さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

山下一路『スーパーアメフラシ』

2017年05月26日 | 現代短歌 文学 文化
この歌集は、何となくめくって見ているうちに、ほとんど目を通してしまった。

つぎつぎと夜のプールの水面を飛びだしてくる椅子や挫折が

歌のなかに「挫折」なんていう言葉はなかなか使えるものではない。この叙法は本物だと直感する。

ワタシ活用されてマス 新宿の朴さんに李さんに雨の群肝

この作品は、たぶん中野重治の「雨の降る品川駅」を下敷きにしている。「活用」ということばが示唆する内容は、労働疎外や搾取である。

それで解説をみると、かつて「氷原」で石本隆一の指導を受けたというから、歌歴は相当古いだろうし、短歌についても一家言ある人にちがいない。あとがきによれば、四十年ぶりの第二歌集だという。自ら語る履歴の概要の部分を引くと、

「学生運動引退後に企業戦士とか呼ばれる社会人となり、歌の世界から20年以上離れていたことや、10年前に歌人集団「かばん」に入会し、3.11以降には口語文体に変わったことも含め、自分にとっては第一歌集のように思えます。」とある。

暗闇に折りたたまれていた鶴をほどくと鉛 三月の空

※「鉛」に「なまり」と振り仮名。

少し前に流行した藤原伊織の小説を思い出させる歌で、結句の「三月」にはさまざまな思いがこめられているだろう。こういう作品で押していくこともできるのに、作者があえて選び取ったのは、ユーモアを重んずる「ポップ」な言葉遣いである。しかし、「特養にて」という一連などは、おもしろいけれどなかなかまじめな気持でつくられていて、技術的にも完璧である。

父母への挽歌なども、ユーモアを交えている分、むしろ非情な視線を保っており、その抑制ぶりと主情的な感傷拒否の姿勢はあきらかである。ただ、それがいいのかどうかは、わからない。

電力のムダです父さん夜明けまで点けつぱなしでスターチャンネル

南天をついばむ鳥を追うような残尿感で父は逝きたり

 なかなかこうは言えないし、我慢したぶん、後になって次の歌のように滲み出てくるものがある。

  死者との交信はすすんでますか 百円で買った富士山の水
 
  パーマネント・プレスされた父さんの背広を窓にぶら下げてみる

 死者との交信は、何となく埴谷雄高の小説の一節を踏まえているかなあ。この「父さん」には「父さん」と呼ばれている自分も入っているかしれない。一筋縄ではいかない作者である。

逃げ道が樹海のようにひろがった早朝会議のフローチャート図

 樹海も富士山と関係があるから、作者の想像力が働く時の表現の無意識のようなものと富士山は縁がある。こういういくつかの線をさぐって、この歌集を読んでみる楽しみはまだまだある。

さいごになかなか深刻でわさびの効いたアイロニーの感じられる連作三首を引いて拙文をおわりとする。

出入り口のおなじ改札がふさがれて乗越え方をだれもしらない

なによりも自分自身は自分で守る憲法違反のようなマニュアル

特快はもうありません酸素ボンベわすれた人は帰ってください

三首めは、近年の介護の等級見直し等に関する国の施策を扱ったもの。二首目も渦中の話題。
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短歌入門 改稿

2017年05月21日 | 古典文法
※ 十年ほど前に雑誌のホームページに出した文章を、手直しして以下に掲載する。

短歌入門 

1 句切れ

私は以前『生まれては死んでゆけ 新世紀短歌入門』という本を出したことがあるが、入門書という体裁をとりながら、実際は評論集に近いものだったので、ふだん短歌を読み慣れていない者にはむずかしいと、友人から言われてしまった。今回はその反省を生かして、なるたけ平易に書いてみたい。短歌を作ったり、読んだりするうえでヒントになりそうなことを順に展開していってみようと思う。

