さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

注意 当方の書籍の無料ダウンロードのサイトについて

2021年09月25日 | お知らせ
 今日はとてもおどろいた。自分が以前書いた本が、いつでも読めるようにダウンロード可能な状態でネット上に出ているというのだ。北溟社で以前だした『生まれては死んでゆけ』という書物である。みなさんは、危険をさけ、絶対にダウンロードしないでください。

「さいかち真 本 ダウンロードする」とありますが、みなさんは、危険をさけ、絶対にダウンロードしないでください。
以下のような文章がつけられている。

「作家さいかち真は、彼の素晴らしい作品で世界的に知られています。 彼はまた詩歌, 文学・評論のスクリプトを長い間書いています。 注意すべきは、さいかち真は並外れた仕事をしていて、彼の暇なときにだけ彼の本を書いたことです。 最初の成功の後、彼は彼の国で人気を得て、彼の最愛の仕事に彼の自由な時間をすべて捧げ始めました。 世界中で、彼の作品は広く公表され、何百万人もの読者が彼の作品に喜んでいました。 この著者のサイトには1本が含まれています。 言語で書かれた本:日本語。」

断っておくけれども、私はこのような本のダウンロードについての問い合わせを受けた事もないし、また許可を出したこともない。さらに、これを読んだ人は思わず噴き出したのではないかと思うが、ここに書かれていることは、まったく事実と異なっており、はっきり言って、私をおちょくっているとしか思われない。

「最初の成功の後、彼は彼の国で人気を得て、彼の最愛の仕事に彼の自由な時間をすべて捧げ始めました。」

 私が成功したり人気を得たりしているとも思えないが、この「最愛の仕事」が何のことか、わからない。私の最愛の仕事はかくことだけではないし、それに「書くこと」では食えないので、現に平日はふつうに働いている。給料取りの身分である。だから、「彼の最愛の仕事に彼の自由な時間をすべて捧げ始めました」というような、退職・年金生活者でもない。
 まったく、人をばかにするにもほどがある。のみならず、このサイトにアクセスした人に不当な料金が発生したりするのではないかと、それが心配である。当方は、一切、そういうことにはかかわりがありません。

 この本は、内容を訂正して自分でアップしたらいいのかなあ。けっこうネットでも古書で出ているので、ほしい人はそれを買ってください。

西巻真『ダスビダーニャ』

2021年09月20日 | 現代短歌
 クラウド・ファンディングで西巻真さんの歌集が出るというから、楽しみにしていた。最近の「未来」誌を見ても、何かすごみを感じさせる歌がある。作家として油が乗り切ったところで第一歌集というのは、いいタイミングだ。と、書いたところで本が見当たらず、一時間以上探してさいごに鞄のなかを見たら、あった。ダスビダーニャ。ロシア語の響きというのは、体のなかをずんと抜けていくような重厚なところがある。握手もしっかりして、がっちり抱き合うみたいな、そういうあたたかさ。西巻さんが欲しているもの、他者に投げかけたいと願っていることばも、そういうものであるのだろう。それを崖っぷちで摑んでいるということが、読んでみるとよくわかるのだけれども、作品はきちんと自立している。むしろ読んだ感触はすがすがしい。読み手の心を自由に解き放つ詩として昇華されたものになっているから、読んでいてとてもいい気分になると言うか、こころが整う。

 鈍痛は夜やつてくるびしよぬれのサッカーボールが頭上を越える

 生きてゐるぼくをまだ呼ぶこゑがする そのこゑの方へぼくは向かふよ

「あとがき」で近年まで選択していた旧仮名遣いの書法について書いているが、たしかにこの歌は旧仮名遣いだからこそ立ち上がってくる雰囲気をまとっている。

 うすら日を浴びてきらめく三月の街は光の墓としてある

 あなたからもらつた朝のシリアルに昨日の祈りのことを聞きたい

どの歌を引いてもいいのである。しずかでつつましいつぶやきが、どれもみなしいんとした透明なかなしみを湛えながら一本筋の通った詩性を見せている。それはまったく生き難い。じつに生き難いという境遇に住み着きながら、自他の生を透視している。これは別に孤独な観照ではないのだ。自分一人が危ういのではない。三月の街ぜんたいが、そこに住む人びとがすでにあやうい。だから「あなたは昨日祈ったのか?」と尋ねるのだ。

