詩人たちは、「日本的なもの」への強烈な自己嫌悪にとらわれた。「短歌的抒情」は、「奴隷の韻律」とまで貶められた。そうして、茂吉は文学者として「戦争責任」を問われた。『白き山』には、そういう時代に背を向けて、自然に没入しようとする老茂吉の姿がある。そのあたりの経緯については、岡井隆著『短歌―この騒がしき詩型 「第二芸術論」への最終駁論』(短歌研究社)に詳しい。

岡井は新著『今から読む斎藤茂吉』(砂子屋書房)のあとがきで、「歌人人生の終末ちかく」に「短歌滅亡論」に出会わざるを得なかった「茂吉の悲苦が」ようやく「自分自身が老いの果てに達した今」、「身に沁みて感じられる」と述べている。

タグ: さいかち真

林和清『木に縁りて魚を求めよ』

2021年11月23日 | 現代短歌
十九番目。この歌集の林和清のすごさを、私は忘れない。

日めくり詩歌 短歌 さいかち真 (2012/05/14) 
投稿日:2012年05月14日 カテゴリー:日めくり詩歌(月~金曜更新)

井光、井光、井光いづこぞわれはまた切歯扼腕たる夢見てし
 「井光」に「ゐひか」とルビ。 11.25にルビ訂正しました。

     林 和清『木に縁りて魚を求めよ』(一九九七年十月・邑書林刊)

どこかで一度でいいから、この歌集にはじめて触れた時のおどろきを書いてみたいと思っていた。「井光」というのは、「古事記」に出て来る民の一人だと気がついて読んでもいいし、それを知らなくて読んでみても、この歌の持っている言い知れぬ切迫感と焦慮の念のようなものは、読者に伝わるのではないだろうか。「切歯扼腕たる夢」というのは、作者は前川佐美雄―塚本邦雄という系譜に連なる人だから、その系統の歌人らしい匂いをまつわらせている語彙だが、「井光、井光、井光いづこぞ」という噴き出すような祈りのこめられた一、二句の発語は、紛れもない作者独自の青春の憂悶の言葉として、私の魂をつかんだのだった。初読の際には、「井光」が特定の固有名詞として感受されず、井戸の底より照り返す光が、ゆらゆらと反射して、幾度もきらめきを発しながら立ちのぼって来るような、幻惑されるイメージを持ったのだった。その感じは今も鮮明で、私はこの歌をみると、自分の中に立ち騒ぐ若い頃の悲しみと、青春の自愛の気分の残響を聞き取ることができるような気がする。

タイトルの「木に縁りて魚を求め」るというのは、冒頭の父への挽歌や相聞歌らしい作品を並べた一連の小題として出てくるのだが、現代の日本語で古代詩の形式によって詩を書こうとする事そのものを指す比喩であると言ってもいいし、また、作者のような自由詩も書き得る資質を持った人が、定型詩である短歌を選ぶということを暗示しているのではないかと私は思っている。たとえばこういう歌は、私が今言ったことの証拠とはならないか。

鴬のなみだの氷菓 千年をいち夜のごとく愛し続けよ?
  「氷菓」に「ソルベ」と振り仮名。

「古今集」の春の部の歌を下敷きにして、「ソルベ」と言ったのもしゃれているし、「愛し続けよ」のあとの疑問符は、恋人を愛し続ける、という相聞歌としての意味合いだけではなく、和歌(形式)を千年たっても愛し続けるのか?という問いかけを含んでもいるのである。この章は、古典の情景との対話とも言うべき、二つのゴシック体で組まれた連作を含んでおり、そうした一連を置いておいて、次のような歌がある。

ひたひたと鷺がつけくる春昼をいつよりかながき堤をゆけり

気掛かりな、少し不気味な感じのする歌である。むろん「ひたひたと鷺がつけくる春昼」は、作者の内側にうごめく思考や、無意識の姿が投影されたものとして読む。実際に鷺と「私」は同じ方向を歩いていたのかもしれないが、つけてくると言ったのは、妄念すれすれのところで現象を感受している、この瞬間の作者の心の構えの表出である。そうして、この歌の「春の堤」は、どこかで古典や韻文の文学史そのものの流れを暗示するものともなっている。たぶん、挽歌も相聞歌もひとつになって混沌としているこの章の構成の仕方は、写実主義的な歌を読み慣れた歌人たちには、読みにくかったかもしれない。一冊全体では、孤独な青年が、若い時期の健康な性欲をもてあましながら、奈良や京都の古跡を巡り歩いている姿が、彷彿とするのである。私はそれに共感したのでもあった。

そばにゐてしかも見えざるいちにんと御室の秋の黒書院訪ふ

宿木がねばねばと伸ぶ春おそくわれはわれを連れてもとほる

肉のうちに恋はじまるとわれをかすめ夾竹桃を嗅ぎまはる犬

乱婚といふ語をおもふ十二月のプールより身をぬきてそののち

三柱の鳥居を見たりその夜より夢の濁りの消えがたくあり
 「三柱」に「みはしら」と振り仮名。

タグ: さいかち真, 林 和清