  小学校の頃、学校で「百人一首」を習ったという人は多いだろう。大多数の日本人にとって、「百人一首」は、短歌の五七五七七の音数律(正確には語音数律)になじむ最初のきっかけを与えられるものだ。でも、困ったことがひとつある。それは、「百人一首」のカルタが、五七五の上句と、七七の下句で一首の歌を無理に切るために、短歌のリズムはすべて「五七五/七七」だという刷り込みが、多くの人の頭のなかにできあがってしまうことである。「百人一首」に入っている歌は、別に三句切れのものばかりではないのだが、外見の与えるイメージの方が圧倒的だからどうしようもない。

自作の短歌を地域の印刷物や職場で披露したことがある人なら身に覚えがあることだろうが、黙っていると、しばしば上句と下句が二行に分かれて印刷されて来る。あまり短歌に詳しくない学校の先生が、生徒に創作をさせてプリントを作ったりすると、たいていそうなっている。だから、生徒も自然にそういうものだと思い込んでしまう。

 本当に一から短歌をはじめたかったら、短歌は三句切れだという先入観をまず払拭して、体にしみついた三句切れの感覚を拭い去る必要がある。これが意外に難しい。気に入った歌集を何度も何度も繰り返し読んだり、場合によっては一冊まるごと筆写したりすることによってそれは克服できるのかもしれないが、どうなのか。人は急には変われないものだから、初心のうちは相当意識的に自分の作品をチェックしてみるといいのではないかと思う。次に三句切れでない歌を何首かあげて読んでみたい。

沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ 斎藤茂吉

 「沈黙のわれに見よとぞ」で、二句切れの歌である。薄暗い葡萄棚にびっしりと下がっている黒い葡萄は、生命の充溢と、自然の実りの豊饒さを感じさせる。一首は、荘重で沈痛な響きを持っており、結句の「そそぐ」という語の響きには、雨の質感も織り込まれているようなところがある。

敵ひとり殺むるまでは婚姻をゆるされざりきスキタイおとめ
大滝和子『人類のヴァィオリン』

「~ゆるされざりき」で四句切れの歌である。婚姻ということをめぐって、作者主体は、これ以上ないぐらい徹底的に屈折しているのだが、表にあらわれているのは強烈なロマンチシズムである。野性的で尚武の気風を持った古代の遊牧民の習俗から、劇的な興奮を汲み上げている歌だ。

夏はおもふ若かりし母の鏡台にふくらかに毳だちてゐし牡丹刷毛を
  河野愛子『黒羅』

 「夏はおもふ」で初句切れ。初句、一字字余り。作者は一九二二(大正十一)年生まれだから、母も本人も和服で生活するのが普通の世代。牡丹刷毛は、お白粉の水分を取るために使用する丸いかたちの刷毛である。子供の頃、母親の見ていない時に、鏡台の上に置いてあるものをそっと手に取ってみたりした記憶は、私にもある。
 下句が大幅に字余りだが、これは「ふくらかにけば/だちていしぼたんばけを」と、四句と五句の句またがりをバネのように利用して、「だちていし」の五音以下を加速して一気に読み下す。

2 記述か説明(感慨)か

 文章には、主に二つのタイプの文章がある。一つは、事実を認識して、それを記述しようとする文章。もう一つは、その事実についての自分の考えや意見をのべる文章である。散文を書く時には、この二つのタイプを意識して、ごちゃまぜにしないことが大事である。

 先に引いた茂吉の歌を例として言うと、「沈黙のわれに見よとぞ」というのは、主に自分の思いをのべている句である。それに対して、「百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ」というのは、眼前のでき事の描写である。でも、これは散文ではなくて歌だから、どちらの句にも作者の情念は投影していると見てよい。三、四、五句は、ただの自然描写ではなくて、生命というものの豊かさや崇高さを象徴する表現にまで達している。名歌たるゆえんである。次に現代の作品を引く。

