さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

諸書雑記 12月

2021年12月19日 | 
これは前後のブログ記事の読みやすさを考えて一時消してあったのだが、注を書き加えてまた復活する。 2022.3.27

 今日はブックオフに行って、頭を肥やすための本を調達した。200円本の経済棚から抜き出したのが、
・アマルティア・セン『貧困と飢餓』(2000年、岩波書店刊)
・C・P・キンドルバーガー『熱狂、恐慌、崩壊 金融恐慌の歴史』(2004年、日本経済新聞社)
・ポール・ロバーツ『食の終焉』(2012年、ダイヤモンド社)
・永野健二『バブル』(2016年、新潮社)
・蛯原健『テクノロジー思考』(2019年、ダイヤモンド社)
・佐藤優『野蛮人の図書室』(2011年、講談社)
 何年たってもいい本の価値には変わりがないはず。

 それから年末年始に読む用にあまり傷んでいない400円本の小説類をさがして、
・中野好夫訳モーム『人間の絆 上・下』(平成十九年刊、新潮文庫)
・井上ひさし対談集『映画をたずねて』(2006年、ちくま文庫)
・伊集院静『岬へ』(平成十四年、新潮文庫)

 振り向くと100円本の棚で、
・南木佳士『阿弥陀堂だより』(2004年11刷、文春文庫)
・宮本輝『胸の香り』(2005年9刷、文春文庫)
・宮本輝『約束の冬』上・下(2006年、文春文庫)
・原田マハ『モダン』(2018年、文春文庫)
・高峰秀子『人間のおへそ』(平成二十四年二刷、新潮文庫)
 高峰さんの本は、私は全部おもしろい。
・丸谷才一『花火屋の大将』(2005年、文春文庫)
・丸谷才一『思考のレッスン』(2009年4刷、文春文庫)
 丸谷のこの本を買うのは新刊も含めて何度目か。

 以上で合計五千円弱。まあ一週間では読み切れない感じだけれど、経済本はすべて斜め読み、小説も、ものによっては斜め読みして、エッセイや詩歌本は好きなところだけ、なら、片が付くか。
※    ※
ついでに、本についての書きかけの文章があった。
 机の左うしろの本が崩れたので、例によって記録を作ることにする。

・金子兜太『わが戦後俳句史』(岩波新書、1985年刊)
・『飯田龍太全集 第五巻鑑賞Ⅰ』(2005年、角川書店)
 あらためて見直した。すごい鑑賞眼の冴えがある。
・堀切実『表現としての俳諧 芭蕉・蕪村』(2002年、岩波現代文庫)
・尾形仂『芭蕉の世界』(1999年、12刷、講談社学術文庫)
 芭蕉入門はこれに極まったり、という気がする。

・楠見朋彦『塚本邦雄の青春』(2009年、ウエッジ文庫刊)
・塚本邦雄『定家百首 良夜爛漫』(昭和五十九年、河出文庫)
 ところで、塚本さんと安東次男は対談したことがあったのかな。
・バチェラー八重子『若きウタリに』(2003年、岩波現代文庫)
・室生犀星『犀星王朝小品集』(1984年、岩波文庫)
・岩野泡鳴『泡鳴五部作 下巻』(平成六年三刷、新潮文庫 復刊)
・坪内祐三編、十辺肇『「文壇」の崩壊』(2016年、講談社文芸文庫)
・宇野鴻一郎『むれむれ夫人』(1985年、徳間文庫)

 父が昔買って帰っていた「夕刊フジ」に宇野の小説が連載されていて、小・中学生の私はそれを内緒で読んでいたのだが、ある日のこと、すき焼きの描写があまりにもすばらしくて感動し、それからは宇野の文章そのものが読みたくて読むようになったのだ。同じ中学生の頃に、従兄の家に行ったときに大江健三郎の『われらの時代』を、アレの描写がすごいぞ、と言われて読み始めて、でも読み進むうちに文学としての中身にぐいぐい引っ張られて読まされてしまったのだった。
 どこで読んだか記憶はないのだが、宇野の家に原稿を取りに行くと、編集者はピンポン玉で室内草野球の相手をさせられるのだとか書いてあった。宇野のいわゆる官能小説の女主人公の諧謔味あふれる語りのおもしろさは格別のものがあって、私はあれをこのまま埋もれさせたくない気がする。
 ※ その後「文藝春秋」をめっくていたら宇野鴻一郎が話題になっていて、電子書籍で多くの本が復刻されているとのこと。あれを「ポルノ小説」というくくりで顧みないのは実にもったいない。むしろフェミニズムの視点を取り入れながら再読したら面白いかもしれない。

・勢古浩爾『それでも読書はやめられない』(2020年、NHK出版新書)
・大井浩一『大岡信 架橋する詩人』(2021年刊、岩波新書)
・鈴木透『性と暴力のアメリカ 理念先行国家の矛盾と苦悶』(2006年、中公新書)
・生松敬三訳 ジョージ・スタイナー『マルティン・ハイデガー』(2000年9月、岩波書店刊初版)