 パヴァーヌはそつと途絶えて息だけがつづいた夏の夜の深い場所

 煉炭で死なうと言ひてくれしひと逝きてわれのみあふぐ夏空

 とめどなくほたるほうたるあざやかなひかりのそとへきみをつれだす

三首目にあるような幻惑する死に近接した美的世界から抜け出そうとする客観的な目、これが作者を生かしめて来たものなのだと言える。「きみ」を連れ出す〈私〉は、自分自身をも連れ出すことができる。これは求めて得られるものではないから、もともと作者が持っていた何かであるし、また表現の世界にかかわるなかで得ることができた力であるとも言ってよいだろうか。「おまへは俺と同行できぬ俺が早すぎて俺すら捨ててゆくけふだから」というような歌もある。私がここに指摘したことの傍証となるかと思う。

 つながりが無言のうちにつづくこと怖ろしWebの賑はひにゐて

 わたしは誰のかげであつたかあをぞらを封ずる雲の腹ふとく見ゆ

 三十を過ぎればみんな散り散りに生きる蜉蝣の浮くこの街を

 Googleが護る世界よゆびさきで渋谷は動く地震のごとくに
  ※「見守る」に「まも・る」、「地震」に「なゐ」と振り仮名。

ここでも、スマホの画面のなかの渋谷は、本来の危機的な状態を露呈して作者自身とともに揺れている。人の「つながり」というものが、もともと世界全体と同じように不安定で危ういものなのだ。「わたしは誰のかげであつたか」。これは謎のような問いかけの言葉であるが、この問いに集約されるような答えにくい問いに答えつづけなければならないのが、「病む」という事であると、とりあえず書いてみる。そのことの意味を詩として定着することによって、世界の不条理に幾分かは応答できたとすれば、報われるものはあったとしなければならないだろう。



  

 

 

諸書雑記 

2021年09月19日 | 
〇最近の一押しは、四方田犬彦『世界の凋落を見つめて』集英社新書
 とにかくキレがいい。

〇高校生に読ませて何か書かせたいと思った文章。うそのない文章を書ける人というのは、世の中にいるものだと思った。
岸田奈美「幸せの選択肢」 「朝日」9月16日朝刊掲載 

〇最近読んで面白かった小説。
『大樹の下に』内海隆一郎(1998年 徳間書店刊) 
『紳士同盟』小林信彦(昭和五十五年 五十七年七刷 新潮社刊)

両方とも横浜黄金町「楕円」という古書店の出品。何となく自分で読んでおもしろかった本を売っているという気配で、外れがない。しかも安いんだよなあ。

<机辺積読記録>

〇『開拓の美名の下で 満蒙開拓青少年義勇軍の記録』(昭和59年8月15日 第三文明社刊)
〇『朝凪夕凪』小見山輝歌集(2015年 潮汐社刊)この著者も少年義勇軍に参加して九死に一生を得て帰った人。
〇『僕の東京地図』安岡章太郎(世界文化社刊)
〇『壺中の歌 わたしの群書群像』秋山清(1974年12月 仮面社刊)
〇『竹久夢二』木村毅(夢二郷土美術館発行 昭和五三年刊) 
〇『森鷗外の百首』坂井修一(2021年刊)
〇『ラジオの昭和』丸山鐡雄(二〇一二年 幻戯書房刊)  
〇『上海狂想曲』高崎隆治(2006年刊 文春新書)
〇『戦場の聖歌(カンタータ)』森村誠一(2017年 光文社文庫)
〇『詩から死へ 安楽死・尊厳死をどう受け止めますか』秋山素子(2016年 幻冬舎刊)
筆者は長く「鹿火屋」に所属した人。竹下しづの女の句をもとにつづった書。
〇『ドストエフスキー 謎とちから』亀山郁夫(2007年刊 文春新書)
〇『詩の逆説』入沢康夫(一九七三年 サンリオ出版刊)
〇『日本の若者はなぜ社会的エネルギーを失ったのか』羽角章(2019年8月 七つ森書館刊)
〇『現象学と表現主義』F・フェルマン(1984年刊 86年第三刷 岩波書店)
〇『精神現象学 上』熊野純彦訳(2018年 ちくま文庫)
〇『人間の未来 ヘーゲル哲学と現代資本主義』竹田青嗣(2009年刊 ちくま新書)
〇『万葉集の古代と近代』内藤明(二〇二一年 現代短歌社刊)
〇『万葉集講義』上野誠(2020年 中公新書)
〇『色彩浴』小林英樹(2003年 ポーラ文化研究所刊)
〇『薬師寺 散華妙聚』(昭和六十一年十月九日 薬師寺発行)
〇『人生の伴侶 光本恵子エッセイ集』(2015年 ながらみ書房刊)
  転げ落ちる 蹴り落とされる 雨土を掘ってうねる大蛇に群がる男
御柱祭を活写した歌。
〇『芸術とは無慚なもの 評伝・鶴岡政男』三田英彬(一九九一年 山手書房新社刊)
〇『ボタン落し 画家鶴岡政男の生涯』鶴岡美直子(2001年 美術出版社刊)