ブックオフの百円コーナーだけだろう逸見政孝を忘れないのは
                              松木秀『RERA』
ニッポンは平和だ「希望は戦争」と書く人も安心して生きられる

 松木秀の作品は、弱い者どうしが、むごい言葉を投げつけあっている光景を目にしているような感じのする、痛々しい歌だ。二首とも、自分の認識した事物を読者に向かって突き出してみせている。一首め。闘病記を書いて逝ったアナウンサーの逸見政孝の本を忘れないのは、ブックオフの百円コーナーだけであるのだという。
 二首めは、ロス・ジェネの怒りを代弁すると自称して、「丸山真男をひっぱたきたい」という衝撃的なタイトルで登場した評論家の赤木智弘のことを言っているのだが、どちらも「事実について自分の考えや意見をのべる」タイプの作品である。そうして松木秀には、この型の作品が多い。けれども、中には次のようなものもある。

四半世紀前に売られし「ニューメディア対応テレビ」がある処分場
 
こちらは、一首全体が記述の句で占められている。でも、ここで「ニューメディア対応テレビ」を「処分場」に見いだしたのは、作者である。四半世紀は最新だったものが、今は無残な時の流れにさらされているという皮肉な着目を示してみせたのだ。

 続けてもう少しおだやかな、年長の世代の歌をとりあげてみる。

  持ち直したりしか父の胸処より紫苑の花の萌ゆる心地す 桜井登世子『雁渡る』

(もちなおし たりしか。ちちの むなどより しおんのはなの もゆるここちす)

十方に枝さしのべて咲く桜一樹の下に車椅子止む

(じゅっぽうに えださしのべて さくさくら いちじゅのしたに くるまいすとどむ)

 どれも花が出て来る歌で、きりっとした印象が際立ってみえる。自身が高齢者に近づきながら身動きのならない父母を介護しているなかで、花への心やりは作者を支えるものであっただろう。

一首めの感慨句の「紫苑の花の萌ゆる心地す」というのは、なかなか老人をこうは歌えない。それはみっしりとした濃密な愛情がなければ、こういう修辞は出てこない。

二首めの桜の描写の背景には、背後に近代短歌の歴史が感じられる。「十方に枝さしのべて」というような大きくつかむ語の斡旋の仕方は、伊藤左千夫が「万葉集」を読んでうみだした文体を、「アララギ」の系統で継承して来なかったら出て来ない言い方なのである。

 読み方を解説すると、一首めの「持ち直し/たりしか。父の」という描写句の、一二句にまたがる句割れは、「もちなおしィ たりしか。ちちの」という表記のように少し引っ張って感情を込めるといい。「たりしか。ちちの」は、意味上の切れ目を無視して切らずに読む。

 二首めは、少しいかめしく「じっぽう」と振り仮名がふってあるイメージで読みたい。分かち書きしてみると、三句めが上下から引き裂かれるように置かれていて、「さしのべてさく」と、「さくらいちじゅ」の両方にかかっているために、独特のスピード感が下句にもたらされることになる。

こんなふうに、どうしておもしろいのだろう、とか、どこがおもしろさの原因なのだろう、ということを考えながら作品を分析して読んでみると、その作者のものの感じ方の癖がわかって来る。一冊の歌集ならサンプルは十首程度、自分がいいと思った作品を抜き書きしてやるといい。できればノートに手書きするのがいい。これを時々自分の作品を相手にやってみると、作歌力は格段に向上するのではないかと思う。

3 二段活用の動詞は好きですか

 私は仕事で高校生達に古典を教えている。古典は試験の前日に覚えて翌日に忘れるもの、というのが、彼らのスタイルだ。よけいなことは頭に入れない。だから、三年生でも四月に入って一からすべて復習し直さなくてはならないことがある。まずは動詞。二段活用を教えたら、「何これ、キモい。」と教室の窓際にすわっている女子生徒が大きな声を出した。キモい、というのは、若者言葉で「違和感がすごい」というような意味である。思わず笑ってしまったが、同時に、これは大変だと思った。三年生にもなって、はじめて二段活用の動詞を知ったようなことを言っているのだから、この生徒の古典文法嫌いは、相当に重症だ。うんうん、と言って笑っている生徒もいる。これを大学受験のレベルまで持っていかなくてはならないのだが、さて。

