さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

近作二首

2023年07月31日 | 新・現代短歌
たまには近作披露もいいかと思い、暑いし、少し楽しそうなのを。ただし、句またがり、字余り全開なので、読みにくいかもしれない。


  皇帝ペンギングッズ手渡し弟に 「自己肯定感を高めてね」と姫   さいかち真

  「かわいい」と、叫ぶ声より私には曾宮一念の山が気になる    さいかち真

 ちなみに当方の名前の「真」は、「しん」と読むのだが、「まこと」と読む人があり、
実際に、まこと、と読んでいた時期もあるので、本人としてはどちらでもかまわない。

☆ 全然関係ないはなしだけれども、家のなかに黒い地蜂がはいってきた時の対処法。
空の大きめのペットボトルを水でゆすいで、その尻を持つ。そのまま落ち着いて、壁などにとまっている虫の真上から頭と胴体を目標に一気にペットボトルを近づける。すると、やすやすと虫はペットボトルの中に入る。虫をつかまえたら、ふたを閉めて戸外に逃がしに行く。何度も何度も入って来るやつもいるが、大人しくつかまってくれるので、根気よく逃がすようにしたい。地蜂は性格が温雅である。

 同じことをスズメバチに対しては、たぶんできないだろうと思う。地蜂と大きさが同じぐらいで、よく刺すのがアシナガ蜂で、これは逃がしてやる気にはなれないのだが、うちわや新聞紙などが手元にあって窓をあけられるなら、光の強い方角に徐々に押し出すように誘導すれば、うまく外に出てくれる。蜂がいたら、くれぐれも殺そうなどと思ってはならない。殺そうとして逆襲される方がよほどリスキーである。

 

2023年07月27日 | 現代詩
「だから、自分のなかでなにかを志向する文脈がまだ十分に熟成されていないのに、何かの検索をきっかけにして、自動的に個人の嗜好に合わせたものが紹介されるようになる。いわば、嗜好品の見本が押し寄せる。これに年中従っていると、流されっぱなしになる。これはかなり自分を見失った状態だ。」
「そもそも、見失うような自分なんてあったのだろうか。」
「もともと『自分のなかでなにかを志向する文脈』というものが、相当に浮薄なものだということは、わかる。けれども、個々人の持っている生活史性のようなものは、そう簡単に変更されるものではないだろう。そこはやはりこだわりを持ち続けなければいけない、と言うより、そうしないとおもしろくないだろう。」
「さっき作った詩をひとつ出して見ようか。」