 学生の頃、同じジョージ・スタイナーの『青髭の城にて』を見つけて友人と二人して読み合った覚えがある。まだあるが、疲れたのでこれでやめにするめ。


山階基『風にあたる』

2021年12月12日 | 現代短歌
 この人の歌集が出たのは2019年7月だから、もう二年以上たつのだが、何か書いてみようと思ったのは、つい先日のことで、腰を上げるのが遅すぎて申し訳ない。何しろ一定の評価をすでに得ている作者だし、以前「未来」にいらした頃は、顔をみるたび「よお天才君」と呼んでおだてていた。この人だけには歌を続けてほしかったから。若手の歌人は相当にいい感じの人でもしばしばやめてしまうものである。ところが、そのうちに「未来」をやめてしまって、せっかく期待していたのに何だ、とわたしはしばらくむっとしていた記憶がある。それでもこの歌集が届いた時は、すでに重版の本だったけれども、うれしかった。これは装丁の絵を見てから、その絵に手を引かれるようにして読む歌集だという気がする。作者自装で、表紙の絵にこだわったつくりの本である。

 一言で言うなら、表紙の絵の持っているテイストに等しいような、事物と事物、人とひとの間に存在する空間・拡がりのようなものについての清明な透視が、山階基の歌の世界をかたちづくっている。

 かならずという感覚に満たされた袋になって吊り革に揺れる

 小さくて深い湯舟におさまればふたごの島のように浮くひざ

 ルームシェアの友人との物語が、テキストを展開しながらつないでゆく糸になっていて、全体をまとまりのある読みやすいものに仕上げているところなど、なかなか心憎い。一首目の「かならず」が何について言っているのかは、むろんわからないのだけれども、「かならず~しよう」とか、「かならず~したい」といった、心の裡の願いのようなものを暗示していることは伝わる。そうして、二首目は自分(語り手・視点統括者)のからだのことを言っているようでありながら、同時に「ふたごの島」は、自己愛的なものを絶妙なバランス感覚で対象化しつつ見つめていると感じさせる。当たり前のことを言うようだが、「ふたごの島」は一つの島ではない。自己というものは、「一つの島」なのではなく、「ふたごの島」なのである。この繊細かつするどい自覚のもとにのべられてゆく物語の巧みさに思わずうならされるのである。それは一編の青春小説である。

 なだらかな坂があなたで効きづらいブレーキのままここまでぼくは

 お互いに凭れてもいいことにしてライブハウスのちいさなベンチ

 同居する相手の性をいちばんに訊かれるんだな部屋を探すと

 起きぬけのあなたにも巻くたまご焼き夜じゅうを仕事にかまけたら

 だとしても暮らしと陸続きの夢だ初雪を踏んでだめにしながら

 四コマ漫画の単行本を読むような気楽さもあって、同時にきわめてヴィヴィッドに運動する情景の切片には、まぎれもない詩の言葉のもつ初々しさがある。

 ひざに抱く鞄にくぢづけるように終点までをふかくねむれよ

 話さなくなったあとにも口ずさむ歌詞によく似たメールアドレス

 実にうまい歌だけれども、自然な感じにこちらの胸におちて来る。

伝田幸子『冬薔薇』

2021年12月12日 | 現代短歌
 深夜に書物を繰っていて、はっとすることがある。この本の歌には、そういうなかで出会った。たとえば、こんな歌。

  忘れむとしてゐるものを時として追ふことのある雑踏のなか

 この歌を読んでいる時は、別に特段の感興を覚えはしなかった。しかし、次の歌を並べて見出したときに、また別種の真実味のようなものを感じてしまったのである。

 水楢の落ち葉にあそぶ猿たちに笑顔のあらず 冬がまた来る

 一種の嘱目なのだろうけれども、結果として出来あがった歌には、何か得体のしれない気配が醸しだされている。

  雨の日にうしろ姿を見送られ永遠に燐寸を擦ることのなし

 この歌の理解は、とても難しい気がする。そういう路傍で煙草を吸うような人を折々隣人として目にした、というように、いま解釈してみたい。

 雪掻きのコツを覚えてメモリーの結晶のごと雪積み上ぐる

 ぺちや豆をふつくらと煮て供へたり瞑目しつつ雨音を聞く

 こうした習俗の気配のまつわる日常詠が、なかなかいい。一首目の歌は、地味だが清新な響きを持っている。

  歳月は唯に流れてきたのでなくわれとふ冬芽を育みくれたり

 「冬芽」という一連のさいごの歌。冬芽なら、これからまた新たに育ちゆくのだろうかと、この歌はいっしょに読んだ人たちが面白がった。

 『星の王子様』伏せて暫くアール・グレイに浮かびゐるキラ星を呑む

 同じ一連のこの歌も、その場で感覚がするどくなっている人の幾人かが、読んですぐに笑い声をあげた。私も思わず笑った。