肺尖にひとつ昼顔の花燃ゆと告げんとしつつたわむ言葉は   岡井 隆『朝狩』

(はいせんに 「ひとつひるがおの はなもゆ」と、つげんとしつつ たわむことばは)

 医師である作者は、患者の肺のレントゲン写真を見ている。レントゲン写真のネガとポジは反転するから、結核の病巣のあるところに丸い形をしたかげりが浮かび上がる。それを「昼顔の花」が燃えている、という比喩で印象的に表現している。

そうして、その診断結果を告知することをためらう医師としての心のゆらぎを、「告げん」(告げよう)としながら「たわむ」(曲がる、弱くなる)言葉は。と、余情を感じさせる倒置表現で言い表している。

「ひとつひるがおの」という二句めは、リズミカルな「ひ」音の繰り返しの作用で、多少早口になる。そうして、この二、三句めの「ひとつひるがおの/はなもゆと」という、句またがり気味の言葉の続きが、まるで歌の内容そのもののような〈たわみ〉を持った響きを一首にもたらしている。

この三句目の「燃ゆ」が、二段活用の動詞である。「花燃ゆ」、「告げんと(す)」、というのは、改めて検討してみると、実に漢詩的な表現だ。「燃ゆ」だけでなく、「告ぐ」も二段活用の動詞である。これらの二段活用の動詞は、現代の口語に出て来ない。そのために必要以上に文語を難しく感じさせる原因の一つとなっている。

  詩人、詩の涸れたるひと日みづからにゆるされてすさまじき睡眠  
塚本邦雄『日本人霊歌』

(しじん、しの かれたるひとひ みずからに ゆるされてすさ まじきすいみん)

 一、二句めの句またがりと、四、五句めの二回の句またがりが、独特の調べを生んでいる。しじん、でいったん立ち止まったあと、その後はハイスピードで一気に駆け下りるように読むのだろう。詩作に倦んだ詩人が、口をあんぐりと開けて眠りこけている姿。その精神の怠惰を痛烈に皮肉っている。

 この歌の二句めの「涸れたる」は、「涸れた」とも、「涸れる」ともちがう。「涸れたる」には、「涸れた」だけでなく、「涸れてしまった」というニュアンスも含まれている。「涸る」という二段活用の動詞に助動詞がくっついているのだ。これをどうやって見分けるのか。                            

 以下で簡単に辞書で確かめられるようになる方法を示す。

 まず、先に「変格活用の動詞」と、「一段活用の動詞」を除外することをお断りしておく。そのうえで、多数派の「四段活用の動詞」と、現代人から見ると変わり者の「二段活用の動詞」の区別の仕方を説明する。

 動詞は、「あり」、「をり」などの例外をのぞいて、基本的に語尾に「ウ」段の音が来る。そこで終止形(文を言い切るかたち)をもとめるために、次のような操作を行う。

 まず、「行き・ます」、「行き・て」のように、「~ます」、「~て」などの言葉をつけて連用形をもとめる。ローマ字で表記すると、「yuki-masu」となる。この「yuki」が、連用形だ。岩波の「古語辞典」なら、ここで辞書が引けるのだが、普通の辞書は終止形でないと引けないから、ここでもう一度手を加える必要がある。

 連用形の「yu-ki」の活用語尾「ki」の部分を、ウ段に変えると、「yuku」となって、終止形がもとめられる。これで辞書が引ける。この時に終止形が、現代の口語と同じものは、ほぼ四段活用である。それ以外の終止形にした時に違和感のあるものが、二段の活用である。この方法は、実際にやってみると便利で、「目からウロコ」と言うぐらい「古語辞典」を引くのが楽になる。これなら変格活用の「来(く)」、「す」も、正しく終止形にたどりつける。