  的

的をつくって、その周辺に
ためしに足元の土くれや、木の枝の端のようなものを
投げてみる。
そうすると、的がだんだん
的らしくなり
色が濃くなってくる気配がある。

  「良(よ)う候(そろ)」

そのむかし
戦争映画のなかで 飛行機乗りが言っていたことばだが
中学生には不思議なひびきを持っていた。

  ようそろ
  はっ、はっ、はっ、ようそろ

潮が満ちて来ると、海辺のふじつぼの先端の
爪みたいなさきっぽから顔を出す感じの
吹き出る笑いが
ミジンコの足の谷間に瞬く間に大量発生する。

すると
的が、ひかりはじめた
木の枝のすきまから
白いひかりが射しこんで反射する
的が 膨らみ、大きくなって
輝きを増している

眩しくて目をあけていられない
的が拡大して どんどん大きくなって
もう見ていられない

見ていられないよ





鶴田吾郎 デッサン

2023年07月23日 | 美術・絵画
   肘を突いた左腕の上におとがいを乗せて、嫣然と微笑む若い女性。ぱっと見たところ美人画の範疇に属する絵のようであるが、仔細に見てみると、なかなか凝った絵だということがわかる。作者は戦前、戦中に著名だったリアリズム系の洋画家。よく知られた代表的な戦争画の一つを描いている。  右目と左目の大きさがちがうようにみえるのは、指で片頰の皮膚を押し上げているからである。そのせいもあって目の下の陰影の濃さが異なっている。また、微笑のせいで鼻の下の唇が歪んでいるように見えるのも、照れていただろう女性に右を見るようにうながし、緊張で引きつっていたかもしれない顔に動きをもたらす仕掛けがあるからである。実際にこの絵と同じポーズをとってみると、手の当て方にしても相当に人工的だということがわかる。  両目の下の縁に頭の中で線を引いてみてから、鼻から顎にかけての線を下に下ろして引いてみると、普通に正しい十字が現れる。顎のあたりがやや歪んでいるように見えるのは、こちらの錯覚だと気がつく。半世紀近い歳月を経て、当初施されていた赤色がとんでしまっているので、色でカバーしていた部分は消えてしまっている。  モデルとなったこの女性は、いったいどこの国の人だろうか。目と眉の間が狭いので、フランス人だか、日本人だか、インド人だか判別がつかない。この絵とは別に1960年代にインドのダージリンのあたりに行って描いたデッサンを私は入手しているが、それよりも紙の劣化の度合が激しいので、さらに古くて戦時中に東南アジアの人をモデルとして描いたスケッチのひとつかもしれない。日本人だとしたら相当にエキゾチックな顔である。波打っている髪の量は豊かで若々しく、頬のやわらかさまでもとらえた顔の描線は、いかにもみずみずしい。

蝦名泰洋『ニューヨークの唇』

2023年07月20日 | 新・現代短歌
〇本カテゴリーを今日から増設して「新・現代短歌」とする。何年も前のものとの区別がむずかしくなってしまったからである。

〇 本書は、メールを介した詩友であった野樹かずみさんが、2021年に亡くなった著者のために、追加の歌稿と1993年刊の歌集『イーハトーブ喪失』を加えて一本として刊行されたものである。

 慎重にソフィスティケーションの施された作品を作り続けた作者に倣って、私も以下の文章では、作者のように繊細な感受性を持ち堪えて生きた人が感ずる苦しみの埒外にある者として、ネット上でいいかげんな事をつぶやくのはやめにしたい。

 本集に頻出する〈カムパネルラ〉の名前は、持続的な<生>の不在を生きざるを得なかった作者の渾身の比喩であろう。端的に言うならば、あらかじめ失われているがゆえに、たとえばその不在によって最後まで苦しみ続けるほかはないものについての思惟を、現実の肉体を生の川べりに置き続けるなかで、メビウスの輪のように反転する生/死のかがやくリボンに縁どられた持続として、詩を媒介として正しくそれらの抽象的な<不在>を宙吊りにしつつ語ってみせること、そのような精神のダンディズムの選び取った名前が、〈カムパネルラ〉だったということである。
 作品を引用しなくてはならないのだが、この蕪雑な場で私は多くを語るまい。

  ひしめきて不落の青も目つむれば空に剝離の音たしかなり

  ひとさらい霧とぶ野辺に泣いているさらい来たるはおのが母ゆえ
  
 以上二首、『イーハトーブ喪失』の「マザーレス モーツァルト」の章より。まぎれもない独創性を持った、森厳なと言ってもいいような響きをもつ悲歌である。〈カムパネルラ〉に等しく〈モーツァルト〉も特別な名なのである。
つづけて同じ一連から。

  いつか死ぬ薔薇とも知らず子供らは身を飾り合う棘も一緒に

 このむごたらしい言葉を前にして、私は涙を禁じ得ない。

   ※      ※
 モーツァルトにことよせて恋の歌らしいものもある。二首続けて取り出す。

  われを灼く氷の炎かりそめに指触れ合いしのみの昨日の

  気づかぬは君と思いき水仙のうすみどり葉の指の寒さに

 以上は『イーハトーブ喪失』から。

『ニューヨークの唇』は、編者の解説を見てから読む方が、諦念にも似た基調となる感情の流れに乗りやすいかもしれない。

  頰をつたうイルカの群がすきとおり明日の海の音階になる

  かなしみも改札口を出るときは勤め人の顔を装っている

 多くの読者がわからないと言って素通りしてしまうかもしれない難解な歌の筆頭で、一首目のような天才的な歌が孤独に立ち上がり、脇侍する「かなしみも改札口を出るときは勤め人の顔を装っている」というような「つぶやき」をそえて何気ない顔をしているおもしろさ。こういう歌を孤独に紡いでいることばの人がいたことを、我々は忘れないようにしよう。

野樹かずみさん、この本を出してくれて、本当にありがとう。