 読んでいない本もある。いただいた本もある。以前買ったのを手元に持って来たものもある。最近買ったものは、やはり新刊より古書が多い。直上の二冊は、えびな書店の美しいカタログにあった。画家の鶴岡政男は、言うなればお祭り男だったのだが、その狂騒の底には戦場体験があった。
 
昭和史、特に戦争の時代のものについて興味がある。日本の戦後の画家について、美一般についても。古代については、やはり祝祭論がポイントになるのではないだろうか。
文学というのは、エロス的なものがにじんでいないと研究でもなんでもツマラナイものになってしまう気がする。エロス的なものは自己疎外を経ないとうまく表現できないというところがあるから、そこをうまくクリアできる表現者は実に少ない。見慣れたもので安心するという許し合いの世界もあるが、そういうものは、どこか突き抜けていないので退屈だ。




恒成美代子『而して』

2021年09月12日 | 現代短歌
 恒成さんから本が届いた。『而して』には「しかう・して」の振り仮名がついていて、「しこうして」と読む。

 見る前から、どのような内容の歌集かということは、同じ「未来」の会員だからわかっている。詩人の中野修、ページをめくると六十四歳ですい臓がんのために逝ったという夫のために編んだ挽歌集であるはずだから。それはもう、つらくてかなしくて、せつない思いがいっぱい詰まった歌集ではあるのだけれど、この中野修という人の死生観、死を受け入れる姿がせいせいとした、潔いものであった事が、その最期を看取った妻の美代子さんの歌にも反映しているようなのだ。つまり、じめじめしていない。

 さらにまた、事柄と事象の客観的なすがたとあらわれを描くことを通して、自己の情念を形象化するという手続きを踏む「アララギ」「未来」の系譜の叙法の伝統が一集を通して貫かれているせいもあるだろう。押しつけがましくないのである。これに加えて、安易に九州女といったカテゴライズされた類型の中に作者像を押し込めるつもりは毛頭ないのだけれど、大分県出身で長く博多に住んでいる作者には、やはりそう言ってみたくなるような、勁くてへこたれない作者主体の力がある。それがこの一集を読みやすく、風通しのよいものにしている。それは、随所にさしはさまれたショート・エッセイのせいもあるかもしれない。悲しみをのべるにあたって、きちんと自己対象化するという手続きを踏もうとしていることが、よくわかるのである。それは詩人である夫の死生観と文学観を踏まえたものでもあるのだろう。

 ばらいろの雲を眺めて小半時しあはせなりし日々の退きゆく

 踊子草こんなところに咲いてゐたこんな所迄けふわれは来て

 ウォーキング終へて戻り来「ただいま」と声をかけれど声は応へず

 秋霜にしとど濡れをり上を向き淡き花咲く段戸襤褸菊

     ※「段戸襤褸菊」に「だんどぼろぎく」と振り仮名あり。

 またしてもきのふと同じ夢を見るきのふと同じわれにあらねど

 博多中洲のラーメン屋台に無口なりしあなたがひとこと「替へ玉」と言ふ

私はこの文章をルービンシュタインの奏する「パガニーニの主題による狂詩曲」を聴きながら書きはじめたのだけれど、その調べを通して短かった夫と再婚の作者の老年の蜜月の間を思い、同じアルバムの幻想小曲集第二番前奏曲の調べに託して私も追悼の気持ちを述べようと思う。そうして、