念のため、このやり方では、一段活用の動詞「着る」、「見る」、「蹴る」などと、変格活用の動詞は除く。「見-ます」とやって、「見」をウ段にしたら「む」?となって、なんじゃこりゃ、ということになってしまう。

だから、一段活用については、例語を別に覚えてしまえばいいのである。

ちなみに「死ぬ」はナ変動詞だから気をつける。この方法のいいところは、「得る」や、「寝る」などの現代語にひきずられやすい、下二段活用の終止形「得(う)」、「寝(ぬ)」の終止形が正しくもとめられることだ。三省堂教材システムの絶版になってしまったテキストの教え方だが、これ以上すぐれた教え方はないと私は考えている。

 二首めの歌の例だと、「涸れたる」は、まず「涸れ-ます」とやって、連用形にする。そうすると、「涸れ」と「たる」の切れ目・つなぎ目がわかる。それから「涸れ」の活用語尾を「ウ」段に変える。すると、「涸る」となる。これで辞書が引ける。次の機会には、ただ読むだけでなく、この動詞を使って自分の作品が作れるかもしれない。辞書は用例を読むことが大事である。素敵な歌がたくさん引かれている。はじめは、訳の付いた小学館「全訳古語辞典」の類がいい。相当に習熟したら、岩波の古語辞典。これは、自動詞と他動詞が別立てになっているところが、すごい。

 ちなみに現在高校で使われている古典文法の教科書の最大の欠点は、自動詞と他動詞の説明に割くページが少なすぎる事である。
  
  おのづから過ぎむとしつつ花びらの落ちたるものは土にうつくし
                           佐藤佐太郎『しろたへ』

解説の要らない平易な歌だ。「過ぎむ」を区切ってみよう。まず、「過ぎ-ます」で連用形が明らかになる。次に、「過ぎ」の活用語尾の部分をウ段に変える。そうすると「過ぐ」がもとめられる。現代の口語は「過ぎる」だから、この時点でこれは二段の活用だということがわかる。連用形が「過ぎ」のように「イ段」になったら「上二段活用」。「告げ」、「涸れ」のように「エ段」になったら「下二段活用」と、従来の教え方も参照して覚えておくとよい。

 ここまでわかったら、次に連体形に挑戦してみよう。二段活用の終止形に「る」をつければ連体形である。「告ぐる時」、「過ぐる列車」、「涸るる水」というように。

已然形はどうするか。已然形は、二段活用の終止形に「れ」をつければ已然形である。「る」や「れ」を接辞という。「過ぐれど」、「告ぐれど」、「春こそ過ぐれ」などというように特定の構文にかかわりが深いので、短歌に頻出するそういう言い方になじむとよいだろう。

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白井健康『オワーズから始まった。』

2017年05月21日 | 現代短歌
 あの宮崎県の口蹄疫のニュースが流れたときに、現場に居る人々の悲痛の思いはいかばかりかと思われた。この歌集の第Ⅰ部の歌は、その時の当事者の一人であった獣医師によって詠まれたものである。自分が普段やっていることと全く逆の事を行わなければならないということの圧倒的な不条理感は、ほとんど戦争体験に等しいようなものだったのだということが、作品を読むとよくわかる。それだけでも、この歌集が出た意味はあるだろう。

歌集第Ⅰ部の深刻さと、作品の出来のすばらしさ、それからあとがきの持っている生生しい息遣いは、短歌の持っている当事者性と機会詩性の長所が遺憾なく発揮された結果だと言うことが出来る。

石灰を塗りたくられてがらんどう検案書には熱れが残る  ※「熱」に「いき」と振り仮名。

夏の日が忘れ去られてゆくように日照雨のひかりを餌槽に食べる

2%セラクタールを投与後に母子の果実を落としてしまう

第Ⅰ部の歌だけを読んでいれば、これはいい歌集だということになるのだが、第Ⅱ部以降をみると、やや歌集を出し急いだかな、とも思われないではない。しかし、習作も含めて若いうちの相聞歌を出しておくのは今しかないというつもりで本集が編まれたのだろうことは想像に難くない。

Ⅱ部以降の作品から引く。

乳房よりうえ半分の朝明けをプラトニックだと呟いている

ふたりしてコートを脱ぎ捨て沈むときうっかり鱗を落としてしまう

iPhonを愛撫している親指とあなたの舌がいつも似ている
 
集中には性的なものを暗示する相聞歌が多いのだが、これは中でもいい方の歌かと私なりに思う。

どんな季語も持ちあわせていない雨の日はボタンホールをもてあそんでいる

かたつむり(コトン)と夏至の庭先にあのひとの水溶性の声

スリープモードに戻るま昼間会わないでお祈りをするしずけさがある

 実は本日この歌集についての読書会を行ったのだが、詩的な実験が目立つ歌よりも、むしろオーソドックスな普通の叙法の歌の方にこころをひかれたというのが、参加者共通の感想だった。
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「美志」一九号 発刊

2017年05月18日 | 日記
「美志」の一九号が出た。一部は「葉ね文庫」で手に入るので、ほしい方は早めに。何しろ三百部しか作っていないので外に出すのは、ほんの一部だ。「葉ね文庫」は、やっている人が楽しそうでいいと思う。「三月書房」の社長さんが亡くなってしまって、さびしいとおもっていたら、こういう人が出て来ているのだと思った。これも文化の多様性に寄与する個人の経済活動のひとつかと思う。
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『桂園一枝講義』口訳 176-186

2017年05月14日 | 桂園一枝講義口訳
176 暁萩風
かぎりあれば覚なんとするあけがたのゆめの末ふく萩の上風
二三七 限りあれば覚(さめ)なんとする明(あけ)がたの夢のすゑふく萩のうはかぜ

□たとひ萩の風はふかずとも、さめなんとする也。たとへば花見に出でんとする時誘はれたるが如し。
○たとえ萩の上に風は吹かなくても、目が覚めそうになるのだ。たとえば花見に出ようとする時に誘われたようなものである。

※題の本意と日常の情緒を濃厚に重ね合わせて生きることが空想裡にできること、それが日本の歌人の生活である。

177 外に出でて住ける年の秋よめる
此の秋はふるさと人のおとづれに吹くとのみきくをぎの上かぜ
二三八 外に出てすみけるとしの秋よめる
この秋はふるさと人の音信(おとづれ)に吹(ふく)とのみきく荻のうは風

□木や町に出たることあり。岡崎の宅、ことの外荻多くあるなり。音信におとのせぬ荻をきくとなり。
○木屋町に出たことがある。岡崎の宅は、ことの外荻が多くある。音信におとのせぬ荻を吹く音を聞くというのである。

178 萩
さをじかの妻どふ野べの秋はぎは下葉のみこそいろづきにけれ
二三九 さをしかの妻どふ野辺の秋はぎは下葉より社(こそ)色付(いろづき)にけれ 文化十一年

□「古今」の序に「秋萩の下葉をながめ」とあり。下葉ははやくかれて行くなり。古人はことの外はかなきことに目をつけるなり。さをじかに照りあはすが此の歌なり。

○「古今(集)」の序にも「秋萩の下葉をながめ」とある。下葉は早く枯れて行くのである。古人は格別にはかないことに目をつけたものだ。さを鹿に照りあわせるのがこの歌である。