  「美代子さん、ねえ、笑ひなさい、ほら、笑ひなさい」雨のあぢさゐ艶ます午後を

 というような歌を、妻に詠ませた男の幸せを思ったのである。

川野里子『天窓紀行』

2021年09月06日 | 現代短歌
 半分以上読み終わったところで『天窓紀行』という歌集のタイトルを見て、なるほど、コロナの日々をたとえて言うと、それは天窓から空をのぞくようなものかもしれないと、思ったのだ。それまで書名に目をやっていなかったのだから、うかつな話なのだが、仕事から帰宅して畳の上に寝そべりながら気軽に手に取って読む気分にさせられる本の造りから、おのずとそういう読み方に誘われたのでもある。

  二月二十五日(火)
  〈マスクしばらく入荷しません〉しばらくといふ時間のしんと載る棚があり

 ほんとうにそうだったなあ、と思い出す。あの感じをことばでつかまえたら、こういうことだった。

  四月二十日(月)
  ハズレ馬券のやうなるマスク一億枚つめたい花びら散りくる散りくる

 国の予算というものがあって、それを受注する会社というのがあって、それを下請けに丸投げしていくうちにどんどん税金が食べられて減っていく仕組みというものが、この何年かでけっこう国民全体の前にあらわになってしまった。マスクもそのひとつ。

  四月二十三日(木)
  Too Little Too Late,Too Little Too Late 鳥鳴きわたる
  「政府の対応が遅い、とにかく遅い。普段無口な夫もしゃべり出し、通りすがりの犬も吠え、とうとうマンホールも愚痴をこぼすようになった。」

 こういうイライラから気をそらすために成立した内閣がやっぱり馬脚をあらわした先日の事態ではある。当時は中国要人を迎えたいからだと、巷間もっぱらのうわさだった。

あとは、ここにも出てくるが、本の中に点描される自分と同世代らしい作者の夫の姿が、ほとんどわが事として読めるのが楽しい。こういう現役引退後の夫と妻の何気ないやりとりや、最近失くした母親のこと、それから病気の友や亡くなった友のことなどがうたわれる。それは、さながら読んでいる私自身の人生上の感慨と重なるところがある。そういうきわめて極私的な読み方を誘われる歌集の読み方をよしとしない、というのが私のポリシーではあったが、まあ、読んで退屈しないということにはじまって、これもありだよな、というところから久しぶりに何か書いてみる気にさせてくれたのだから、私としてはまず作者にお礼を申し上げたい。

ダイヤモンド・プリンセス号、というハイソで俗受けしそうな名前の船のことや、マスクの不足、パンデミックをこわごわ待っていた時期のことなどが、形状記憶として保存されたまま何となくかえってくるところが、短歌の長所を生かしたこの本の日録的な連作の強みになっている。あとはやはり季節の変化が時系列で自然にはいってくるところが、熊本県出身の作者の生理的な呼吸に即して感じられるのだ。この夏は作者の故郷では水害もあった。外出自粛の間にもさまざまな事件と出来事は続いて生起しており、帯には「人間はなんと激しい旅を続けていることだろう。」とある。単なる日録にとどまらず、国家社会から宇宙と人類の悠遠のかかわりにまで幅広い思念をめぐらせて歌を構想している構えの大きさのようなものに読者が示唆されるところは多いにちがいない。

 八月十八日(火)
 犬も笑ふと聞きたりひとり白昼に思ひだし笑ひする犬あらむ

表紙と扉にはアルマジロの絵がみえるが、この歌集には動物の歌がたくさんあって、それをさがして読む楽しみもある。八月十七日の「爆弾池に育つ海老ゐてかすかなる髭振りてゐき髭怒りゐき」もいいなあ。子供の頃に息をつめて見ていた海老の動きを思い出した。