179
一夜にやたなばたつめのおりつらんけさしも萩の錦なるかな
二四〇 ひとよにやたなばたづ(ママ)めの織(おり)つらむけさしも萩の錦なる哉

□一朝みつけたるなり。驚きのあるもの也。花は漸を以て開くなれども、ことの外見事に思ふことあるなり。「一夜にや」棚機つめの神女の手故、一夜におるなり。「つくからに神やきりけん」の類なり。「しも(下線)」は強くなる。「けさ」、「あ」と云ふことなり。玄如法師は下巻の秀逸であらうと云ひたるなり。

○一朝(起きて)みつけたのである。驚きのあるものだ。花はだんだんに開くものであるけれども、ことの外みごとに思うことがある。「一夜にや」というのは、たなばたつめの神女の手だから、一晩で織るのである。「つくからに神やきりけん」の類だ。「しも(下線)」は強くなる。今朝、あっと思うことである。玄如法師は(この歌が「古今集」の)下巻の秀逸であろうと言ったものだ。

※「仁和のみかどのみこにおはしましける時に、御をばのやそぢの賀にしろかねをつゑにつくれりけるを見て、かの御をばにかはりてよみける 
ちはやぶる神やきりけむつくからにちとせの坂もこえぬべらなり」僧正へんぜう「古今集巻第六 賀歌」三四八。

180 高台寺の萩見にまかりて
古でらのたかき臺(うてな)のからにしきたちのこしけんあきはぎの花
二四一 ふるでらのたかきうてなの唐錦(から)にしきたちのこしけむ秋はぎの花 文政七年 初句 イニシヘの

□高台寺中々歌によまれぬ所なり。しかし、歌くさく高台らしき故ここに出せり。昔さかんなりし時のたち残りてあらんと云ふなり。
○高台寺は中々歌によまれない所である。しかし、(寺の名が)歌くさいし(漢詩にあるような)高台めいているのでここに出した。昔さかんであった時(の様子)がずっと残っているようだというのである。

※「臺」は「台」。

181 薄
紅のあさはの野辺のしのすすき穂に出でたれどいまだみだれず
二四二 紅の浅葉の野辺のしのすすきほに出でたれどいまだ乱れず 文化三年

□「紅」は「浅」の枕詞なり。「万(葉)」に「紅の戔香」とあるなり。紫はこきに云ふなり。「紫のこかたの海」とあり。此れ古人、調べのよき方に骨が折てあるなり。浅葉野、信州。
「しの」しなしなとしたることなり。風の吹くまでは乱れぬなり。
すすきのすつと出たる形なり。其の開かぬ内は紅の色のつよきものなり。たとへば紅梅の未開、紅の類なり。開かぬうちは紅深き也。古人「尾花色のめしを出しける」とあるは、小豆飯なり。

○「紅」は「浅」の枕詞である。「万葉集」に「紅の戔香」とある。紫は濃い色にいう。「紫のこかたの海」とある。これは古人が、調べのよい方に骨を折っているのである。浅葉野は、信州。
「しの」は、しなしなとしていることだ。風の吹くまでは乱れないのだ。
すすきのすっと出た形である。その開かない内は紅の色がつよいものである。たとえば紅梅の未だ開かないものが、紅である類だ。開かないうちは紅が深いのである。古人が「尾花色のめしを出しける」とあるのは、小豆飯のことである。

※「うつほ物語 菊の宴」。

182 
ふるさとの野中の道にやすらへば風にひれふるしののをすすき
二四三 故郷の野中の道にやすらへば風にひれふるしののをすすき 文化二年

□ひれ、古人女人の後にかけるものをひれと云ふなり。領巾と書くなり。男もかけたりと見ゆ。「ひれかくるともの男」とあり。礼服にかけるもの歟。さよ媛もひれを以て招くとあり。ひれふる山とあるなり。故郷にかへる人のさまなり。故郷はあれれば野となるなり。それ故野をつづけ(ママ)るなり。故郷の野辺見に行くと云ふなり。故郷は必ず野辺にあるやうになるは、此れ野となる縁あるなり。柳に燕の類なり。こちらより合せて云ふなり。

○「ひれ」、古人は女人の後にかけるものをひれと言った。「領巾」と書く。男もかけたものとみえる。「ひれかくるともの男」とある。礼服にかけるものか。さよ媛も「ひれを以て招く」とある。「ひれふる山」とある。故郷にかえる人の様子である。故郷は荒れれば野となる。それで「野」をつづけるのだ。故郷の野辺を見に行くと言う。故郷は必ず野辺にあるようになるのは、これは「野」となるゆかりがあるのである。柳に燕の類だ。こちら(故郷と言ったら野)を合わせて言うのである。

183
秋かぜにすゝきの糸をよらせつゝたがぬひいでし草のたもとぞ
二四九 秋かぜに薄(すゝき)の糸をよらせつゝたが縫出(ぬひいで)し草のたもとぞ

□よく聞えたり。
○よくわかる歌だ。

184 薄随風
一方になびきそろひて花すゝきかぜふく時ぞみだれざりける
二四五 ひとかたになびきそろひて花薄かぜふく時ぞみだれざりける 文化十五年

□風にみだるゝものを、みだれぬといふが趣向なり。
○風にみだれるものを、みだれないと言うのが趣向である。

※佳吟。

185 行路薄
たび人の袖とひとつになりにけりすゑの原野のしのゝをすゝき
二四六 旅人の袖とひとつになりにけり末の原野のしのゝをすゝき 文化十五年

□旅行人を見やりて居るのに、とうとうすゝきの袖と一緒にほのかになりたと也。「末の原」、名所なり。「万葉」に「梓弓末の原野」とあり。末が遥に、末のやうに聞ゆるなり。末の松山も遥にみゆるなり。

○旅行く人を見やりて居るのに、とうとうすすきの袖と一緒に姿がかすんで見えなくなっていったというのである。「末の原」、名所である。「万葉」に「梓弓末の原野」とある。「末」が、遥に、末のやうに聞えるのである。末の松山も遥にみえるのだ。

※「あづさゆみ-すゑのはらのに-とがりする-きみがゆづるの-たえむとおもへや」「万葉集」二六四六。「末の」のような歌語に言葉がもともと持っていたみずみずしいイメージを呼び起こそうとするここの解釈は、なかなかのもの。

186 薄似袖
おしなべて知るも知らぬもまねくこそ尾花がそでのこゝろなりけれ
二四七 おしなべて知るも知らぬも招く社(こそ)尾花が袖の心なりけれ 文化三年

□「袖ふる尾花が心なりけり」と云ふを、「尾花が袖の心」と云ふなり。松の木の間の心なりけり。皆心あるに見なすなり。尾花、「穂」花を云ふが「を」(傍線)に転じたるなりといふ説あり。「万(葉)」に「さをしかの入野のすゝき初尾花うち出て招く」。 

○「袖ふる尾花が心なりけり」と言うところを、「尾花が袖の心」と言うのである。「松の木の間の心なりけり」。皆心があるように見なすのである。「尾花」は、「穂」花を言うが「を」(傍線)に転じたものという説がある。「万葉集」に「さをしかの入野のすゝき初尾花うち出て招く」(という歌がある)。

※上三句に「うち出て招く」という四句めが続く歌はない。口をついて出たうろ覚えの歌だったので言いさしている。ここも景樹が「万葉集」を直接読む前に、先に「古今和歌六帖」の人麿などの歌を拾って覚えたのではないかという推論の根拠となるところである。

「さをしかの入ののすすき初尾花いつしか君にたまくらをせむ」「古今和歌六帖 すすき」三六九一。
「さをしかの-いりののすすき-はつをばな-いづれのときか-いもがてまかむ」「万葉集」二二八一「新編国歌大観」による。
「さをしかのいるののすすきはつをばないつしかいもがたまくらにせむ 人丸」「夫木和歌抄」四三二一。 

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